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七転八倒は「おかげさま」

中国・唐の時代、
大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師に、
弟子の一人が問いました。

「この道さえ歩いてゆけば、絶対にまちがいのない、
真実の道とは、一体どのようなものでしょうか」

禅師はたった一言答えました。

「七転八倒(しちてんばっとう)」
(七回転んで八回倒れる)と。


普通なら、何度転んでも起き上がる
「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、
禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。

つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、
と弟子に教えたのです。

確かに人間というのは、
どこまでいっても未完成、不完全であり、
生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものであります。

しかし、それでもなお、禅師が「七転八倒」を勧めたのは、
その転んで倒れることの中にこそ、
私たちが人間的に成長できる面がたくさんあるからではないでしょうか。

例えば、病人へのお見舞いでも、自分も同じ病を患ったことがあれば、
心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように
人を慰めることで自分が慰められるという働きにも、
気付くことが出来るでしょう。

それは「病」という一つの石に
転んで倒れた経験のおかげなのです。


お道の教えに、このようにあります。

『これほど信心するのに、
なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、
もう信心はとまっている。

これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、
信心をしていけば、そこからおかげがいただける。』


肉眼で見れば「災難」であることも、
信心の眼で見れば、
それは神様から与えられたプレゼントなのです。

そのことに七転八倒する中に、
どれだけの願いが込められており、
飛躍の種が隠されていることか。

このことに眼を向けることが信心であります。

一見マイナスに見えることの中に、実は大きなプラスがある。

そして自分にプラスになったとき、
自然と「おかげさま」が口に出ます。

転ぶことも「おかげさま」。
倒れることも「おかげさま」なのです。

「ほんもの」と「にせもの」

東井義雄(とうい よしお)先生は、
檀家が9軒しかない日本で一番貧しいと
言われるほどの極貧の寺に生まれ、
大変な苦労を重ねられて教育者となり、
数々の功績を残された方であります。

東井先生の詩に、
「『ほんもの』と『にせもの』」というものがあります。

「ほんもの」と「にせもの」は
見えないところの在り方で決まる
ぞれだのに「にせもの」に限って
見えるところばかりを気にし
飾り
ますます
「ほんとうのにせもの」になっていく


人間、誰の眼も届かぬ一人の時にこそ
本当の生き方が出るものです。

そして、その時の自らの在り方で、
「ほんもの」か「にせもの」かが決まるのです。

自分で自分のことを「ほんもの」と言う方は滅多にいないでしょうが、
実は誰にとってみても、
自分が「ほんもの」でないということほど、つまらないことはありません。

何故なら、自分が「にせもの」ならば、
自分そのものが根本においてしっかりとせず、
自分自身を信じることが出来ないものですから、
当然他人のことも本心から信じることが出来ない。

これは大変辛いことであります。

「にせもの」の横道はいくらでもあれど、
それは皆やがては行き詰まります。

しかし、それが実は有り難いのでありまして、
行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、
神様を信じることも出来るのです。


お道の教えに、このようにあります。

『人目の届かぬ陰で、わからぬと思うて
 悪いことをしたり横着をしたりする者ほど、
 つまらぬ者はない。

 その時は得をしたように思うたり、
 利口なように思うておるだろうが、
 神様は見ているから、つまりは自分の損になる。

 …陰とひなたの心を持つなよ。』

信心をさせていただくということは、
この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと
心掛けることであります。

それは言い換えれば、陰であれ、ひなたであれ、
日々、この天地を貫く「眼」を意識して生きる、
ということであります。

どんな時も神様に心を向けていこうとするところに、
「ほんもの」への道は続いているのです。

神様の仕事

ノートルダム清心学園の理事長である渡辺和子さんは、
幼少の頃に二・二六事件で最愛の父親を目の前で亡くされます。

その後は家計を支えるために、
米国の方々のもとでキャリアウーマンとして、
ただひたすらに合理性と効率を追求し働かれました。 

しかし三十歳のとき、
家族の反対を押し切って入った修道院では、
配膳や洗濯、草むしりなど、いわゆる単純作業の毎日。

渡辺さんも当初はそのギャップに
大変戸惑っておられたそうです。

そんなある日のこと、
渡辺さんがいつものように配膳の仕事をしていると、
先輩のシスターから声を掛けられました。

「あなたは何を考えながら、お皿を並べていますか?」。

渡辺さんは、まさか「つまらない、と考えながら…」とは言えず、
咄嗟に「別に何も考えておりません」と答えました。

するとそのシスターは、にっこりと笑って、
「一枚一枚のお皿を並べて置く時、
ここに座る人が『お幸せでありますように』と、
祈りながら置いてみてはどうですか?
そうすれば、お皿を置くという、
ただそれだけの仕事も、神様の仕事となるのですよ」

渡辺さんはこの言葉のおかげで、
この世に「雑用」という仕事など無いということがよく分かった、
とおっしゃっています。


同じ仕事でも、「雑用」になるか、「神様の仕事」になるか。
それは私たちの心の持ち方次第です。

お道の教えに、
『仕事をするというから神は見ている。
 仕事をさせていただくという心になれば、
 神はつきまとってさせてやる。』
とあります。

自分が「する」、「してやってる」と思って行う仕事には、
必ず不満と不足が伴います。

それは、自分のものさしで仕事の大小、上下を決め、
自らの心から
「つまらない仕事」
「取るに足らない仕事」
「雑用」を生み出してしまうためです。

一方、「させていただく」と思って行う仕事には、
感謝と満足が伴います。

それは、仕事の大小に関係なく、
仕事を通じて誰かの幸せを願い、
誰かの役に立とうとする願いが心の中心があるためです。

この心で行えば、仕事は何でも神様の仕事になります。

そして、神様の仕事をさせていただている時、人は最も輝くのです。

「えくぼ」が「あばた」にならないために

ナチスのアウシュビッツ強制収容所での
実体験をもとに書かれた名著『夜と霧』などで知られる、
フランクル博士は、たいへんな愛妻家でもあったそうです。

『致知』という雑誌の中で、
次のようなエピソードが紹介されています。

ある方が、フランクル博士夫妻を日本にお迎えした際、
そのあまりに仲睦まじい二人の様子を見て、
「なぜそんなに仲良くできるのですか?」と尋ねたところ、
博士はニヤッと笑って、こう答えました。

「そりゃ君、簡単なことだよ。お互いの顔を見ていないからだよ。」

え? 尋ねた方は、博士の言わんとすることが分からず、
思わず聞き返しました。

すると博士は、

「男と女が恋愛をすれば、最初は“あばた”も“えくぼ”だろう。
ところが三年も経ってくると、
あばたはあばた、えくぼはえくぼになってくる。
それがもう少し経てば
 今度はえくぼもあばたになってくる。
 
 それはなぜかと言えば、お互いが顔を見合わせるからだよ。

 夫婦はね、顔を見合わせるのではなく、同じ方向を向くといいんだよ。

 同じ目的を持ち、同じ方向を見つめていれば、
 えくぼがあばたになるようなことはないんだよ」

と夫婦円満の秘訣を語られたそうです。

お道の教えにこのようにあります。

『夫婦は他人の寄り合いである。
 仲よくすれば一代安心に暮らすことができる。』
 
運勢というのは人が運んでくると言われますが、
夫婦の仲がどれくらいよいか、そこにどれほどの深さがあり、
強さがあるかということで、その人たちの運勢の良し悪しが
決まると言っても過言ではありません。

夫婦が見つめるべき同じ方向とは唯一つ。
「よい仲を築く」、これに尽きるのです。

夫婦の仲というものは、
夫だけでつくるのではなく、妻だけでつくるのでもありません。

夫と妻との、言わば「合作」なのです。

合作なのですから、
足を引っ張り合っていてはいけません。

相手に注文するのではなく、
「よい仲を築く」ために自分に何が出来るのか?

そこに心を向けることが、
えくぼがあばたにならない秘訣なのであります。

逆境は「お試し」

人間、生きていれば必ず「逆境」に遭うものです。

不遇な境遇に置かれ、物事が上手くゆかず、
先行きの見えない不安が、日々、心に重くのしかかる…。

何も起きない順風満帆の人生なんて無いはずです。

しかし、そのような逆境を乗り越え
自らの人生を謳歌している人もいれば、
その逆境に耐えきれずに自ら命を絶つ人もいる。

この違いは一体どこから生まれるのでしょうか。

お道の教えに、
『信心が篤くなるほどお試しがある。
 お試しがあるのはおかげ(幸せ)である。』とあります。

逆境に遭った際、
その逆境を「不幸だ、不運だ」とただ嘆くのか。
あるいは、その逆境を
神様から与えられた「お試し(試練)」として受け取るか。

これは大変大きな違いであります。

自分の心が成長するほど、お試しも大きくなる。
しかしそれは、より自分が成長するための「お試し」であるのですから、
喜んで頂戴しましょう。

大きな問題にぶつかったときには、
「こんな大変なお試しを与えられる自分になったんだな」
と、まず自分の成長を誇りましょう。

逆境を、自分の「成長の証」だととらえ、
神様はここで自分に「より大きくなってほしい」と
、こうした問題を差し向けてくれたのだ、と考えてみるようにしましょう。

今まで苦しみ以外の何ものでもなかったことが、
新しい意味をもって存在していることに気付くはずです。

私が修行生の頃、壁にぶつかり悩んでいた時に、
恩師はこのような言葉をかけて下さいました。

「何も心配することはない。
 神様はあなたのことを、誰よりも、あなたよりも、
 理解し、想って下さっているのだから。
 
 どんな時でも、最善、最良、最高、最大、最適の、
 神様のお働きの中で、生かされ生きていることを忘れてはいけませんよ」
と。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に願うまえに、
実は神様から「助かってくれ」と願われているのです。

逆境もまた、最善、最良、最高、最大、最適の
神様のお働きの一つなのです。
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