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花の美しさ

京都の南禅寺の管長をされていた

柴山全慶(しばやま ぜんけい)老師の歌に、

『花語らず』というものがあります。


花は黙って咲き

黙って散っていく

そうして再び枝には帰らない

けれどもその一時一処に

この世のすべてを託している

一輪の花の声であり

一枝の花の真である

永遠にほろびぬ生命のよろこびが

悔なくそこに輝いている


私たちが花を見て美しいと感じるのは、

その花の形や色などの見た目だけにあるのではなく、

自らの生命を全うし、ただ一生懸命に咲いている、その姿にあるのです。


花は、自らの美しさを誇示しょうとして

咲いているのではありません。

人間が見ていようと、見ていまいと、ただ「花だから咲く」。

自らの生命を喜んで咲いている、

そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのであります。


お道の教えにこのようにあります。

『昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめ』


「生きる」ということは、ただ漫然と日々を過ごすのではなく、

何かを生み出して行くということであります。


花は誰のために咲くのか。

誰のためでもありません。

花は、ただ花であるがゆえに咲くのです。


自分に与えられた生命を、

与えられた環境の中で、

与えられた役割を精一杯に喜んで、

そして自らの花を咲かせた後はさっと散っていく。

そこに美しさがあるのです。


私たち人間にもまた、

自らに与えられた生命を精一杯に喜び、

全うする役割が与えられているのではないでしょうか。


今月今日、自分の中から喜びを生み出す稽古こそが信心であります。

この自分の中から、どれだけのものが現れ出るか。

花も咲かせ、実も結ばせて、ただひとすじに

咲き切ろうとするところに美しさが生まれるのです。

「いのち」の根

相田みつをさんの作品に、

「道」という素晴らしい詩があります。


長い人生にはなぁ

どんなに避けようとしても

どうしても通らなければならぬ道

てものがあるんだな 

そんなときはその道を黙って歩くことだな

愚痴や弱音を吐かないでな

黙ってあるくんだよ

ただ黙って

涙なんか見せちゃダメだ

そしてなぁその時なんだよ

人間としてのいのちの根がふかくなるのは



人間はみんな何かで苦しむものです。

その苦しみも、決して生半可なものではない。

胸につかえる問題は次々と起きてまいります。

しかし、他の人の苦しみというのは自分には分からないものですから、

ついつい自分ひとりだけが苦しんでいるように思い込んでしまいがちなのです。


そこで、他の人の苦しみをどうこう考えるよりも、

まずは自分の苦しむ問題をしっかりと見ていく。

自分を見ることに取り組んでいくことが大切であります。


そこにこそ、その胸につかえた悪い感情を溶かしていき、

自分が助かっていく働きがあるのです。


自分の「いのち」の中には、

それだけの尊い力、働きが

神様から予め与えられていることに

気付かせて頂くことが、信心であります。


病気なら病気のままに、

そのことを自分の勤めるべき役として、

自分を見ることに徹していく。

その病気をしっかりと味わい、

そこで自分の生き方を見つけていくことに専念するのです。


病気になったおかげで、

健康のときには分からなかった人生の別の価値を知り、

他人の病苦が察せられるところから、

本当の意味で病人を慰めることができるようになる。


自分はそのためにこそ病気になったのだ、

そう思えるようになれば、

失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。


そこではじめて不運は幸せとなる。

いのちの根が深くなり、

よりしっかりとした人生を送ることが出来るのです。

神様の心を頂いて

人間関係がうまく行かないことは

実に辛いことでありますが、

世の中、皆ここで苦しんでおります。


仮にここに■の気質を持っている人と、

▲の気質を持っている人が居たとしましょう。


■は▲に対し、もう少し■に近いものになってくれたらと思い、

同様に▲は■に対し、もう少し▲に近いものになってくれたらと思っている。


人が非難し合うのはこの為です。



みんなお互いに仲良くしたい、

一つになりたいと心の底では願っているのですが、

その方法については、

皆が皆、自分に近いように、自分の好きなように、

相手に変わって欲しいと願っているのです。 


それがその通りになれば申し分無いのですが、

実際には大変難しいことであります。


では、■と▲が永久に一つになることが出来ないのかと申しますと、

それは出来るのです。


その為には、■も▲も両方を包み込んで、

■は■として愛してくれ、▲は▲として愛してくれる力が分かれば、

相手をそのままに許すことが出来るようになる。

それが神様の心を頂くということです。


■を無理矢理▲にしたところで、

本当に二人の仲が良くなるかと言えば、

それは決して長続きしないものです。

じきに必ず壊れます。

何故なら、それがそもそも無理な解決法だからです。



本当の仲というのは、夫婦であれ友人であれ、

相手を生かし、自分を生かし、

生きる上で一つになることであります。


■を▲にしよう、▲を■にしようというのではなく、

■は■、▲は▲、そのままで

許すところに人間が助かる道があるのです。



神様の視座、助けられ方とは

そのようなものであり、

このことが分かってくると、

人生は大きく好転してまいります。



■は■のままで、▲は▲のままで有り難い

という心が湧いてきて、

お互いの長所短所も、見え方が違うだけで

お互いが持っているということが分かる。



それをそのまま愛して下さる、

許して下さる神様がおられる。


自分も有り難いが、相手も有り難いものだ

という心持ちになれば、決して無理が無く、

相手と一つになることが出来るでしょう。

許す心

他の人間が自分のことを本当に愛してくれている、

どんなことがあっても

最後は自分のことを許してくれると

信じ切れるところに人が助かる道があります。


小さい子供が育って行くのは、

親が許してくれるからであります。


親から許してもらえない家庭は子供にとっては地獄であり、

そういう家庭では子供は真っ直ぐ育っていくことが出来ません。


育てるとは許すことです。

子供の立場に立って解釈してやることです。

それが土台にあってはじめて、叱ることにも意味が出てくるのです。


仮に子供が何か失敗をしたとしても、

その失敗には何か訳があるのだろうと、

親は子供の立場に立って解釈してくれる。

その優しさが子供を育てる、落ち着かせるのであります。


この「許し」なくして、子供は真っ直ぐ成長出来ません。

それは人を信じることを知らない為です。

人を信じることが出来ない為に、

非行に走り、道を誤るのです。


最近では「親バカ」を通り過ぎた「モンスターペアレント」が横行し、

大変な問題となっていますね。


何事も行き過ぎは善いものをも悪くしてしまうのですが、

この親バカの根本は何かと申しますと、

親が子を許し、解釈する働き。ここにあるのです。



親は子の為に狂う。

それだけの働き、間柄を

この天地がはじめから親と子に与えているのです。


そして、親が子を許すことで、子は助かる。

そうして、その子どもは自分と他人を許せる大人へと

成長していくことが出来るのです。


お道の教えにこのようにあります。

『神様は人間の親様である。

…信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、

おかげを受けていくのである』


同じ親でも、神様は人間よりも

遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、

ものを言われることもない。


信心とは、神様が自分を愛し、

許して下さる親である事が分かることであり、

神様がいつも自分に寄り添って、

共にこの人生を生きて下さっていることに気付くことであります。

そこで人間が助かっていくのです。
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