FC2ブログ

私ってな~に?

インドの童話にこのような話があります。


ある夜、旅人がお堂で夜を明かしていると、

一匹の鬼が人間の死骸をかついで来ました。

すぐ後ろにもう一匹の鬼が来て、

その死骸は自分のものだと争いますが決着がつきません。

そこで二匹の鬼は旅人に判断を仰ぎました。

旅人が最初の鬼のものだと言うと、

後から来た鬼は怒って旅人の腕を引き抜きました。

それを見た先に来た鬼は

死骸の手を引き抜いて代わりにつけてくれました。

後から来た鬼はますます怒り、

旅人のもう一方の腕を引き抜くと、

また先に来た鬼が死骸のを取ってつけてくれる。

こんなことをどんどんやっているうちに、

旅人と死骸の体はすっかり入れ代わってしまいました。

二匹の鬼は

「こんなことをしていても仕方がない。この死骸を半分ずつにしよう」

と言って争いをやめ、死骸をもってお堂から出て行きました。


驚いたのは旅人です。

入れ替わった自分の体は鬼に奪われてしまったのですから、

今の自分が本当の自分かどうか分からなくて困ってしまいました。


そこで偉いお坊さんに、

「一体私は誰でしょうか」と尋ねると、

お坊さんは

「そもそも『私』なんていうものはないのだから、

そんな心配はいらん」と答えた、という話です。



何とも不気味な話ですが、「私」とは何か、

ということをたいへん考えさせられる話であります。


普段、私たちは自分や他人のことを、

何か一つの決まった塊として捉えてしまいがちですが、

実はそうではなく、あるのは人と人との関係だけなのです。


相手が悪いと決めつけるのは簡単ですが、

実際には、ただ自分と相手との間に悪い関係があるだけであって、

関係そのものが良いものになれば、

相手からも良いものがたくさん溢れ出てくるものなのです。


ここで大切なことは、関係というものは

相手一人がつくったものではなく、自分と相手との合作なのですから、

「良い関係を築こうとしているだろうか?」

と自らに問いかけなければなりません。


お道の教えに

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人である』

とあります。


「私」や「あなた」というものに拘ることから一旦離れ、

良い関係を築くということに重点を置くことが、

人間関係の悩みを解く鍵となるのです。

幸せになる者

曹洞宗の開祖である道元禅師に弟子が尋ねました。

「人は皆、仏性(ぶっしょう)を持って生まれているのであれば、

なぜその仏性を持った人間のなかでも、

幸せになる者と不幸せになる者がいるのでしょうか?」
 
すると、道元はこのように答えました


「幸せになるものは努力する。

そうでない者は努力しない。その差である」

 
弟子はすっかり納得し、大喜びしました。

しかしその晩、新たな疑問が湧いてきました。

仏性を持っている人間に、

どうして努力する者としない者が出てくるのだろうか。

そこでまた翌日、道元禅師にそのことを尋ねたところ、


「努力する者には志がある。

しない者には志がない。その差である」
 

弟子はまた納得し、喜んで帰りました。

しかしその晩、またまた疑問が湧いてきます。

仏性のある人間にどうして志がある者とない者があるのか。

そこでまた翌日、道元禅師にそのことを尋ねたところ、


「志のある者は、人間は必ず死ぬということを知っている。

志のない者は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。

その差である」
 

人間が幸せを得るためには、死というものを知る、

つまりこの人生が有限であるという、切実さを持たなければならない、


そのように弟子に諭したのです。


お道の教えに、このようにあります。

『死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ』


死に対する覚悟とは、安心して死ぬために定めるものではありません。

死に対する覚悟を持つことで、生きることがより鮮明になるのです。


人生の長さは人それぞれ違いますが、

どんな人生も必ず途中で終わりを迎えるのです。

ここがゴールなどというものはありません。


私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、

自らに与えられた一区間、この人生を

どのように走るか、走ったかということに尽きるのです。

倒れるところまで、精一杯走ることが大切なのです。


切実に全力を尽くして今日という日を送るなら、

死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。

そういう生きる用意をしたいものです。

幸せの帽子

仏教詩人として知られる坂村真民さんの詩に

『幸せの帽子』というものがあります。


すべての人が幸せを求めている

しかし幸せというものは

そうやすやすとやってくるものではない

時には不幸という帽子をかぶってやってくる

だからみんな逃げてしまうが

実はそれが幸せの正体だったりするのだ

わたしも小さい頃から

不幸の帽子をいくつもかぶせられたが

今から思えばそれがみんな

ありがたい幸せの帽子であった

それゆえ神仏のなさることを

決して怨(うら)んだりしてはならぬ



一見「不幸」に見えることの中に、

神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。


プラスを感謝することなら誰でも出来るでしょう。

しかし、苦悩や絶望といったマイナスの淵にあって、

「ありがとうございます」と

手を合わせることが出来るのが信心のありがたさであります。


苦悩や絶望が縁となって、

神様の願いに気付かせていただき、

真の生き方に目覚めるのです。

そこから自然と手が合わさるようになる。


お道の教えに、このようにあります。


『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、

このほかには何もないのであるから、

人の身の上にけっして無駄事はなされない。

信心しているがよい。みな末のおかげになる。』



神様は人間の親であります。

親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても

子どもの世話をし続け、心配をして下さいます。


そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、

祈りに祈りながら長期に亘って時節を待って下さいます。


私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、

実は神様が祈って下さっているのです。


最善、最高、最適の神様のお働きの中で、

生かされ生きていることを忘れてはなりません。

「幸わう」言葉

日本初のヨーガ行者である中村天風(なかむら てんぷう)が

結核を患いながらも、ヒマラヤのふもとで修行をしていた時のお話です。

当時、天風の病状は大変深刻であり、

高熱の中、喀血を繰り返し、迎えたある日の朝のことでした。


天風が師匠に対し、「おはようございます」と挨拶すると、

師匠は満面の笑みで、

「おぉ! 世界一の幸福者よ!」と両手と上げました。


これにはさすがに天風も腹を立て、

「先生は私を冷やかしているのですか」と声を荒らげました。


すると師匠は、真剣な顔で答えました。

「そうじゃない。私は本当のことを言っているのだ。

『頭が痛い、熱がある』といっても生きているじゃないか。

まず第一に、生きていることを、なぜ感謝しないのだ。

そんな酷い病にかかっていても、

生きているお恵み、有り難さを考えてみなさい。


痛いといって、病が治るかい。

つらいといって、つらさがなくなるかい。

それを、自分が人に知らせて歩いて、

人までそんな気持ちにさせて、君はいい気持ちなのかい。

自分の気持ちを、自分自身で、もっとにこやかにしたらどうだい。」


師匠からこのように言われ、天風は思いました。

「本当にその通りだ。今まで何と罰当たりな自分であったことか。

せめて生きている間はだけは、どんなことがあっても、

ニコニコ笑って、良い言葉を話して、明るく生きて行こうではないか。」と。


それから二年後。

天風は修行を通じて結核を見事に完治させ、日本に戻ったのでした。



言葉には一体どれだけの力があるのか。

かつて日本は「言霊の幸わう国」と呼ばれていました。
 

言葉とは「ことの葉」、

葉はものを包むものでありますから、

言葉という風呂敷に、

自分の一番綺麗で元気な霊(たましい)を包んで、

人に差し上げるのが本来の姿なのです。


それではじめて、

言葉を渡した者も、言葉を受け取った者も喜び幸わう。

両方が幸せになれるのです。


汚い言葉や否定的な言葉では、幸わうことにはなりません。

「言霊の禍う国」になってはなりません。


自分の言葉が自らを救い、人を救い、

幸せをもたらすことになる。

このことを忘れてなりません。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター