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神様はどこにいる?

日本のペスタロッチーと言われた教育者である、

東井義雄(とうい よしお)先生の詩に、次のようにあります。


見えないところで 

見えないものが

見えるところをささえ

生かし

養い

あらしめている


人間、目に見えないものは信じられないものです。

目に見えないものは、いくら人から説明されても

やはり見えないものですから、疑えばキリがありません。

「神を信じられない」と言われる一番の理由も、目には見えないからでしょう。

しかし、この世の実際とは、

目に見えないものが、目に見えるものを支えているのです。


金魚鉢の中を泳ぐ金魚は、

鉢の中の水を泳いでいることを知らないのと同じように、

人間も目に見えない大きな働き、

そのお恵みの中で生かされていることが自分自身にはどうしても分からないのです。


お道の教えに、このようにあります。

『神様は目にこそ見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、

神様の中を分けて通っているようなものである。』


生きるということは、

神様のお働きの中で生かされ、

神様と共に生きているのであります。


信心するということも、神様のお働きの中でしているのであり、

神があるかないかと論じるのも、神様のお働きの中でしているのです。


ですから、このお道では参拝するにしても、

仕事をするにしても、何をするにしても、

「させて頂く」とか「神様のおかげを頂いて」という言葉をつかうのです。


神が分かるということは、

知識や学問として神が分かるというものではなく、

信心が進んでいく中で、自分の命、生活は

自分だけのものではなく、一切の働きによって

「生かされて生きている」ということが分かるということであります。


神様がどこにいて、

どのような姿で、男か女か、などというのは、

さしたる問題ではありません。


大切なことは、「生かされて生きている」ことに

感謝をして生きていくこと。

それが信心であり、肝心要のところはここにあるのです。

自分を見ること

「これだけ信心しているのに、

相手は少しも良くなってくれない。

少しも変わってくれない」

とおっしゃる方がおられます。

そのお気持ちはお察ししますが、

これでは信心している値打ちがありません。


お道の教えに、このようにあります。

『天地の神のおかげで生かしてもらっている者は、

合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。

悪いことも善いことも、みな鏡に現れるように神様はご承知である。

信心して、真の心にならなければならない。』

ここで大切なことは、合わせ鏡である他人の中に

善なり悪なりが見えるということは、

自分の中にも、それと同じ善なり悪なりが在るということであります。

そこのところをしっかりと見させていただくことが大切であろうかと思うのです。


自分を見ることが足りない間は、

すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。

ところが、自分が見えるようになるところから一大転換が起きるのです。


自分が見えることによって、

相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということに気付かされるのです。

そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになるのです。


相手が善くなってくれることを、

こちらが何十年待ったところで、どうなることやら分かりません。

それよりも、こちらが相手を悪く思ったり、

辛く思ったりしないようになれればよい。

つまりは、自分が変われればそれでよいのです。


自分が見えていればこそ、他の人が悪いところを出しても、

それが我が内にもあることを知っているので、

簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。


その心持ち、

「人に偉そうに言えるような私でありません」

と本気で思えた心持ちになってはじめて、

それが相手の心に響いて、関係が変わってくるのです。


神様のお働き、お助け方というのは、

このように相手が自分の都合の良いように変わるといったものではなく、

自分自身が変わらせていただけるものであり、

それが人間関係の上でおかげをいただくということなのです。

心に天気を持つ

天気が良ければ、機嫌が良い。

しかし天気が悪ければ、機嫌も悪い。

これでは信心させていただいている甲斐がありません。


信心させていただくとはどのようなことか。

それは例えて言うならば、

自らの心に天気を持つということであります。

雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心が晴れ渡っている。

周りの環境がどうであろうとも、

自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、

物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。


そのような本当にしっかりとした人間にならせていただくことを願い、

実践することを私どもは「信心させていただく」と言うのであります。

では、信心させていただけば何が変わるのかと言えば、

それは運命、現在いる環境が変わるのです。


私たちの運命、現在いる環境とは、

実は自分自身の心が定めた場所なのであります。


それは今の自分にとっての最適な場所であり、

最善の学びの場に違い無いのです。
 

しかし、もし私たちが今いる環境で必要なことを学び、

そして成長し、自分の心が変わったならば、

次の新しい環境が目の前に現れることになる。

今の環境から「卒業」するのです。
 

大半の人が自分の環境が改善されることを願いますが、

自分の心を改善することには興味がない。

いつになっても自分の環境を改善できないでいる理由が、ここにあるのです。


お道の教えに、このようにあります。

『広大なおかげ、広大なおかげと言うが、

おかげとは氏子のめいめいの真に映る影のことじゃから、

神様に大きな真を向けて見よ、大きなおかげがわが身にいただける。

小さな真で大きなおかげはもらえぬぞ。影は形にそうと決まったものじゃ。』


幸せも成功も、私たちの心の影なのであります。

実体が大きいほど影も大きくなる。

心に大きな真があれば、それだけ大きなおかげが受けられるのです。

自らの心に天気を持ち、感謝と歓喜によって心が磨かれ成長していく時。

それは、私たちの運命が明るい方向へ展開していくときに他ならないのです。

運命を展開してこそ

中国・明の時代に袁了凡(えん りょうぼん)という方がいました。

彼は少年時代にある人相見から、

将来役人になること、その役人試験の合格時期や出世時期、

また結婚時期や子供に恵まれないこと、

さらには寿命まで未来をきめ細かく占ってもらい、

その全てがこの占い通りに人生が進んでいきました。


そのため彼は、「人間の運命は変えることはできない」と、

宿命論的な人生観を持つようになります。


そんな彼があるとき、

出張先の南京で高僧・雲谷(うんこく)禅師に出会いました。


雲谷禅師は彼を見て、

「そなたは若いのに非常に落ち着いておられる。何処で修行なされたのですか?」

と尋ねたところ、彼は、

「いいえ、ただ私は運命に従っているだけです」

と答え、幼い頃に出会った人相見のことを語りました。


すると雲谷は態度を急に改め、

「この愚か者め! それでは何のために

生きておるのか分からないではないか」

と切り捨てました。


びっくりした彼が訳を聞くと雲谷禅師は静かに、

「人間の運命が変わらないものなら、

なぜ釈迦や孔子が苦労したのか。

確かに人間には前世の行いによって運命というものが決められているが、

それは現世の努力で変えられるものだ。

自分の人生を創造的に生き、

善き事を想い善き事を為していくように心掛けなさい。

そうすれば必ず運命は変えられる」


それを聞いた彼は愕然として目覚め、

雲谷禅師の教えに従って心を改め、

善行を行い、養生につとめたところ、

かの人相見の占いが全て外れだしたのです。


合格しないと言われた役人の試験に合格し、

子どもはできないと言われたのが男の子を授かり、

五十三歳で死ぬと言われたのが、七十四歳までの長命を得たのでした。 


お道の教えに、このようにあります。

『おかげを受けられるか受けられないかは、

わが心にある。わが心さえ改めれば、

いくらでもおかげは受けられる。』

人間は自ら背負った宿命というものを、

明るい方向へも暗い方向へも変え得る力を持っているのです。


それだけに難しい問題も多々あるわけですが、

運命を明るい方向へ展開してこそ

人間に生まれた甲斐があるというものではないでしょうか。
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