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浜千鳥の歌に込めて

初代教会長である木津信一師は、

教話の前にはよく、童話の『浜千鳥』を歌われたそうです。


青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色
 
夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀のつばさの 浜千鳥


なかなか意味の深い歌詞であります。

現実の世界での浜千鳥の親鳥は、

卵から孵ったばかりのひな鳥をすぐに見捨てるようなことはしない筈です。 


しかし『浜千鳥』の歌詞の中では、

生まれたてのひな鳥が親を探して鳴き、

親を尋ねて海を渡ろうとするのです。

これは一体どういう意味なのでしょうか。


おそらく初代先生は、

親を尋ねて暗い月夜の中を行くこの浜千鳥を、

親たる神様を尋ねて難儀の中を行く人間、私たちになぞらえて、

神様の有難さを語ったのではないでしょうか。



淋しく、落ち着かず、たよりない心持ちで

道も方角も見失っている時に、

何処かで自分を呼ぶような声がする。


その声を頼りに近づいて行くと、

声の主もまた、こちらに近づいて来るようです。


はっきりと自分の名を呼んでいることに驚いて、

よくよく近づいてみると、

自分をずっと呼んで下さっていたのは、正しく自分の親であったのです。


「わしは決してお前を見捨てはしない。

困っているお前を見て、ずっと呼んでおったのだ。

もう決して離れるでないぞ」

と言う声を聞いて、有り難うございます、

と言って、親の懐へ帰って行くのであります。


初代先生は、信心させて頂くということは、

人間の親である神様の懐に帰っていくことであるということを、

『浜千鳥』の歌に込められたのではないでしょうか。

私はそのように頂いているのです。

親神様

お道の教えに、このようにあります。

『神は人間の親神である。

 かわいいわが子を、どうして難儀に遭わせなさるであろうか。

 わが子をもって納得するがよい』


自分のことなど忘れ、助けずには居られないというのが、

親神様の御心であります。


どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。

よしお前がどんなに悪い者であろうとも、

どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。

悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、

なお助けずには居られない。


わが子に対する親の心とは、そのようなものではないでしょうか。



この世に生まれ、世の中というものがだんだん分かってまいりますと、

本当に頼りになるものなど何も無いということを思い知らされます。

これこそと思ったものが遠慮無く倒れてしまい、

この人こそ大丈夫と思った人が変わってしまい、

そうしてこの世には本当に頼りになるものはないのかと探すのですが、

探せば探すだけ見えなくなっていきます。


しかし、お道の教えを聞かせて頂くことによって、

神様が、「お前を助けずには居れないのだ」と仰って

ずっと自分を呼んで下さっていたことが分かってくるのです。


あぁ神様が、そこまで私のことを御守り下さっていたのか。

私の心配事について、私以上に心配して下さっていたのか。

私が腹を立てる時には、それ以上に、神様が御心を痛めておられたのか。

そのような親神様の御心が分かってくるのです。


人間が不平不足を言ったり、心配したり、腹を立てたり。

どうも心の中に落ち着きがなかったりするのは、

この親神様の御心が分かっていないためです。


私たちが本当に「有り難い」と思える時。

それはどこまでも助けずには居られぬと言って、

私たちが起きている時も寝ている時も、

ずっと神様が御守り下されているということを分からせて頂いた時、

本当に心から「有り難い」と思えるのです。


信心させて頂くということは、

親神様のそのような思し召しを分からせて頂くことなのです。

天国と地極

五百年に一人の名僧と言われた白隠(はくいん)禅師に、

このようなエピソードがあります。


ある日、禅師のもとにたいへん立派な武将が訪ねてきて、

このように問いました。


「白隠殿、天国と地獄は本当にあるのでしょうかな?

 もし本当にあるならば、どこにあるのか教えては下さらぬか?」


すると禅師は、いきなり大笑いしはじめ、その武将に対して、


「身なりだけは立派なようじゃが、そんなこともわからんとは、

 本当にまぬけな侍じゃのう!」

と罵声を浴びせたのです。それを聞いた武将は、

顔を真っ赤にして激怒しました。


「この無礼者めが! 叩き切ってくれるわ!」


そう怒鳴るなり、刀を抜いて禅師に振りかざします。

禅師はそこで間髪入れず言いました。


「それが地獄じゃ! 地獄の門が開かれたぞ!」


はっと気がついた武将は、深く恥じ入り、


「なるほど、そういうことですか。

 地獄とは己自身の心が創り出すもの。

 ものの本質を見ようとせずに、

 ただ己の心の状態に振り回されていることなのですな。

 いや、これはありがたい…」


と言って、深々と頭を下げたということです。

そこで禅師は、にこりと笑ってこう言います。


「ほれほれ、天国の門が開かれましたぞ」


地獄も天国も、

それを受け取る人間の心の中にあるというわけです。


お道の教えにこのようにあります。

『おかげ(幸せ)は和賀心にあり。

 和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』



結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、

受け取る側の心に良い悪いがあるのです。


その心の有り様に、天国と地極がある。

幸せも不幸せも、自らの心が決めるものなのです 


幸せとは、和らぎ喜ぶ心。

今この瞬間、周囲の人や物事に対して感謝できている心の状態を言います。


ですから私たちは信心して、

神仏に対し、人や物事に対し手を合わせ、お礼を申していくのです。


有難く手を合わせたその時に、天国の門が開かれるのです。

元日の心

元日には、皆が「おめでとう、おめでとう」と言い合い、

新年を喜び合います。


日本人にとって元日とは、

単に年度が変わったということだけではなく、

生命が改まって再生するという、民族的な心情が心の底にあるのではないでしょうか。


そのために、すがすがしく新しい心と感動を持って、

元日を迎えることが出来るのです。


暦の上では元日も他の日も一日には変わりありませんが、

年改まる元日には、人間の心情をも改まらせる働きがあり、

それがたいへん有り難いことだと思うのです。



お道の教えにも、このようにあります。

『信心は日々の改まりが第一である。

 毎日、元日の心で暮らし、

 日が暮れたら大晦日と思い、
 
 夜が明けたら元日と思って、

 日々うれしく暮らせば家庭に不和はない』



「元日の心」とは、改まりの心であります。

今日という日を迎えた感動の中で、

「今日こそは」「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省の胸に神仏に手を合わす。


そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような心、願い、行動を毎日続けることが信心であります。


信心になれば、家庭に職場に、

良い人間関係が生まれ、幸せな人生を歩んでいくことができます。


だからこそ、元日の今日。

この心持ちを、しっかりと見ていき、味わっていき、保っていき、

そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが、大切です。


信仰上の修行というのも、そのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、

断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、

何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。


このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とするのです。


元日の心を携えて、日々の生活を有り難く送っていくその中に、

有り難いおかげ(幸せ)が生まれて行くのです。
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