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今を生きる

王陽明(おうようめい)は、中国・明の時代に活躍した、
実践儒学である陽明学(ようめいがく)の開祖ともなった儒学者であります。

陽明学は日本にも伝えられ、
幕末維新の志士を育てた吉田松陰にも大きな影響を与えました。

その陽明が弟子に与えた手紙の中にこのような言葉があります。

「人生は変化が絶えず、様々なことがあるが、
私がこれらの問題すべてに対応できる理由は、
『人生のいかなる変化も、突き詰めれば、喜怒哀楽の四つしかないこと』
を知っているからなのだ。」と。
 
つまり、如何に喜び、如何に怒り、如何に哀しみ、如何に楽しむか。
これが人生のすべてであると教えたのであります。

確かに考えてもみますと、私たちは皆、
何か出来事にぶつかるたびに、喜怒哀楽、
このいずれかの感情を間髪入れることなく生み出し、
生きているのであります。

喜ぶべきときに喜び、哀しむべきときに哀しむ。
それでこそ人間なのであります。

しかし、喜ぶべきときにしっかりと喜ばず、
不足を言ったりしかめっ面をしたりする。

あるいは、人が哀しい思いをしているときに、
それを哀しまずに喜んだり、楽しんだりする。

これでは人間本来の「いのち」を全うしているとは言えません。


教えには、このようにあります。

『日に日に生きるが信心なり。』

「生きる」ということはただ漫然と日々を過ごすのではなく、
何かを生み出していく働きであります。 

我々が腹を立てているときには腹立ちが生まれているのであり、
心配している時には心配が生まれている。
おかしなものを生んでしまっては、この自分というものが台無しであります。

王陽明が言った通り、人は誰でも
喜怒哀楽に支配されて生きているのかも知れない。
しかし、何を生み出すかは自分自身で決めていくことが出来る。

その生きていく調子を整え、
他のお世話になって生かされて生きていることに目を向け、
喜びを生み出していくことが信心であります。

何を生むか。

生むものによって自分の価値が決まる。

このことを忘れてはなりません。

心に山をこしらえて

明治中期の頃、ある方が金光教祖にもとに参られ、
このような相談をされました。

「徳を積ませて頂くためにしばらくの間、
山に籠もって修行させて頂こうと思うのですが、
いかがなものでしょうか」

すると、金光教祖はこのように仰ったそうです。

「それは結構ですね。しかし、何もわざわざ不自由な山に籠もらずとも、
心の中に山をこしらえて、その中で修行をされたらどうでしょうか。
自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、
また奥さんの作った料理がたとえ不味かったとしても、
決して不足を言うことはないでしょう」と。
 
さて、修行と言いますと、
形を正すことによって心を正す表行(わぎょう)と、
まず心を正して形にまで及ぼす心行(しんぎょう)との
大きく二つに分かれます。

そして大抵の者は表行をしたがる。
これは私自身もそうでありましたからよく分かります。

元来人間の心というのは大変変わりやすいものですから、
心をただ心だけで維持しようとするのは大変難しい。

そこで、生活の中に見える形として現し、
そこで維持していくようにすると、
自分の信心があたかも進んだような気分になります。

寒中に冷水を浴びたり、
断食したりすることがこれに当たります。

しかし、そうした表行をして、
どれだけ我が身を苦しめてみても、
残念ながらその効果とは意外と小さく、短いものであります。

山の仙人にはなれても、
里で仙人になることは今も昔も大変難しい。

そこで金光教祖は、「表行よりも心行をせよ」と。

では心行とは具体的には何か。
教えにはこのようにあります。

『人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、
仕事に勤め、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、
だれにも言わずに行えば、これ心行なり。』

心行とは身に起こる一切の問題、
不自由を「行」と受け切るところにあります。

しかし、受け切ると言っても、
それがただのやせ我慢、忍耐であっては、それも表行であります。

心行とは、そこに山をこしらえて、
一歩進んで嬉しい心で受け切る器を養うところにあるのです。

そこで初めて本物に近づく。

本当の意味で徳が身に付くのだと思います。

道とは何か

昭和の哲人として知られ、
「平成」の元号の発案者とも言われている安岡正篤(やすおか まさひろ)は、
「道」という言葉について、
「宗教と道徳を一つにしたもの」だと説明しておられます。

これは、人間が大いなる存在である神仏を
信じて仰ぐ心を持つことが「宗教」であり、

そこから必然的に、自らの行動を省みて
律していこうとする「道徳」が生まれるのだ、と。

したがって、宗教なき道徳というのは形式だけの道徳であり、
また道徳なき宗教というのも堕落していて、本当の宗教とは言えない、
と安岡氏は言い切っておられます。

つまり、宗教と道徳というのは表れ方が違うだけであって、
本来、分けて考えられるようなものではないというわけです。

そこで、東洋ではこれを一つにして「道」と呼びました。

道というのは、道路になぞられて言われた通り、
誰もがこれを実際に歩いていかなければ目的地へ到達しない、進歩しない。

つまり、「実践してなんぼ」というわけです。


私も縁あって、金光教という道の一信奉者、
一教師としてご信心をさせて頂いており、

このお道に沿った生き方をさせていただくことを
第一の仕事とさせていただいておりますが、

その名前とか教学などは、あえて言うなら、
本来どうでもよいものだと思います。

そういうものに拘ると、
逆に「道」というものが分からなくなっていきます。


教えには、このようにあります。
『信心といっても別にむずかしいことはない。
親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、
その日のことが都合よくいくように願い、
よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。

そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、
夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、
それで信心になる』

大切なことは、一日一日、その瞬間その瞬間を、
感謝の気持ちで過ごさせて頂く。これに尽きます。

毎日の仕事を有り難くさせていただく。

人と物を大事にさせていただく。

それが、信心させていただくということ、
道に生きるということなのです。

心の門

約四百年前の中国・明の時代に書かれた、
『菜根譚(さいこんたん)』という書物に、
このような言葉があります。

「口乃心之門(口はすなわち心の門なり)」

食物と言葉の出入口である我々の口は、
実は心の出入口でもあるのです。

この口を慎重に守らなければ、
心というものは気付かぬ内に洩れ出て流されてしまう。

ですから「心の門」である口にいつも注意を払いなさい、
と教えたのでしょう。

また、門(出入口)というからには、
口から出た言葉が、やがて返ってくる
という意味も込められているのでしょう。

昔から言霊(ことだま)という言葉があるように、
一度発した言葉には魂が宿るものです。

そしてその言葉は後に、言葉を発した人の心、
大きく言えばその人の人生をもつくりあげて行くのです。

つまり、一度自分が言った言葉は、
やがて必ず自分のもとに返ってくるのです。

いよいよ心の門である口の扱いが大切になってまいります。

しかし、そうは言っても人間でありますから、
ついつい感情が口からこぼれそうになる。

その感情が感謝や喜びであれば問題無いのですが、
不足や怒りであっては、その後の人生をも台無しにしかねません。

そのような時、どのようにすればよいか。


お道の教えに、このようにあります。

『どうにもならないと思う時にでも、
 わめき回るようなことをするな。
 じっと眠たくなるような心持ちになれ』

心が乱れ、今にも口から
愚痴や不足、泣き言がこぼれようとする。
そういう時こそ、じっと眠たくなるような心持ちになりなさいと。
それがわめき回りたくなる状況から抜け出す唯一の道であります。

口を開けば感情に流されやすい。
感情を口に出してしまえば、
その言葉に流されてしまうお互いであります。

ですから、心の門である口でしっかりと守り、
時には鍵を掛けて固く閉ざすことも大事なのです。

人や物事を責めようとする「思い」をそのまま口に出さず、
静かに神様へ向けていくことが、
門番として心得るべきところであります。
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