FC2ブログ

上善は水の如し

『老子』の中に『上善は水の如し』という言葉があります。


上善とは「最も理想的な生き方」という意味であり、

そういう生き方をしたいと願うならば、

水のあり方に学びさない、という教えであります。


川を流れる水を想像してみて下さい。

途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。

水というものは、その時々の環境に応じて

自由自在に動いていくところにこそ、その本質があるのです。


人間の生き方も、何事にもとらわれることなく、

どこどこまでもさらさらと生きていけるようになった時にこそ、

本当に「助かった」、「救われた」と言えるのでありまして、

それが私たちが求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。



ところが、そのようにさらさらと生きることを邪魔するものが、

私たちの心の中にある。

それを「我」と言い、また「執着」と言います。


「我」も「執着」も、

一つの事にこびりついて動かぬ心のあり方を言うものです。



川の流れで言いますと、

一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、

そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。


なぜ流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、

それは「我」なり「執着」なりというものが川底にこびりついて、

水の流れを邪魔しているためです。



お道の教えとは、どんなことにもとらわれず、凝らず、迷わず、

しっかりとした生き方をしていくことを心に決めるものであります。



他人を見る見方においても、

あの人はこういう人間だ、と決めつけてしまうところから、

その相手のことをあれこれと悩まなければならないようになる。


それがもっと自由な見方が出来るようになると、

相手を決めつけることなく、

その人が何かした場合にも、

それにはどういう事情があったのだろう、何か訳があるに違いない、

と察することが出来るようになり、

責める心がおさまってくるのです。。


「我」や「執着」を離れていくことで、

山を流れる川の水のように、さらさらとした生き方が出来るようになるのです。

今を生きる

『それ見たか 常が大事じゃ 大晦日』

まだまだと思っている内にやってくる大晦日を目の前にして、慌てる私たち。

毎年、年末になると頭に浮かぶ歌であります。


「常が大事じゃ」というのは、

今月今日、只今(ただいま)を大切に生きるということであります。


しばしばお話しさせて頂く中国の皆喜禅師(かいきぜんじ)は、

その名前の通り、すべてを喜んで生きていくことを心に決めた方であります。


天気が良い日は「畑仕事が出来て嬉しい」と喜び、

雨が降る日は「本が読めて嬉しい」と喜びました。 


お寺は山の中にあったのでしょうが、

人が訪ねて来れば「世間のことがよく知れて有難い」と喜び、

誰も訪ねて来なくても「静かに座禅ができて有難い」と喜びました。


皆が暑い、寒いと不足を言う日でも、

皆喜禅師にかかれば「季節の味だから、結構なこと」と喜ぶ事柄に変わってしまうのです。


明るい性格はいつの時代も人を呼ぶものですが、

この太陽のような皆喜禅師の周りには、

老若男女問わず、多くの人々が集まってきたそうです。



では、この皆喜禅師という方は生まれながらの楽天家だったのかというと、

実はそうではなく、「喜びに目を向ける」修行をされていく中で、

そのような人間になれたと言うのです。


「過ぎたることは、善悪共に過ぎておるのじゃ。

 大切なことは、今を本当に生きるということである。

 今を本当に生きるとは、過去を本当に過去のことであると心に決めることである。」


考えてもみて下さい。

私たちが幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのは、いつでしょうか?



それは、昨日でもなく明日でもなく、今しかない。

幸せも不幸せも「たった今」以外のどこにもないのです。

人生を創るのはまさに、この一瞬、「今」なのです。


過去とは既成の事実ですから捨て去ることは出来ませんが、

とらえ直すことはできるはずです。


信心する人は、反省はしても後悔はせず、

「今を生きる」と心に決めて、

嬉しく楽しく有り難く、今の一瞬一瞬を生きていくことが大切なのです。

山を登る心構え

人生はしばしば登山に喩えられますが、

自分の外にあるもの ―地位やお金、他人からの愛情― を求め、

それを得ようと必死に頑張っている時とは、

まさに山に登っている最中であります。


思い通りのものを手にすることが出来れば満足するでしょうが、

それはただ一瞬のことでありまして、

すぐに「もっと欲しい」という欲望に駆り立てられ、

それが得られない間は悩み苦しみ、苛つきもする。

常に心の根底には不満足の思いがあり、

心の底から満足し、満ち足りるということがありません。


地位にせよ、お金にせよ、

自分の外にあるものを人生という登山の目的とするならば、

それはどこまで追って行っても上には上があって、

ついに最後の満足を得ることなく終わってしまう運命にあるのです。


地位やお金というのは、

目的としてハッキリしているようで

実は大変ぼんやりしており、アテにならないものであります。


山へ登るのは頂上に達するのみが目的ではありません。

むしろ途中の景色を観賞するところに、本当の楽しみがあります。


人生という登山においても、

目的は何か一定のものにあるのではなく、

行く道々にあって如何に喜び楽しみ、

道中出逢う方々と如何に仲良く楽しい時間を過ごせるかということに、

本当の目的があるのです。



非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、

実は自分の最終的な目的と何ら関係がないということが、多いに有り得ます。


成功だと思っていたことを達成したにもかかわらず、

それよりもはるかに大事なことを犠牲にしてしまっていたことを、

ある時突然思い知らされるのです。


そのように、幸せというのは不思議なもので、

お金とか地位とかいった外からの基準では判断できないものなのです。


むしろそういう決まりきったものがあると思っている人の方が、

不幸に陥ってしまうケースが多いように思います。


今の一瞬一瞬を喜び感謝する心を育てることが大切であります。

人生の登山者として、その心構えを忘れてはなりません。

お任せする

昭和の政治家である広田弘毅(ひろた こうき)は、

四十八歳のとき、それまでの華やかな出世街道から一転、

オランダ公使の閑職に左遷されます。



左遷の知らせを聞いた友人たちは驚き、

彼を慰めたり、励ましたりしましたが、

当の本人である彼自身はきわめて平然としており、

逆に友人たちの激情をなだめ、気さくに俳句を吟じます。



「風車(かざぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな」 



風車はオランダのトレードマークであります。

風車はいかに精巧であっても風が吹かないと回らないものですから、

自分の境遇をそんな風車になぞらえて、

機会という風が吹くまで、昼寝でもするかのごとく

ゆっくり待とうじゃないかと言ったのです。



彼の凄さは、政治的手腕もさることながら、

そのような逆境に対する心の持ち方にあったと言えるでしょう。


そうして、オランダ公使4年の間に力を蓄え、

やがて外務大臣、内閣総理大臣へと出世していくこととなるのです。


お道の教えに、このようにあります。


『どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。

じっと眠たくなるような心持ちになれ』



何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、

どうにもならない時には、何もしないで

昼寝でもするかのごとく心を落ち着かせることが、

一つの大切な仕事となるのです。


何かするということも大切なことでありますが、

何もしないで時節を待つということにも、それに劣らぬ値打ちがあるのです。


どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、

解決がつかず、ますます苦しくなっていきます。


ですから、どうにもならないことは

まな板の上の鯉のように自分を神様に全て投げ出し、お任せする。


自分の力でどうにかしようという我を捨てることが大切なのです。 


そのように神様に任せきり、

凝り固まった自分の我を放れることができれば、

物事は自然に好転して行くものであることを、忘れてはなりません。

本当の欲

一般的に宗教と言いますと、

「欲」とは人間にとって、いけないものであり、捨てるべきものである、

と教えているように思われがちです。


確かに人間は昔から欲の為に苦しみ、

欲の無い世界に憧れてきたに違いありません。


仏教でいう極楽も、キリスト教でいう天国も、

まさに欲の無い世界であります。


しかし、いくら信仰を深め、難行苦行をしたところで、

欲というものが捨てようとして捨てられるようなものではないところに、

かえってその苦しみがあるのも事実でしょう。


もし本当にこの世の中から欲が無くなるとすると、

一体どうなってしまうでしょうか。


いくら欲を否定したところで、

人間の自己発展を促し、行動に駆り立ててきたものは、

他でもない人間の欲なのであります。


先師の教えにはこのようにあります。

「欲があるから働くのであり、働きもできる。

 欲があるから正直であり、正直にもなり得る。

 欲があるから真面目であり、真面目にもなり得る。

 欲があるから、頼まれても横着しないのです。」

 …大事なことは、本当の欲というものを、

 知るか知らないかということだ。」(湯川安太郎師)


本来、欲というのは人間にとって捨てることのできない、

また捨てるべきでない神様からのお恵みであり、生命の糧なのです。


お恵みなのですから、お恵みとして使わせて頂く限りは、道にかなっており、

人間の幸せを生み出す働きとなるのです。



では、本当の欲とは何かと申しますと、

それは「我」を離れた欲であります。


我とは、「自分」に執着する心であり、

「欲」に「我」がひっついて「我欲」になりますと、

全体の都合ではなく、自分のみの都合をはかる、身勝手な欲となるのです。


私たちが自分の心に悩みをこしらえて自ら苦しみ、

他人にも迷惑をかけ、落ち着かない原因を作るのは何故か。


それは他人のことなど忘れてしまい、

自分の得手勝手ばかり考え、その自分にいつまでも執着しているためなのです。


我を離れたところに人が助かる道がある。

我を離れた本当の欲を持たせて頂きたいと願うのです。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター