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運命を開くもの

運命には天命と宿命の二種類があると言われます。

天命は絶対的なものであり、どうすることもできません。

性別や生まれた場所、時代というのは自分でどうにかできる問題ではない。

それは天命なのであります。


しかし、宿命は生き方次第でどのようにでも変化していきます。

そして、この宿命を展開していくことが出来るところに、

人間と動物との決定的な違いがあるのです。


動物は最も賢いものでさえ、

自らの運命を自らで決めることは出来ません。

本能によって、あるいは調教されることによって、

価値ある仕事を果たすことが出来るようになるかも知れませんが、

自分自身でその方向性を決めることは出来ません。


しかし人間にはそれが出来ます。

自ら背負った宿命というものを、

明るい方向へも暗い方向へも変え得る力を持っているのです。

それだけに難しい問題も多々あるわけですが、

運命を明るい方向へ展開してこそ人間に生まれた甲斐があるというものです。 


お道の教えには、このようにあります。

『おかげを受けられるか受けられないかは、

わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。』


周りの環境がどうであろうとも、

自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、

物事にあたっては実意丁寧な生き方をさせて頂く。


そのような人間にならせていただくことを願い、

実践することが信心であり、心を改めるということであります。


本気で自分の運命を開き、

今の環境を改善したいと本気で願うのであれば、

唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改めなければならないのです。


人から優しくされたいのであれば、

自分が優しい心になることから始めましょう。


人から愛されたいのであれば、

自分が人を愛する心になることから始めましょう。


幸も不幸も実は同じことです。

幸せになりたいのであれば、まず自分が幸せな心になる。

物事を有り難く受け入れる心になることから始めるのです。


自分の心が自分の運命を決め、人生を形づくっていく。

このことを忘れてはなりません。

日々の仕事を有り難く

お道の教えにこのようにあります。

『日々勤める仕事は信心の行であるから、

仕事を有り難く勤めれば、日々有り難いおかげが受けられる』


ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって 特別なことをすることのように思われがちですが、

実はそうではありません。 


会社での勤めや、家事や育児といった

日常の「仕事」の中にこそ信心の行があるのです。


自分の好きなこと、楽しいことばかりであっては

行(修行)にはならないでしょう。

行と言うからには、やはり、

辛いこと苦しいことがあって当然なのです。


仕事の辛く苦しい面ばかりを見て愚痴不足を言うのではなく、

神様から差し向けた行として、

有り難く勤めさせていただくことが信心であります。


ありがたく勤めさせていただくところに、

ありがたいおかげが受けられる、

という道理を教えられているのです。


また、このようにもあります。

『仕事をするというから神は見ている。

仕事をさせていただくという心になれば、

神はつきまとってさせてやる』


仕事を自分の生きていく為の単なる手段として考え、

そのためにしなければならない、

しょうことなしの重荷であると考えているならば、

いつまで経ってもそのような仕事の仕方しか出来ず、

そのような仕事しか与えられないことになります。


また、仕事をそのように嫌々ながらにしていると、

仕事のほうでも、

「そんなに嫌がられるのなら、もう貴方にはしてもらいません」

と言って、やがては逃げてしまって、

仕事自体をさせてくれないようになるのではないでしょうか。



仕事をすること自体を目的とし、

何のためというわけでもなく、

自分がどうなるかなどということは忘れて、

ただ仕事をすることを有り難く、喜んでしていると、

仕事のほうも喜んでくれて、

終始付きまとってくれて、助けてくれて、

守ってくれるようになるのではないでしょうか。


日々の仕事を行として、有り難くさせていただく。

有り難いおかげはそこから生まれるのです。

自分を見る功徳

お道の教えにこのようにあります。

『天地の神のおかげで生かしてもらっている者は、

合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。

悪いことも善いことも、みな鏡に現れるように神様はご承知である。

信心して、真の心にならなければならない。』



この御教えから私たちが頂かなくてはならないことは、

合わせ鏡である周囲の人々の中に善なり悪なりが見えるということは、

自分の中にも、その相手と同じ善なり悪なりが在るということです。


「これだけ信心しているのに、

相手は少しも良くなってくれない。

少しも変わってくれない」

とおっしゃる方があります。

そのお気持ちは察しますが、それでは信心している値打ちがありません。


自分を見ることが足りない間は、

すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。


人の姿が見えていても、自分の姿が見えていなければ、

半分しか物事が見えていないのです。

不完全な見方ですから、自分の悪さが見えないのです。


それが、自分をよく見ることによって、

相手にばかり求めるわけにはいかなくなる。

自分の中にも同じ我、同じ悪さがあることが分かってくる。


自分自身がよく見えていればこそ、

他の人が悪いところを出しても、

それが我が内にもあることを知っているから、

簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。


その心持ち、

「とても人に偉そうに言えるような私ではありません」

と本気で思えた心持ちになってはじめて、それが相手の心に響くのです。


その心持ちがあってはじめて、

何事にも出来る限り自分がさせて頂こうという気持ちが芽生え、

そこから周囲との人間関係も良くなり、環境も変わって来るのです。


努力だけでは、人を責めない人間になろうとしてもなれないものですが、

ただ「自分を見ること」の中に、そうならせていただける力がある。


自分を見ることによる功徳とは、

相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないことが分かるところから、

相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになることなのです。

人と「合う」秘訣

お道の教えにこのようにあります。

『打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。』

少し消極的な教えのように聞こえるかも知れませんが、

「負かされる」ということと、

「負ける」ということでは、全く次元が違います。


「負かされる」というのは、

相手に勝とうと思って力が及ばずに負けることですが、

「負ける」というのは相手に勝とうと思わないで、

自分の方から相手の意に歩み寄ろうとすることですから、

そこに真心がなくては出来ません。

少しでも対抗的な気持ちがあっては本当に「負ける」ことなど出来はしません。


相手が腹立ちや憎しみを持って来たとき、

こちらに信心がない時には、腹立ちや憎しみの心が起こる。

しかし、こちらに信心があれば、

相手が仕向けた腹立ちや憎しみを心の内で

解かしてしまうことが出来るようになるのです。


信者(信心生活者)というのは、

信心というものが自分の生活になって、

そのような働きをするようになって来ることであります。


何事にも道があるように、人間関係にも道があります。

道がある以上は、それをしっかり進んでいけば、

どんな相手との仲でも、だんだんとよいものになって行き、

どこまでも進めることが出来るに違いありません。


自分の心に、得手勝手なこだわりがあったり、

曲がったことがあるから道に行き詰まる。


自分の心を真っ直ぐなところに置いて待って居さえすれば、

必ず皆もそこに基づいて変わって来る。


そこで初めて、夫婦でも親子でも他人でも、

互いの心が合って関係が変わって来るのです。


誰かと待ち合わせするのでも、

自分が間違った場所にいては、

いつまでたっても相手と会うことは出来ないでしょう。


自分が約束通りの正しい場所で待っているのであれば、

たとえ相手が遅れたとしても、いつかは必ず会えるものです。

相手に正しい処に来て欲しいと願うならば、

こちらが正しい処で待つしかないのです。


人間関係の道とは、ただ自分が先に道に合うて、

気長に時節を待つよりほかはない。

それが人と「合う」秘訣なのです。
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