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物の扱い方

上野公園の西郷隆盛像の作者として有名な高村光雲は、

もともと大工の息子であったそうです。


それがある日、浅草の観音様にお参りしたとき、

たくさんの参拝者の姿を見て、

「同じ鑿(のみ)を持つのなら

 人様から合掌して拝まれる仏像を彫る仏師になりたい」

と思い立ち、高村東雲に弟子入りを志願します。


光雲の入門を決めるその日、

東雲は光雲に対し、「そこの井戸の水を汲んでみろ」と言います。


指示された通り、つるべで汲んだ水を

手桶に移しているのを見ていた東雲は突然

「さっさと帰れ!」と怒鳴りました。


光雲が叱られた訳も分からず、ただただ驚いていたところ、

東雲は静かに語りかけました。


「弟子入りしたいとやって来たときの挨拶をもう一度ここでやってごらん」

「人様から拝まれる仏像を作る仏師になりとうございます。弟子入りをどうぞお許し下さい」

「その願いに嘘はないか」

「はい、ありません」

「では言おう。人様から拝まれる仏像を作るのなら、

 すべてのものを拝んでいく心を掴まないと仏像は彫れないぞ。

 それなのになんだ、あの水の汲みざまは。

 こぼれてもこぼれても平気でザアザアと移していたではないか。

 水を粗末にするような心で、人から拝まれるような仏像が作れると思うのか」


光雲はこの時の師匠の言葉を、生涯忘れなかったそうです。


さて、「身をもって祈る」という言葉がある通り、

日々の生活の営み自体が祈りにならなくては、

本当に神様を拝んでいることにはなりません。


朝、目が覚めたら布団にお礼を申し、

洋服に「お世話になります」とお願いする。

食事を頂くときには、食材と、

その加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、

食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂くのです。


もちろん布団も洋服も食器も返事はしません。

しかし、物を通して神様にお礼を申すのです。


そういう生き方を進めていくところに、

有難いおかげ(御利益)が生まれていくのです。

浄土真宗の開祖である親鸞が、ある日、

弟子の唯円(ゆいえん)にこのように言いました。


「お前は私の言うことを何でも聞くと言うが、

 それでは、人を千人殺してこい。

 それができたら、お前の極楽往生は間違い無い」


唯円は師匠の言葉に驚いて、

「とんでもございません。私は一人とも人を殺すことなど出来ません」

と許しを乞いました。そこで親鸞は続けます。


「お前が人を殺せないのは、お前が善人だからではない。

 ただ、お前に人を殺す縁が無かったからなのだ」


“縁”というものについて、大変考えさせられるエピソードであります。


植物は土地に種を蒔けば必ず花が咲く、

というものではありません。

花が咲くためには、時間以外にも、

新鮮な空気と水、そして太陽の光などの様々な「縁」が必要となります。


人間も同じことで、もともと善人と悪人がいるわけではありません。

白と黒、善と悪の間に人間があり、そのどちらにもいくことが出来るのです。

何らかの縁で上に昇ることもできれば、下に落ちることにもなる。

あらゆる悪も人間から出てきますが、

同時にあらゆる善も人間から出てくるのです。


ですから「人を助ける」というのも、

私たちが進んで人様の良い「縁」とならせて頂きたいと、

願うことに他なりません。


お道の教えにこのようにあります。

『不幸せな者を見て、真にかわいそうと思う心から、

わが身を忘れて人を助ける、そのかわいそうと思う心が神心である。』


私たちが誰かのことを「何とかあの人が助かってほしい」と思う時、

その心は神様と同根であり、

神様と同じ働きが生まれるということです。


私たちに人を助ける力など無いかも知れません。

しかし、その人を助けたいと願う心に神様が居られて、

人を助ける働きを現わして下さる。

良縁というのは、そこで生まれてくるのです。

叱る前に

昭和を代表する評論家、

亀井勝一郎氏は「叱る」ことについて、

「人を叱る資格など自分には無いと痛感する」

ことが大切であると言っておられます。


親は子どもに、上司は部下に対し、

「叱る」ことによって彼らの成長の手助けをすることも

大切な役目の一つではあります。


しかしその叱り方を誤れば、成長するどころか

相手をただ傷つけ、人間関係まで壊してしまいかねません。


そこで亀井氏は、叱る前にまず自分を見よ、

と教えているのです。

自分をしっかりと見てみれば、人を叱れるほど立派な人間ではない。

そんな未熟な自分が役割の上で相手を「叱らせて頂く」のであります。


日本の古い諺に、

「子ども叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」とあります。


子ども叱るな」とは、

子どもを叱ってはいけないということではなく、

子どもを叱る前に、自分も同じ年の頃には同じようなことをしたのだと、

自分自身を振り返ってみよということです。


「年寄り笑うな行く道じゃ」とは、

自分も年をとったら目の前の年配者のように、

もの覚えが悪くなったりもするのだと、

自分を相手に同化させて見てみよということです。


そうすれば、相手に対する注意の仕方も大きく違ってくるでしょう。

頭からやみくもに怒鳴って責めたりするのではなく、

愛情と寛容さをもって、落ち着いて接することができるはずです。



先覚の教えにこのようあります。

『見ること 見ること 自分を見ること(高橋正雄師)』


大切なことは自分自身を見ることであります。

相手を見るときにも、

自分の過去と未来の延長線上でその人を見るようにする。


そうすれば、亀井氏が言うように

「人を叱る資格など自分には無い」ということがよく分かるはずです。


そこではじめて自分の我が解け、

本当に相手の立場に立ったものの考え方、

叱り方ができるようになるのです。
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