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心を神に向けて

お道の教えにこのようにあります。

『人の心は移り変わりやすいものである。

 その、人の心を頼りにするから、

 腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。

 人に向かう心を神様に向けよ。

 神様は、氏子の願いは何でも聞き届けてくださる。』


本当に幸せになるための第一歩は、

自分自身の足りないものを人に埋めてもらおうとする考えを捨てることであります。


もちろん、人間は多かれ少なかれ、

他人の援助や支えなしでは生きていけないということも事実ではあります。

どんなに立派で賢い人間でも、

他人や周囲のものから大きな恩恵を受けて生きています。


しかし、「人から何とかしてもらわなければならない。

自分の期待通りにしてもらわなければ、自分は立ちゆかないものだ」

と考えるのは「迷い」というものです。


幸せになろうとしながら、人をアテにしては不足を言って、

幸せになれない心の在り方となってしまっている。

これが「迷い」なのです。


そうではなく、

「人からしてもらおうと思わなくても、

 この自分自身の中に限りのないお恵みを頂いているのだ。

 私の中から、どんなことでもさせて頂こう

 という心が出てくれば、何だって出来る。

 無限に良いものを私は授かっているのだ!」
 

このことに気付かせていただくことが、信心であります。



花というのは、自らの草木・枝の中から湧き出でて咲いています。

決して苦しんで咲いているのではないでしょう。

中から湧き出る自分の力が溢れて、花を咲き誇っているのです。

喜んで花を咲かせるところに花の本性があります。


人間の中にも限りない愛情、親切心が恵まれていて、

そこにこそ自分の幸せの根源があるのです。


僅かな知恵でもお役に立つ。親切もお役に立つ。

この手足だって使い方によってはお役に立つ。

人のお役に立つものを私たちは神様から与えられて生まれて来たのです。

そこに心を向けるのです。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、

自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、心地良さとなり、幸せとなるのです。

杖と枝

お道の教えにこのようにあります。

『金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。

神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。』


お金を持ちたい、地位名声を得たいという心は誰にでもあるようですが、

何故そういう心を持つかと言えば、

お金や地位名声が無いと心細いからであります。

心細く、自分一人ではしっかり立っていられない気がするので、

どうしても杖がいる。


お金の杖、地位名誉の杖のおかげでようやく立つことが出来る。

そのような心持ちでありますから、

杖はなるべく多い方が安心で、

それで他人の持っている杖でも、

出来る限り自分の方に余計に取り寄せたくなります。


しかし、心細い心を杖でしっかりさせようと杖を増やせば増やすほど、

自分の足で立とうとしないことから、

人間はさらに弱くなっていくのです。


何もお金や地位名誉が悪いのではありません。

ただ、それらをアテにして、

その助けでしっかりしたいという浅ましい心が改まらない限りは、

どうしても持っているものについて心配が絶えず、

それを増やそうということにばかり心を痛め、

そのために人と争いさえしなければならないことになります。


それではお金や地位名誉を持っている人は

皆間違っているかと申しますと、決してそんなことはありません。

本当の持ち方をしている人もおられます。


それはどのような持ち方かと言いますと、

杖ではなく、枝として持っておられるのです。


杖は自身を支える為に外から借りてくるものですが、

枝は自身の中から栄えて出るもの、湧き出るものであります。


自身の中から湧き出たものは、

人から取っていかれる心配はありませんし、

人に差し上げたとしても、自分が倒れてしまう心配も無い。

また直に湧き出てくるものですから人にあげても未練も残りません。


「神を杖につけばよい」との教えは、

自分自身の中に、神様が居られるということ。

外のものを頼りにして杖につかなくても、

この自分の中には、限りない愛情、親切心が恵まれていて、

それを湧かし出していくところにこそ、

幸せの根源が隠されていることに気付かせる教えなのです。

未熟者

お道の教えにこのようにあります。

『人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、

頭を下げることを忘れる。

信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。


とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、

天で頭を打つのが一番恐ろしい。

天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、

油断をするな、慢心が出るとおかげを取りはずす。』


自信を持つことは大切なことですが、

自信と慢心とは常に紙一重であります。


いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。


気を抜けば、怠け心が起こる。

傲慢になる。

人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さを自覚することが大切です。


天で頭を打つとは、そのような傲慢さを許さない、

この天地を貫く道理、働きを忘れるな、という教えであります。



歌舞伎役者の六代目 尾上菊五郎の辞世の句に、

『まだ足りぬ 踊り踊りて あの世まで』

とあります。


歌舞伎界でも随一と言われた踊りの名人が、

この世を去る時に「自分はまだまだ未熟者である」と遺しているわけです。

そして、あの世でも踊りの練習をするのだ、と。

学べば学ぶほど自分の未熟さを知ることが大切です。

そこで自然と謙虚になれるのです。


未熟者ゆえに、人一倍努力しようとする。

未熟者ゆえに、どんな人でも尊敬できる。

未熟者ゆえに、他人を責めようとしない。

未熟者ゆえに、人から注意されても怒らずに素直に受け止め、改まろうとすることが出来る。


この未熟者である、という自覚なくしては、

人はすぐに傲慢になってしまい、

人間としての成長が止まってしまうのです。


自分の至らなさを痛感してはじめて人は、

腹が立つことや相手を責めようとする心に打ち克ち、

成長を続けることが出来るのです。

おこること みなよし

お道の先覚の言葉にこのようにあります。

『あるもの みな美しく、

おこること みなよし(高橋正雄師)』


信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、

苦難にどうしても直面していきます。

色々あるのが人生というものです。


しかし、事実として苦難がありながらも、

そのことで心が苦しまなくなる、

その苦難の中にも「ありがたい」と

思える心が生まれてくることが信心であります。


そして信心をさせて頂くということは、

自分と物事、自分と周囲の人々との間に神様を見出すことであります。


自分の好き嫌いで物事や人を受けとめようとしないで、

起きてくることは全て神様のお差し向け、

そこに自分にかけられた神様の願いを受け取ろうとするから、

「あるもの みな美しく、おこること みなよし」

と思える自分にならせて頂けるのです。


現実を変えることが出来なくても、

悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。


過去の出来事を捨て去ることはできなくても、

とらえ直すことはできます。


結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、

受け取る側の心にだけ、良い悪いがあるのです。


ある人にとってはとても良い人、良い物、良い出来事であり、

ある人にとってはとても悪い人、悪い物、悪い出来事でもあるのです。


良いも悪いもないのであれば、

「すべて恵まれてのことなのだから」と、

神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。


そうすれば、どのような境遇に置かれても、人は幸せになれる。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。


有難く受け取ったその第一歩が幸せな人生へと通じている。

ですから信心する人は、神様から差し向けられた

今の一瞬一瞬を、嬉しく楽しく有り難く生きていくことが大切なのです。

祈られる我が身

ある信奉者の方から、

このような話を聞かせて頂いたことがあります。


「ある朝、学校へ向かう我が子の後ろ姿に

手を合わせ送り出したとき、

私も又このように祈られてここまで来たのだ、

という実感が湧きました。」


我が子の後ろ姿を祈って送り出す自らの姿の中に、

自分の親の祈りを見出し、

その祈りの中で自分が親として、我が子に祈りをかけている。

大変尊いことに気付かれたことであります。


お道の教えにこのようにあります。

『我が子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ』


神様は人間の親であります。

親が子を思う親心を通して、

神様の氏子にかけられる御心を悟ったとき、

信心は生きたものになるのです。


親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても

子どもの世話をし続け、心配をして下さいます。

そして、子供の至らないところは、

改まり成長できるよう、祈りに祈りながら

長期に亘って時節を待って下さいます。


私たちが逆境の中で「助けて下さい」と

神様に祈る遙か前から、実は神様から先に、

私たちのことを祈って下さっているのです。


神様が分からぬ、

信心が分からぬということなど、

さしたる問題ではありません。


大切なことは、この自分というものは、

祈りに祈られている我が身であることに気付くことであります。


「祈り」とは神様に願い、

問いかけることであるように考えられていますが、

本当はその逆で、願われ、問いかけられているのは

祈っている自分自身なのです。


起きている事実を通して、

自分自身が神様から

「より良くなってくれ。助かってくれ。」

と、祈られ、問いかけられているのです。


神様だけではありません。

自分以外の多くの人々からも願われている我が身なのです。


祈りを捧げるということは、

その自らにかけられた祈りに応えて、

自分の生き方をより良くしていく決意をすることに他ならないのです。

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