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道で仏に逢えば、仏を殺せ

太陽の塔などの作品で知られる岡本太郎さんが、

ある講演会でお話された際、

臨済禅師の「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という教えについて、

参加者に対し、このように問いかけました。


「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、

京都の街角に立っていて御覧なさい。

仏に出逢えると思いますか。

逢えると思う人は手を上げてください」


誰も手を上げません。岡本さんは続けます。


「逢いっこない。逢えるはずはないんです。

では、何に逢うと思いますか」


誰からも返事はありません。

そこで岡本さんは言いました。


「出逢うのは己自身なのです。

自分自身に対面する。

そうしたら己を殺せ」


たいへん考えさせられるお話であります。


己を殺す、というのは本当に殺す、死ぬという意味ではなく、

自分と仏、自分と他人という

対立した見方、考え方を無くすという意味ではないかと思うのです


自分も無ければ、他人も無い。

仏、神というのも自分と離れて存在しているのでない。

この自分というものは、自分だけの自分ではなく、

全体の一部として自分があるということに気付くことが大切です。

そこに至ってはじめて、これまでの悩みや問題の一切が無くなるのです。


自分とすべての物とを別に見、

対立させて考えているというところが変わらぬ以上、

他に対する是非善悪の批判を無くすことは出来ません。


自分を生かす無数の働きに目を向け、

耳を傾けることが出来れば、

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてきます。


夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。


自分が気付こうと気付かまいと、

自分を生かそうとする働きがこの天地の中に満ちわたっていて、

その中に生かされて生きている自分であることを知ることが肝心要なのです。


人もわが身も

子供の純粋な心に差別意識を植え付けるものとは、

一体何でしょうか。その具体例として、このような話があります。

三歳ぐらいの子供を連れた母親が、

水道工事をしている人たちのそばを通りながら言い3ます。


「おじさんたちが、こうして働いていて下さるおかげで、

 おいしいお水が飲めるのよ。ありがとうといって通りましょうね。」

同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。

子どもに向かって言いました。

「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」


価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられます。

子どもは親や教師の「いう通り」になりませんが、「する通り」になると言われます。

最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、

労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、

二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植えつけたのです。


『人は生まれながらにして平等である』という言葉がありますが、

この資本主義社会を見てみれば、

生まれた環境によって、生活水準も受ける教育も大きく違ってきます。

経済的な観点から言えば、「平等」とは程遠いのが現実ではないでしょうか。


お道の教えにこのようにあります。

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身も人である』


これは、みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、

「自分」や「他人」などという区別など、もともと無いのであるという、

まことに深遠な教えであります。


私たちの「いのち」というものは、

他の多くの「いのち」と繋がり、支え合って存在しているのです。 


ですから、経済的には上下はあっても、

「いのち」には上下などありません。あるのは繋がりなのです。


ですから、真に教養のある人とは、

今の自分の幸せを人に分けてあげられる人のことを言うのです。

そして、自分の幸せを人と分かち合うところにこそ、本当の幸せがあるのです。

痛いことも辛いことも

お道の教えに、このようにあります。

『人間、生身に痛いかゆいは当たり前である。

…これがもとで信心もできるようになり、

これが修行になって信心も進んでくる。

人間は勝手なものであるから、痛いかゆいがあるとご信心できるが、

どんなにもなかったら信心が寝入る』


一見「不幸」に見えることの中に、

神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。


中国・唐の時代、大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師は、

「この道さえ歩いてゆけば、

絶対にまちがいのない真実の道とは、一体どのようなものか」と問われ、

たった一言、

「七転八倒」

と答えられたそうであります。


普通なら、何度転んでも起き上がる

「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、

禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。

つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、と弟子に教えたのです。


人間というのは、どこまでいっても

未完成、不完全であり、

生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものです。


しかし、その転んで倒れることの中にこそ、

私たちが求めてやまない人間的な成長、

生き甲斐があるのも事実でしょう。


例えば、病人へのお見舞いでも、

自分も同じ病を患ったことがあれば、

心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように人を慰めることで

自分自身が慰められるという働きにも気付くことが出来るでしょう。

それは「病」という一つの石に転んで倒れた経験のおかげなのです。


信心も同じことで、苦悩や絶望が縁となって、

神様の願いに気付かせていただき、真の生き方に目覚めるのです。

そこから自然と手が合わさるようになります。


肉眼で見れば災難であることが、

信心の眼で見れば、それは神様からの「プレゼント」なのです。


ですから痛いことも辛いことも、

七転八倒している正にその時、

その出来事の中にどれだけの願いが込められているか、

どれだけの飛躍の種が詰められているかということに

心を向けなくてはなりません。

自分の顔

リンカーンが大統領の時に、

彼の親友がある人を内閣に入れたらどうかと薦めましたが、

リンカーンは、「彼の顔が気に入らないから嫌だ」と返しました。


それを聞いた親友が、「顔は生まれつきなんだから、彼に責任はない」と反論したところ、

リンカーンは「人間というものは、四十歳にもなれば自分の顔に責任がある。あんな顔をしているのではだめだ」

そういって断固受けつけなかったそうです。


リンカーンが言いたかったのは、顔そのものではなくて、

顔に表れる表情や雰囲気のことでしょう。 

人生経験をある程度積んだ四十代にもなれば、

それまでの生き方や考え方が自然と顔に表れてくる、というのは納得できる考え方です。


さて、それでは「いい顔」とは一体どのような顔なのでしょうか。

お道の教えには、このようにあります。


『このお道は喜びの道であるから、それをご信心申す者が、

 喜ばぬつらい顔をして日を過ごしてはならぬ。

 天地の親神様をご信心するのじゃもの、天地のような広い心にならねばならぬ。』

生身で生きているのですから、痛いことも辛いことも色々あるのが人生です。

困難が無い人生なんて在り得ないでしょう。

しかし、そこで不足ばかり並べてみたところで物事は好転して行きません。


神様にお願いするにも、不足を土台にしては心も顔も歪んでしまいます。

思いつく限りのお礼を土台に笑顔で信心させて頂くことが大切なのです。


プラスを感謝することなら誰にだって出来るでしょう。

しかし、苦悩や絶望といったマイナスの淵にあって、

「ありがとうございます」と手が合わせることが出来るのが信心の有り難いところであります。


また、そのような信心をされている人というのは、

周りの環境がどうであろうとも、

いつも心に神様が居られるので、自然と笑顔がにじみでるのです。


同じ苦労をするのなら、その苦労の経験が、

やがては自分の大切な人のお役に立つようにと

神様が差し向けて下さったのだとお礼を申しましょう。


その苦労は人生の尊い宝となり、

自分の顔を、厚みがあり、また味わいの深いものにしてくれる筈です。

自分が変われば

ロンドンにある世界遺産ウェストミンスター寺院の地下室には、

次のような碑文が刻まれています。


『何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、

私は世界を変えることを夢見ていた。

ところが、年を重ねて賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。


そこで、目指すものをもう少し近いものにして、

自分の国から始めることにした。だが国も変わらなかった。


老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。

自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。

だが、悲しいことに、これすらままならなかった。


今、私は死の床についている。

なんと、今になって初めてわかったのだ。

変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。

自分が変われば、家族も変わっただろう。

そして家族に励まされ支えられながら、国をよくすることもできたろうし、

やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ。



人間は、自ら背負った運命というものを、

明るい方向へも暗い方向へも変え得る力を与えられて生まれてきています。

それだけに難しい問題も多々あるわけですが、

運命を明るい方向へ展開してこそ人間に生まれた甲斐があるというものです。 


本気で自分の運命を開き、今の環境を改善したいと本気で願うのであれば、

唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改めなければなりません。


雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心が晴れ渡っている。

周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、

物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。

そのような本当にしっかりとした人間にならせていただくことを願い、

実践することが心を改めるということです。


幸せや成功は、言わば私たちの心の影であります。

影は形にそうのが道理です。

自分の心を変えることで自分の運命が、人生が変わっていくのです。

このことを決して忘れてはなりません。
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