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氏子あっての神

人はそれぞれに立場と役割を持って生きています。

結婚すれば夫、妻となり、

その夫婦に子供が生まれれば、その夫婦は、生まれた子に対して親となる。

親となった以上、そこにおのずから

親の立場としての役割を受け持つことになる。

そして、親の立場としての役割を

子に対して果たしていくことで、

親は真の親になっていくのです。

それが親の道であり、親として生きるということであります。


そして子もまた親に対して、子の立場と役割を受け持つ。

子の立場としての役割を

親に対して果たしていくところに、子の道があるのです。


そのように一人ひとりが

それぞれ異なる立場と役割をもって生きているからこそ、

一人ひとりが異なる問題を抱え、

一人ひとりが異なる願いを持って生きているのであります。

そして、そうした一人ひとりに神様が向かわれているのです。

難儀な氏子が一人ひとり神様に向かい、

それぞれの願いに道がつき、立ち行くことが

神様の願いが成就することであり、それが信心の目的と言っても過言ではありません。


お道の教えにこのようにあります。

『氏子あっての神、神あっての氏子、

 子供のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地のごとし、

 あいよかけよで頼み合いいたせ。』

「あいよかけよ」とは昔の岡山地方の方言で、

「よいしょ、こらしょ」のような、

二人で息をそろえて物を担ぐ時に使われていた掛け声であり、

助け合う関係を指しています。


親は子のことを神様に願い、

親の立場としての役割を子に対して果たしていく。

子は親のことを神様に願い、

子の立場としての役割を親に対して果たしていく。

親も子も、それぞれに願い合って、

違う立場の役割を果たしあって生きていくのです。


そのように親と子が、万物を生かし育むこの天地のごとく願い合い、

働き合っていくところに、お互いが共に助かる道が開けていくのであります。


「氏子あっての神、神あっての氏子」とは、

そのように私たち一人ひとりの願いに道がついていくことが、

私たち人間の願いの成就であるだけでなく、

神様の願いの成就ともなるのです。

もともと「不和」と心得る

インドの初代首相ネルーは、

「共生」という言葉を政治の世界に

いち早く取り入れた人物でありますが、彼は

「共生以外の唯一の道は、共に破滅することである」と断言しています。

この「共生」という言葉を辞書で引きますと、

「異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一所に生活している状態」

とあります。

違う生き物が、お互いに助け合い支え合って生きているというわけですが、

人間もまたしかりであります。


考えてもみますと、私たちが生きていく上で

中心となる家庭という集団も、

生まれてみたら、それが自分の家庭であり、

物心ついたら、それが自分の親であり、兄弟であり、親族であった、

という中で共に育ってきただけに過ぎません。

自分の意志でないところで成り立っているだけに、

それぞれに性格も能力も考えも皆違いがあって当然なのであります。
 

さらには、年齢や育った世代の違いから来る、

生活様式や価値観の違いを持ち込んでおり、

一様には行かない複雑な要素を抱えているのが家庭なのであります。
 

その家庭の中核にある夫婦の関係というのも、

結婚するまでは別々の生活環境の中で育ち、

別々の性格や感情を持った者が、

途中から夫婦生活を始めるわけですから、

そもそも「一心同体」などではないのです。

元々「二心二体」であるものを、夫婦になった以上、

一心同体でなくてはならぬ、そのようにあるべきである、

などと勘違いするところから、夫婦の争いが起こってくるのであります。


お道の教えにこのようにあります。

『信心は家内に不和の無きが元なり。』

本来平和があるのではありません。あるものは不和なのです。

もともと不和があって、放っておいても何とかなるような

甘いものではないと心得ることが肝心なのです。

しかしながら、私たちが幸せになるためには

平和が必要でありますから、

そこに道を求め、信心させて頂くことによって、

日々の生活の中に、人間関係の中に、家庭の中に

道の働きを現せる人間にならせて頂くことが大切なのです。

幸せになる話

心を丸い円に喩えたとき、「幸せ」とは、

その円が満月のように真ん丸な状態を言います。

「円満」という言葉があるように、

満ち足りていて不足がない状態を「幸せ」と言うのです。

それに対して「不幸せ」とは、

何かしら不足があるために心の円に穴が空いていて、

半月になったり三日月になったり、

人によっては、かじられ尽した林檎のようになっている。 


では、そのように心の円に穴を空けている不足の正体とは

何かと言いますと、それは「自分の期待通りにならない」という思い。

これに尽きるのです。


不幸せな人というのは、

何かしら不足を言われるものですが、

それらはすべて、自分の期待通りに人、モノ、お金が

動いてくれないというものであります。 

しかし、そのような自分の不足というものを

一体誰が埋めてくれると言うのでしょうか。


ここで大半の人が自分の身近な人間を当てにします。


その相手に対して、お金なり親切心なり、

何かしら自分の不足を埋めてもらおうと躍起になるのです。

しかし考えてもみてください。

その当てにしている相手にだって不足があり、穴が空いているのです。

相手だって、お金も親切心も足りない足りないと言って、

誰か埋めてくれる者は居ないかと捜している。

そのように考えた方が自然ではないでしょうか。


幸せになろうとしながら、

人を当てにしては不足を言って、

幸せになれない心の在り方になってしまっている。

これが「迷い」というものです。


そうではなく、

「人から何かしてもらおうと思わなくても、

この自分自身の中に限りのないお恵みを頂いているのだ。

私の中から、どんなことでもしようという心が出てくれば、何だって出来る。

無限に良いものを私は授かっているのだ!」

このことに気付かせて頂くことが信心であります。


当てにするというのは、

相手にこちらの期待通りに動いてもらおうと思うことですが、

信心というのは、

むしろこちらから相手の期待通りに動きたいと願うことであります。


そして「相手の期待通りに動きたい」という心があって

はじめてそこで、自分の不足というものが無くなる。

穴が埋まって円満となり、幸せになれるのです。

信心は誰がする?

室町時代に活躍した浄土真宗の僧、

蓮如上人のエピソードにこのようなものがあります。


蓮如上人がある田舎町に訪れた時のことです。

糸を紡いでいた老婆が蓮如上人に向かって、

「私は糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱えております」と言いました。

老婆は心の中で、蓮如上人が

きっと満足の意を表されるであろうと期待していたのですが、

蓮如上人からは思いがけない答えが返ってきました。

「婆様、そうではない。念仏を唱え唱え、糸を紡ぎなされよ」


「糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱える」ことは、

糸を紡ぐという仕事をしながらも信心を忘れずにいる、

ということですが、蓮如上人はそれではいけないと。

そうではなくて「念仏を唱え唱え、糸を紡ぐ」。

つまり、信心を中心に置いて、糸を紡ぐという仕事をしなさい、

と老婆に教えられたのであります。


仕事をしている自分がいて、

その自分が信心をしているのであっては、

仕事が行き詰まった時、自分自身が行き詰まった時、

助かる道はありません。

信心を中心に置けば、

神様が中心に居られることになる。

神様が中心に居られて、

信心させて頂いている自分が神様の手足となって

働かせて頂くのであります。

ですから、仕事が行き詰まっても、自分自身が行き詰まっても、

それを乗り切る力を与えて頂けるのです。


いくら信心していると言っても、

自分が信心するという信心には、

「自分はこれほど信心しているのに」などという愚痴や不足、

「自分の信心が足りないから」などという不安や心配が付き纏います。

それは神様を離れて「自分」というものがしている信心でありますから、

色々な迷いが起きて来るのも当然のことなのです。


お道の教えにこのようにあります。

『何事にも無理をするな。我を出すな。

 わが計らいを去って神任せにせよ。』


「自分がする」ではなく、すべて神様に「させていただく」。

神様のお仕事を自分の手足を使ってさせていただき、

神様の生きておられる生き方を、

自分の生活をもってさせていただくのであります。

そこに助かる道があるのです。
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