FC2ブログ

天地の心になって

教育者である甲斐和里子(かい わりこ)さんの歌にこのようにあります。

『岩もあり 木の根もあれど さらさらと

 ただ さらさらと 水のながるる』


山を流れる川の水のように、

途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。

そのような何事にもとらわれない在り方こそ、

私たちの求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。


ところが、そうした流れを邪魔するものがある時に、

そこから問題が起きてきます。


川の流れで言いますと、

一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、

そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。


なぜ心の流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、

それは執着というものが川底にこびりついているためです。


お道の教えにこのようにあります。

『何事にも無理をするな。我を出すな。

 わが計らいを去って神任せにせよ。

 天地の心になっておかげを受けよ』


我とか執着というものは、

一つの事にこびりついて動かぬものを言うのです。


物事に対しては、こうでなければならない。

人に対しても、こうあるべきだ。

お金や名誉、健康などに対しても、こうでなくては困る、

という思いがありますから、そこから心配や腹立ち、

不満足、不足の心が出てまいります。


人間関係を例にとってみますと、

あの人はこうだ、こうあるべきだ、

と決めつけてしまう心があるために、

その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなるのです。


もっとそれが自由な見方が出来るようになってくると、

人を決めつけたりせず、

相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、

何故そういうことをしたのだろうか。何か訳があるに違いないと、

その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、十分に察することが出来るのです。


そうなってくると、一人の人間を相手どって、

ああだこうだと責めないで済むようになる。

人間関係でおかげを頂いた、と言えるのです。

これでいいのだ

助かりたいという心は、

きっと誰にでもあるものでしょうが、

その心の根底を調べていきますと、どうも

「このままでは困る」

「このままだと安心出来ない、不満足である」という心があります。


あの上司がどこか異動になってくれたら助かるのに…。

もうすこし自由になるお金があれば助かるのに…。

この病気が治ってくれたら助かるのに…。


私自身、そのような「このままでは困る」

という心がいくつもございまして、

そこで、私は一体どのようになれたら心底助かったと言えるのだろうか、

と考えてみましたところ、『これでいいのだ』という心になれた時こそ、

本当に助かったと言えるのではないかと思うのです。


『これでいいのだ』というのは、

仕方が無いと諦める心ではなく、

このままでよい、これでこそよかったのだと

感謝して受け入れる心であります。


お道の教えには、このようにあります。

『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、

 このほかには何もないのであるから、

 人の身の上にけっして無駄事はなされない。

 信心しているがよい。みな末のおかげになる。』


生身で生きているのですから、痛い辛いがあるのが人生であります。

困難が無い人生なんて在り得ないでしょう。

しかし、その困難の中に、神様の御心を見出すのが信心であります。


神様が可愛い可愛い氏子に対し、

わざわざ氏子が困るようなことを差し向けておられるのです。


ですから、こちらとしては、

その差し向けられた困難の中にある「おかげ」を

しっかりと受け取ろうじゃありませんか。


病気なら病気のままに、その病気を神様からのお差し向けとして、

その病気をしっかりと味わい、そこで自分の生き方を見つけていく。


病気になったおかげで、

健康のときには分からなかった人生の別の価値がわかり、

他人の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。

自分はそのためにこそ病気になったのだ、 

これでいいのだ、これでこそよかったのだ

と思えた時、失ったものより遥かに大きなものを、

私たちは手にしたことになるのです。

信心と依頼心

不幸せな人と言うのは、何かしら不足を言われるものですが、

そのような不足というものを、さて、一体誰が埋めてくれるのでしょうか。


そこで大半の人は自分の身近な人間を頼りにします。

その相手に対して、お金なり親切心なり、

何かしら自分の不足を埋めてもらおうと躍起になります。


しかし考えてもみれば、その頼りにしている相手だって皆不足があるのです。


相手だって、誰か自らの不足を埋めてくれる者は居ないかと、

頼る者を捜しているのです。


世の中の不和の原因というのは、実はここにあります。

家庭での夫婦や親子、兄弟の不和や、職場での上司と部下の不和にしても、

不和という不和はすべて

お互いに自分の不足を相手に埋めてもらおうとするところに生じるのです。


人間が本当の意味で幸せになるには、

自分自身の足りないものを誰かに埋めてもらおうとする

依頼心を捨てなければなりません。


このようなお話をさせて頂きますと、

「誰も頼りにしない生き方なんて冷めた生き方だ」とか、

「頼り合うためにこそ、家族や友人があるのだ」

と反論をいただくのでありますが、よくよく考えてまいりますと、

それは間違いであります。



頼り合うことが、本当に頼りになればそれでよいのですが、

「頼ろう」とすることと、「頼りになる」こととでは、全く次元が違うのです。


頼りになるというのは、

誰かに頼ろうとしない人が本当に頼りになるのであって、

あの人に頼ろう、この人に頼ろうとする人は、頼りになりません。



信じる心(信心)とは、頼る心(依頼心)ではありません。


信じるということは、

相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、

こちらが相手の思うように動きたいと願うことであります。


本当の夫婦関係、本当の友人関係というものは、

お互いに頼ろうとはしないものです。


相手を頼ろうとしないで、

むしろこちらが相手の頼りになっていこうとしていく。

そういう人間同士が一緒に生活をして、

友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、

それが本当に頼りになる関係となるのです。

目が見えるということ

孔子が大勢の弟子とともに

荒野を移動していた時のことです。

ある戦に巻き込まれ、孔子の一行は食料に窮しました。

段々と皆が弱り、中には不足を言う者まで出てきます。

そこで、勇気ある弟子の一人が戦地を走り抜け、

僅かばかりの米を調達して帰ってきたのです。


皆、久しぶりに御飯が食べられると大変喜び、

そして孔子の一の弟子である顔回(がんかい)が御飯を炊く当番となり、

その他の弟子達は孔子の話を聞くことになったのですが、

ある弟子の一人が思いがけず顔回のとんでもない行動を見てしまうのです。


それは、顔回が釜の御飯を手で掴み、

自分の口に入れたその瞬間を陰から見てしまったのでした。


「一の弟子とも言われる者が、普段は道とか誠とか言っていても、

 こんな浅ましいことをする。道の力とはたいへん弱いものだ」

とその弟子は怒りに震え、孔子に訴えました。



すると孔子は、静かに

「そうか、お前が見たのならば嘘ではあるまいが、顔回は小人では無い。

 きっと何か理由があったのだ。顔回を呼びなさい」


そして、顔回に問います。

「お前が炊いてくれた御飯を、

 まずは私たちの先祖にお供えしようと思うのだがよいか」と。


すると顔回は

「それは大変申し訳無いことをしました。

 先程、御飯が炊けただろうと思って釜の蓋をとった際、

 煤の固まりが御飯の上に落ちまして、

 すぐに煤のついた御飯を手に掴み捨てようとしたのですが、

 いや、この米は大変な苦心のこもった米であると思い返し、

 煤を取り除き、あとの米を私が先に食べてしまいしました。

 ですから、もうお供えすることは出来ないのです」と。


何の隠すところも無い。

何のやましいところも無い。

顔回を疑ったその弟子は深く恥じ入りました。 


普通ならば、すぐに顔回を責めたり、

弟子を慰めその場を濁したりしてしまうところですが、

孔子はそうはなさらなかった。

ハッキリと目が見えておられたので、

少しもごまかされることなく、道を現されたのであります。


さて、自分の目はどうでしょうか。

ハッキリと見えているのかどうか、考えさせられるのであります。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター