FC2ブログ

上手に苦しみましょう

相田みつをさんの『つまづいたおかげで』

という詩の中に、このような言葉があります。


つまづいたり ころんだりしたおかげで

物事を深く考えるようになりました

あやまちや失敗をくり返したおかげで

少しずつだが人のやることを

暖かい眼で見られるようになりました

何回も追いつめられたおかげで

人間としての 自分の弱さと だらしなさを

いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたりしたおかげで

馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました



生身で生きているのですから、

痛い辛いがあるのが人生であります。

その苦難は、いくら言葉を飾ったところで、

当人にとっては不運な事には違いありません。

しかし、ただメソメソしているだけでは

不運な道を通る甲斐が無いじゃありませんか。



わざわざ痛い思いをして、

辛い思いをしているのですから、

その苦難にある「おかげ」を

しっかりと受け取ろうじゃありませんか。



病気なら病気のままに、

そのことを自分の務める役割として、

最高の演者となってみる。

そこで自分の生き方を見つけて行く。

病気を通して、他の病苦が察せられるところから、

人の痛みが心から分かり、

本当の意味で病人を慰めることが出来るようになる。



そうして自分の病気のことだけでなく、

人さまの病気も治りますようにと

願える自分にならせて頂く。

その願いこそ神様の御心なのです。

病気を通して神様の御心をわが心に頂けたのならば、

失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。



幸いを喜ぶことなら誰にだって出来るでしょう。

しかし、苦難や絶望の渦中にあって、

「ありがとうございます」と

手を合わせることが出来るのが信心の有難さであります。



苦難や絶望が、

神様の願いに気付かせて頂いて真の生き方に目覚める

尊い縁ともなるのです。



避けられない苦難ならば、

遅かれ早かれ苦しむことになるのです。

それならば、いっそ上手に苦しみましょう。

「喜び」とは誰のもの?

ある雑誌の中で、中学校の教師が

生徒との次のようなやり取りを載せておられました。


「先生、勉強って何でしないといけないのですか? 
お母さんが勉強しろ、勉強しろってうるさいんです」

「そりゃ、勉強しないと、良い学校に入れないよ」

「良い学校へ入って、何をするんですか?」

「そりゃ、卒業して立派な社会人になるんだよ」

「立派な社会人って、何ですか?」

「そりゃ、立派な家に住んで、幸せになるんだよ」

「つまり生活を楽しむってことでしょう」

「うん、まぁそういうことになるね」

「そしたら僕、今でも勉強しない方が生活楽しいから、勉強はしません」


生徒からこのように言われて、

その教師は返事が出来なかったとありました。


さて、皆様でしたら

この学生にどのような言葉をかけられるでしょうか。


私はこのお話を読ませて頂いて、

はて、人間の喜びとは、

自分が豊かな生活を送り、楽しむことにあるのだろうか

ということを思わせて頂きました。


考えてもみますと、

私たちは生まれてから今日に至るまでに何度、

皆から「おめでとう」と言われてきたことでしょうか。


生まれた時、本人は何も知らないのに、皆がおめでとうと喜んでくれる。

小学校へ入る時もおめでとう、卒業する時もおめでとうと喜んでくれる。

中学校の時、高校の時、結婚する時も同じです。

皆、おめでとうと喜んでくれる。

このように「おめでとう」というのは、

自分一人だけのものではないのです。

自分の喜びが、自分だけのものでなく

他人の喜びとなったときに皆が喜び合う。

それが、めでたいということであり、

人間の喜びは実はここにあるのです。


人のお世話になって生きているのが人間でありますから、

人のお役に立つ為、人の喜びの為に人は勉強するのです。


そして自分に恵まれた力を最大限発揮し、

より人のお役に立つ為に、

自分にとってより良い学校、より良い会社に入らせて頂くのです。


人間の喜びとは決して自分だけのものではありません。

真に教養のある人とは、

自分の喜びを他人に分けてあげられる人のことを言うのです。

「願い」の語源

「願い」という言葉の語源は

「ねぎらい」であるそうです。


「ねぎらい」という言葉を辞書で引きますと、

「相手の努力に対して感謝の意を表すこと」とあります。


つまり、「貴方様のお陰でございます。いつもありがとうございます」と、

感謝の気持ちを込めてお礼を言うこと。

これがねぎらいであり、

神様に願うことの本質は、正にここにあるのです。


しかし現実には、「願い」というものが、

ただ神様にお願いしていることにとどまって、

神様に願っておけばやがては神様から

おかげ(御利益)のプレゼントが届くことを

心待ちにしている信心が多いのではないでしょうか。


信心を一所懸命励んだところで、

そのようにただ困った問題を神様にお願いして

おかげを受けようというのでは、

難儀の中からただ逃れようとしているに過ぎません。 


このお道はそんなヘナチョコな生き方ではなく、

難儀の中にある自身の中から喜びの心を引き出し、

神様と共に生きて行く道であります。


ただもがき苦しみ、

今の問題から逃れようとする生き方ではなく、

「生き甲斐」という火を心に抱いて、

元気ハツラツに生きていく道であります。


お道の教えにこのようにあります。

『八寸のものを一尺にも喜ぶ者には、足りぬだけは神が足してやる。』


繰り返し申しますが、

何の為に神様に手を合わせに行くのかと言えば、

本来はお礼を言う為に行かせて頂くのであります。


普段当たり前だと思って過ごしていること。

目が見える、

耳が聞こえる、

話すことが出来る、

食べることが出来る、

歩くことが出来る…。

多少の不足を抱えながらも、

こうして日々生かされている「いのち」に

お礼を申すことが信心の土台となるのです。 


自分に無いものを「くれくれ」と言うのではなく、

自分に有るものに目を向けてお礼を申して行く。

そうしてお礼を申す気持ちを先に立てるところに、

神様がお働き下さる。


足りぬだけの分は神様が足して下さる。

ですから人は願うことで助かって行くのです。

私たちの仕事

マザー・テレサが、

東京都府中市にあるマザー・テレサの支援団体

「愛のファミリー協会」に宛てた手紙に、このように書かれておられます。

「誰もしようとしないような、

小さな、つまらないと思えるような仕事をしましょう。

小さ過ぎるということはありません。

私たちは小さい者ですから、それにふさわしいやり方で、

ものごとを見ていきましょう。

目の見えない人に手紙を書いてあげたり、

横に座って話を聞いてあげたり、

手紙を出してあげたり、

ちょっと人を訪ねるとか、

お花を持って行くとか、

誰かのために洗濯や掃除をしてあげましょう。

つまらないと思える仕事が、私やあなたのする仕事なのです」 


宗旨宗派は違えど、信仰(信心)の肝心要のところを

大変分かりやすい言葉でお教え下さっておられます。


商売繁昌、交通事故に遭わないように、宝くじが当たるように…

そうした自分の願いを叶えるために信仰がある、

と思っている人が多いのが現状です。 

しかし、真の信仰とは、そのような現世利益の道ではありません。

現世利益をまったく否定したりはしませんが、

それはあくまでも入り口であり、

願いは神願成就、人の助かりであります。


お道の教えにこのようにあります。

『しんじんとは信の心ではなく、神人(かみひと)と書く。』


教会に参拝して神様に願ったならば、

そこで神様をわが身に頂いて家庭や職場に行かせて頂くのです。


家庭や職場に難儀があれば、

その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の仕事に立たせて頂くのであります。


これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、

面倒な事ばかりさせられる、

我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。


これからは人を助ける神様の仕事をさせて頂くと心に決めて、

自分の手足を通して、自分の生活を通して、

神様の生きておられる働きをさせて頂く。

人を助ける神様の仕事に立たせて頂くのであります。

それが私たちの真の仕事なのですから。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター