FC2ブログ

本当に頼りになるもの

お道の教えにこのようにあります。

『人を頼りにするから、

腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。

人に向かう心を神に向けよ。』

頼り合うためにこそ、夫婦や友人があるのではないかとさえ思われるのですが、

よく考えてみますとそれは間違いであります。

頼り合うことが、本当に頼りになればそれでよいのですが、

「頼ろう」とするということと、「頼りになる」ということは全く違うのです。


頼りになるというのは、

何かに頼ろうとしない人が本当に頼りになるのであって、

あれに頼ろう、これに頼ろうとする人は、頼りにも何にもなる人ではないのです。


また、あれに頼ろう、これに頼ろうとする人で、

自分が助かっていく人はいません。

自分自身でしっかりした生き方になれないからであります。

そして、そういう人は必ず他人を利用しようとするものです。

夫・妻を利用しようとし、友人を利用しようとする。

それがこちらの思うように利用されてくれない。

そこで必ず不足が起こり、腹も立つ。

なんとかしてこちらの思うように利用しようとするために、

策略を講ずる。駆け引きもする。

頼りたいと思う心が変化して、様々な浅ましい姿になるのです。

これではいつまで経っても本当に助かっていくことは出来ません。


信じる心(信心)とは、頼る心(依頼心)ではありません。

信じるということは、相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、

むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことであります。

挨拶でも、親切でも、仕事でも、こちらから出来るだけ余分にして出るところに、

人間の本当の幸せがあり、喜びがあるのです。

本当の夫婦関係、友人関係というものは、

お互いに頼ろうとはしないものであります。

相手を頼ろうとしないで、むしろこちらが相手の頼りになっていこうとしていく。

そういう人間同士が一緒に生活をして、

友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、

それが本当に頼りになるということを忘れてはなりません。

聞こえまっか

お道の教えにこのようにあります。

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人である。』

これは、みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、

「自分」や「他人」などという区別など、そもそも無いのである

という、まことに深遠な教えであります。

私たちの「いのち」というものは、

他の多くの「いのち」と繋がり、支え合って存在しているのです。 

それは私たちが気付こうと気付かまいと、

私たちを生かそうとする働きがこの天地の中に満ちわたっていて、

その中に生かされて生きている私たちなのであります。

それを、「自分のもの」とか「自分の力で」とかに限定するところから、

周囲との関係が見えもしないし、聞こえてもこないのであります。


「自分」というものが孤立して存在するように考えていた、その考えから離れていく…。


そのように我を否定していくと

何が見えてくるか、何が聞こえてくるか。

自分と他者、自分と自然との関わり合いを

見つめ直すことで開けてくる人生があります。

自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることが出来るようになる。

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてくるのです。

夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。

嬉しいこと、悲しいこと、そのどちらもが

私たちを生かし、養い、あらしめているのであり、

そのどちらもが尊いのであります。


神様が分からぬ、信心が分からぬ

ということなど、さしたる問題ではありません。

大切なことは、この自分というものは、

自分だけの自分ではなく、全体の自分であるということに気付くことであり、

そこから見えてくる、聞こえてくるものを大切にすることであります。

そこに至ってはじめて、これまでの悩みや問題の一切が無くなるのであります。


ですから私は日々、問うているのです。

「見えまっか」

「聞こえまっか」と。

私たちは決して一人ではないのだということを。

「苦労」の見方を変える

次のような言葉があります。

『チャンスがドアをノックしていても、ほとんどの人が気付かないのは、

 チャンスがたいてい作業服を着ていて、骨の折れる仕事のように見えるからだ』 

これは、幾多の苦労を乗り越え、試行錯誤を繰り返し、

やがて世界の「発明王」と称されるに至った、エジソンの言葉であります。


「苦労」といえば、誰もがしているものであり、

その言葉の通り大変苦しいものだと誰もが考えていて、

しかも「自分ほど苦労している者はいない」と誰もが思っているようであります。


確かにいつの時代も世の中は生きづらい。

自分に都合のいい時などありません。

一面から言えば、人生とは苦労の連続であります。


しかし、その苦労を乗り越えずして、何を乗り越えると言うのでしょうか。

そこを乗り越えて行くところに「生き甲斐」があるのです。

生きづらい世の中だからこそ、生き甲斐というものを感じることができるのです。

もしこの世のすべてがやさしくて、楽しい事ばかりだったら

世の中は決して面白くないはずです。

生きづらい中を一生懸命に生き抜いてこそ、

生きる喜びを感じることが出来るのであります。


元来「いのち」というものは苦労を避けようとするような、

そんな意気地無しではないのです。

そんな意気地無しでどうしてここまで発展し、

生き延びて来ることが出来ますでしょうか。


自分のものであれ他人のものであれ、

苦労を避けようとせず、自ら引き受けて行こうとする態度が肝心です。

苦労というのは、持て余しているとだんだんと重くなるばかりで、

しまいには耐えきれないほどにもなりますが、

自ら進んで引き受けようとなると、その瞬間にサッと軽くなってしまうのです。

そしてそこから、限りない喜び、生き生きとした力が湧き上がってくるのです。


お道の教えに、『難はみかげ』とあります。

苦労も見方を変えれば、神様からの贈り物であります。

有難く受け取らせて頂くところに、道は開けて行くのです。

「いのち」の調子を整える

お道の教えにこのようにあります。

『用心せよ。わが心の鬼がわが身を責めるぞ』

心の鬼とは何かと申しますと、

不足・不満・不服・心配・嫉妬・傲慢・憎悪…

と言った人の心の中にある、負の感情のことであり、

わが身を責め、滅ぼすのは他人ではなく、

そのような自分の心の中に巣くう鬼こそが、

わが身を滅ぼすのである、という教えであります。


それに対し、信心については、このように教えられています。

『わが心が神に向かうをもって信心と言うなり』

宮、寺、社など特別な場所で、特別な作法をもって、

特別なことをすることが信心ではありません。

大切なことは、自らの心を神に向けることであり、

場所や作法はその為の工夫なのであります。

神に心が向かっている時の感情とは、

心の鬼とは正反対の感情、

感謝・満足・納得・安心・共感・謙虚・愛情…

と言った、正の感情であります。


つまり、信心において最も大切なことは、

自分の心を正の感情か負の感情、どちらに向けて生きていくか、

ということ。

言い換えれば、自らの「いのち」の調子を整えるということに尽きるのです。


「いのち」の調子が整って、信心となっている時もあれば、

はたまた「いのち」の調子が狂って心の鬼に責められる時もある。

性善でも性悪でもないのが人間なのであります。

白と黒、善と悪の間に人間がある。

そして、そのどちらにもいくことが出来るのです。

何らかの縁で上に昇ることもできれば、下に落ちることにもなる。

あらゆる悪も人間から出てきますが、同時にあらゆる善も人間から出てくるのです。


そのように、人間というのは何か一定の塊としてあるのではなく、

その時々の場や関係次第で色々な動きをするものであります。


だからこそ、大切なことは、その「いのち」の調子が

狂わないように、乱れないようにしていくこと。

日々、「いのち」の調子を整えて、

家庭に職場に良い感情を生み出し、

周囲の人々と良い関係を築いていくことが信心そのものなのです。

「喜び」がやって来るには…

お道の歌に

「喜べば喜びごとが喜んで 喜び連れて喜びに来る」

とあります。


発句である、「喜べば」というところが特に肝心です。

まず自分が喜ぶ、言い換えれば「感謝する心」が先にあって、

それによって喜びごとが喜び、お仲間さん達を引き連れて、

自分のもとへやって来るというわけです。


人間、夢や願いを持つことは大切ですが、それが叶った際、

世話になった人や出来事に対して、「感謝する心」が無ければ、物事は長続きしないものです。


しかし逆に「感謝する心」があれば、

感謝したくなるような出来事が不思議と起きてくるのです。


他人を傍から見ていると、この道理がよく分かるのですが、

いざ自分が「感謝する心」を持とうとすると、どうにもそれが難しい。

何故なのでしょうか? 

その最大の理由は、「感謝する心」が、

人が生まれながらにして持っているのものではなくて、

各個人が後天的に身に付けていくものだからではないでしょうか。


心理学でも、人は一般的に「幸」より「不幸」を感じやすいと言います。

言い換えれば、怒りや不満などと言った不幸せな感情は、

誰に教えられなくても、また何の苦労も無しに生まれてきますが、

感謝や満足といった幸せな感情を持つには、どうしても稽古が必要となるのです。


私たちの「感謝」というのは大抵、結果が良い時に感謝するのであって、

結果が悪ければ感謝しない、というのが通例であります。


しかし先に述べました通り、「喜べば」が先にある。

「感謝する心」が先にあって、

結果として感謝したくなるような出来事が起きてくるわけです。


この順番は大切ですね。

まず自分の心が先にあるのです。


「結果によっては、感謝しない」となると、

もはや「感謝」ではなく「取引」ではないでしょうか。

これではいつまでたっても「感謝する心」が先にくることはありません。


「喜べば喜びごとが喜んで 喜び連れて喜びに来る」


「喜び」がやって来るには、まず自分が喜ぶこと。

感謝する稽古をさせていただくことが大切なのです。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター