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死んだと思うて

幼い頃、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」

と教えられ、また私自身も信じていました。

最近になって改めて閻魔様について

教えていただく機会を得たのですが、

閻魔様というのは大昔のインドの宗教の神様なのだそうです。


その神話によると、人類の死者の第一号が閻魔様であり、

後に、死者の生前の行為を記録によって賞罰を司る神様となります。

閻魔様は恐ろしい顔をしていますが、

実はやさしい地蔵菩薩の化身であり、心の中では

「もうこんな罪悪を犯して、こんな所に来るのではないぞ」

と叫びながら、再び罪悪を作らせないように恐ろしい顔で叱咤しているのです。


また「起世経(きせいきょう)」によると、

閻魔様は人を裁く前には、

火で真っ赤に熱した鉄丸を飲んで死んで、

生き返って罪人の前に立つ、とあります。

 
熱した鉄丸を飲んで死にきるとは、

自らの執着心を捨て切った上で人を裁くという

厳しい誓いの表れであります。

生身の私たちが熱した鉄丸を呑むなどとても出来はしませんが、

執着心を捨て切る為にはそれだけの覚悟が必要であることを教えられます。


お道の教えに、このようにあります。

『死んだと思うて欲を放れよ』


欲を放れよというのは、

食べたい、飲みたい、眠りたいという欲を放れよ

という意味ではありません。 

それで私たちが助かるわけがありません。

放れなければならないのは我欲であり、

自分の考えに執着することから放れよと教えているのです。


閻魔様が鉄丸を呑む話から分かるように、

死んだと思わなければ自らの我欲を放れることはできないのです。

しかし、我欲を放れると本当に死ぬものならば、

欲を放れよと教えられるはずがありません。


欲に囚われている者は、欲を放れると死ぬように思いますが、

実際には死にはしない。

かえって生き生きと生きられる。欲に囚われ、

執着する者こそ実は危ないのであります。


人が人を裁く世の中であります。

人を裁く前に、死んだと思うて我欲を放れ、

我が内に凝り固まった執着がないか、

よくよく見させていただくことが大切なのです。

原因と結果

山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)と言えば、

幕末・明治の政治家として、また無刀流を開いた剣術の達人として

大変有名な人物であります。


鉄舟はさらに熱心な禅修行者でもありましたから、

道場においても弟子達に対し、剣の稽古だけではなく、

事あるごとに禅の教えを説きました。


ある日のこと。

鉄舟が道場でいつものように禅の教えを説いていますと、

そのことを苦々しく思っていた若い一人の門弟が得意気に声を上げます。

「先生、今朝、私は家からこの道場へ通う途中で

 神社の鳥居に小便をかけましたが、

 この通り何の罰も受けておりません。

 神仏など迷信です。」

それに対し鉄舟は、

間髪を入れず、

「この罰当たりめが!」

と大声で叱りつけました。

その門弟はびっくりしたものの、

「先生、どこに罰が当たっているのですか?」

となおも逆らいます。 

すると、鉄舟は静かに答えました。

「分からないのなら教えてやろう。

 いいか、神社やお寺の前を通るとき、

 きちんと礼拝できるのが、人間の教養というものだ。

 鳥居に放尿するなど、犬猫のする行為だ。

 お前は一人前の人間であり、しかも武士ではないか。

 武士たるものが、人間のすることさえできず、

 犬猫の仕業しかできないのが、どうして罰が当っていないと言えようか」

さて、原因と結果と言いますと、

善い行いをすれば将来善い結果が生まれ、

悪い行いをすれば将来悪い結果が生まれるというのが通例ですが、

本当は、原因を作った時に結果も共に生まれているのです。


お道の教えに、このようにあります。

『真にありがたしと思う心、すぐにみかげ(恩恵)のはじめなり』

有難い心があるから将来助かるというのではない。

有難いという心になった、それがそのまま最善最高の生活で、

そこから後はそれが続いていきさえすればよいのであって、

それ以上の生活はないという教えであろうかと思います。


有難い心で神仏に手を合わせることができる、

人に優しく接し、物を大切に扱うことが出来る。

有難い心で善い行いができることそれ自体が、

喜ぶべき結果であることを忘れてはなりません。

恩人

をさ はるみさんの作品に、
『独り言(ひとりごと)』という詩があります。

わたしがわたしになるために

人生の失敗も必要でした

むだな苦心も骨折りも

悲しみも必要でした

わたしがわたしになれたいま
 
恩人たちに手をあわせ
 
ありがとうございますと
 
ひとりごと


恩人とは自分にとって感謝すべき人、
尊敬すべき人に限ったことではありません。
反面教師もまた恩人なのであります。

人だけではありません。

失敗も、無駄な苦心も、骨折りも、悲しみも、
その全てが人生の恩人である、と。

一見無駄に見えることの中に、
どれだけの恩寵があるかということを考えさせられます。

プラスを感謝することなら誰でも出来るでしょう。

しかし、苦悩や絶望といったマイナスの淵にあって、
「ありがとうございます」と手が合わせることが出来るのが
信心のありがたさであります。

苦悩や絶望が縁となって、
神様の願いに気付かせていただき、
真の生き方に目覚めるのです。

そこから自然と手が合わさるようになる。

お道の教えに、このようにあります。

『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、
このほかには何もないのであるから、
人の身の上にけっして無駄事はなされない。
信心しているがよい。みな末のおかげになる。』

神様は人間の親であります。

親は、たとえ子どもが親の恩を
分かっていなかったとしても
子どもの世話をし続け、心配をして下さいます。

そして、子供の至らないところは、
改まり成長できるよう、
祈りに祈りながら長期に亘って時節を待って下さいます。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と
神様に祈る遙か前から、
実は神様が祈って下さっているのです。

最善、最高、最適の神様のお働きの中で、
生かされ生きていることへの感謝を忘れず、
より良くなろうと努めることが、
すべての恩人への「恩返し」となるのです。

共に助かる道

今から百五十年ほど昔、
金光教の創始者である赤沢文治が
神様一筋の生き方を求め、様々な信心修行を進めていく中で、

「裸足の行」をされた際、
奥様からこのように言われます。

「大霜が降っていても、裸足で外に出られるのですか。
それでは人が笑います。
体裁が悪いじゃありませんか。

『信心ばかりして、わらじひとつ作らない』
と人が言いますから、はだしでは困ります。」

確かに奥様の言われるのも当然であります。

教祖自身、長年、農業を生業(なりわい)としてきたのですから、
裸足で外へ出ることの危険や、愚かしさを
誰よりも分かっておられたに違いありません。

しかしながら、神様と約束した修行を
「妻がそう言うから」とやめてしまっては神様に申し訳ない。

だからと言って、
「神様との約束事だから、お前は我慢しろ」では、
奥様の気持ちを無視することになってしまう。
それではなお一層、神様に申し訳ない。

そこで教祖は
「確かにそれでは、体裁は悪いだろうから」と言って、
農具にわらじをくくりつけ、
尋ねる人には「わらじが足にあわないので」
と答えるようにされたのでした。


さて、私たちはともすれば、
人間関係の問題を、
正しいか誤りか、強いか弱いか、勝つか負けるか、
などで考えてしまいがちであります。

しかし真の意味では人生は競争ではないのです。

人間関係というのは
「もし相手が助かっていなければ、自らも助かっていない」
というのが真実であります。

つまり、どちらかが負けているとすれば、
お互いが負けてしまっているも同然なのです。

お道とは、このエピソードが示すように、
自分自身と奥様、すべての人々を満足させようとする道であります。

自分の気持ちを押し隠したり、
相手の気持ちを無視したりする必要などない。
必ず双方が「共に助かる道」がある、
ということを信じて行うことが信心であります。

私たちの幸せや成功というものは、
決して自分だけで完結するものではなく、
お互いに影響を及ぼし合って存在するものである
ということを肝に銘じておかなければなりません。

元日の心

元日には、
皆が「おめでとう、おめでとう」と言い合い、新年を喜び合います。

新たな年に、
新たな願いや期待を持って、
嬉しく楽しく有り難い心持ちにならせて頂いているのであります。

このお道では、
そのような「元日の心」というものをとても大切にしています。

教えには、このようにあります。

『信心は日々の改まりが第一である。
 毎日、元日の心で暮らし、
 日が暮れたら大晦日と思い、
 夜が明けたら元日と思って、
 日々うれしく暮らせば家庭に不和はない』


元日の朝には、
「今年こそは」と願いを立て、
感謝と反省を胸に刻んで、今日という一日を大切に過ごそうとする。

それが毎日続けば、信心になる。

信心になれば、家庭に職場に、良い人間関係が生まれ、
幸せな人生を歩んでいくことができる、という教えであります。

ですから、元日の今日のこの心持ちを
しっかりと味わい、保っていき、
そうしてどのようなことに出遭っても
自分から離れないように心掛けることが、
信心の稽古となるのです。

茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌にもあります。

「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」

信心の一とは、元日の心、
嬉しく楽しく有り難い心であります。

この一から順に習って十まで進み、
そしてあらためて、もとの一に立ち返ることが大切です。

自分が進んで来た道は、
嬉しく楽しく有り難い道であっただろうか。

周囲の人に対し、そのような心で接して来れただろうか。

今年はどのような工夫をして元日の心を持たせていただこうか。

あらためて一を習うと、
その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。
そこから次に向けての工夫が生まれるのです。

どうぞ、皆様にとっても、
今年一年の生活が「信心になる」一年となりますように。

「元日の心」で一日一日をお過ごしできるように、
祈念させていただきます。
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