FC2ブログ

仕事は目的

『暗夜行路』や『和解』などで知られ、
小説の神様と称えられる志賀直哉(しが なおや)は、
仕事について、このような言葉を遺しています。

「仕事は目的である。
仕事をはっきりと目的と思ってやっている者には、
結果は大した問題ではない」

仕事は目的そのものであって、手段ではない。
そう言い切っているのです。

近年では仕事のことを、
「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、
「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、
大変多くなってきました。

しかし、もし仕事のことを、
利得や名誉などを得るための手段だと考えるならば、
仕事をすればするほどに、どうしても利己的になっていき、
堕落していってしまうでしょう。

また、もし仕事を自分が生きていくための単なる手段として、
そのためにしなければならない重荷であると考えるならば、
いつまでたってもそういう仕事の仕方しか出来ず、
またそういう仕事しか与えられないようになるでしょう。

では、どうすればよいのでしょうか。

そこで、志賀直哉の言うとおり、
仕事を手段ではなく、目的として考えてみてはいかがでしょうか。

仕事をすること自体を目的とし、
何のためというわけでもなく、
自分はどうなるかなどということは忘れて、
ただ仕事をすることを喜んでみる。 

すると、仕事のほうも喜んでくれて、
終始つきまとってくれるようになる、
それが道理というものであります。

お道の教えに、
『日に日に生きるが信心なり』とあります。

ここでいう「生きる」とは、「生む」ということであります。
神様から与えられた力を用いて、そこに何かよいものを生みだしていく。
それが生きるということであり、働くということでもあります。

「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みます。
では一体誰につかえるのかと言えば、神様につかえるのです。

神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、
人は「生きがい」を得るのです。

災難に遭うときは…

江戸時代後期の僧侶であり、
歌人でもある良寛(りょうかん)のもとに、
ある金持ちの老人が訪ねてきたときのお話です。

「良寛さん、私は本年七十歳。
先も長くないようですが、
せめてもう十年は長生きしたいのです。
何かよい方法はありませんか」

それに対し良寛は、

「もちろんあるとも。
しかし十年経つと八十じゃが、
それ以上でなくてよいのか?」

すると老人は、

 「そう言われると心許ない気がします。
  もうあと十年延ばしてもらえませんか。」と。

良寛はまた問います。

 「更に十年と言うと九十歳じゃ。
  本当にそれ以上はなくてよいのか。」

そこで老人は、

 「それでは困ります。今までは遠慮しておりました。
  せめて百歳、否、二百歳まで生きられたらいいので、
  その方法を教えて下さい。」
 
良寛はさらに、

 「千年というのがあるが、どうじゃ?」

老人は大変喜んで、

 「それは大変結構。長ければ長い方がよろしいです。」
と手を叩きました。

そこで良寛は座り直し、話し始めました。

 「それでは教えてしんぜよう。よく聞きなさい。
  あなたが千年生きたいと願うならば、臨終を迎えた時、
  私の生命は千年生きた、あぁよかったなぁと味わえばよい。
  これが方法じゃ。わかったな」と。

良寛はその他にも、

 「災難に遭うときは災難に遭うがよく候」

とも言っています。

つまりは、寿命であれ災難であれ、
どうにもならないことは苦にするな、ありのまま受け入れよ、
と教えているのです。

金光教の教えに、『難はみかげ』とあります。

災難がみかげ(幸せ)だなんて、
ずいぶん無茶に聞こえるかも知れませんが、
災難に遭ったときには、「難はみかげ」と心に決めて、
災難に徹することが一番の対処法なのです。

災難に徹することで、
はからずとも幸福なときには得られなかった
人生の別次元の喜びや価値に、将来必ず出逢うことになります。

災難が、人間を大きく成長させるための尊い縁となるのです。

それは私たちにとって、順風満帆のときには
決して得ることもなかった飛躍の種であり、
幸せの礎ともなるのです。

気配りよりも大切なこと

平成二十二年に百一歳で亡くなられた臨済宗の禅僧、
松原泰道(まつばら たいどう)師は、
百歳を過ぎてからも執筆や講演を精力的にこなし、
亡くなる三日前まで「生涯現役 臨終定年」を実践された現代の名僧として知られています。

その松原禅師がご在世中の話ですが、
ある老婦人が禅師に対し、このように言いました。

「私は電車に乗って外出する際、なるべくラッシュ時を避けるようにしています。
若い方が席を譲って下さるのはありがたいのですが、
ご迷惑をおかけすることになるので…」と。

なんとも心優しい老婦人の言葉でありますが、
それに対し禅師は、

「そんな気配りはやめた方がいいですね」

と冷ややかにつっぱねます。
続けて、

「そのような時、あなたは心の奥底から
『ありがとうございます』と感謝の思いをこめて
お礼をそのお方に言って腰をおかけなさい。
好意を素直に頂くことが、礼儀ではないでしょうか」

このように諭されたそうであります。

私たちは幼い頃から、学校や社会で
「他人には迷惑をかけるな」と教えられて育ってきました。

しかしそれが不可能な事実であるということは、
よくよく考えてみれば分かります。

不完全で欠点があるのが人間であり、
そうした人間どうしが集まって、互いに支え合い、迷惑をかけ合い、
生活しているのが私たちの社会であります。

それならば、「私は他人には迷惑をかけません」と肩肘を張るよりも、
「誰かに迷惑をかけずには生きられない私である」と、
謙虚さと感謝の気持ちを持つべきではないでしょうか。

「人間は決して一人では生きられない、
人間は他に迷惑をかけなければ生きられない、弱い存在である」
ということを、大人は子に伝えるべきなのです。

個人の力には限界があることを知らなければ、
行き詰まりを感じて死を選ぶしかありません。

気配りよりも大切なこと。
それは、この天地の中で他に支えされ、他に迷惑もかけ、
生かされ生きる一人であるという事実に、感謝の思いを向けることなのです。

旅の目的

プロレタリア文学家として名を知られた高見順(たかみ じゅん)さんは、
食道ガンのため、五十八歳で亡くなられました。

その亡くなる直前の作品に、『帰る旅』という詩があります。

帰れるから旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
我が家にいつかは戻れるからである
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり
どこにもあるコケシの店をのぞいて
おみやげを探したりする

この旅は自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか(以下略)


遠くへ旅行に行くのは楽しいものです。
見慣れぬ景色や味付けの違う料理、
見ず知らずの人との出逢いというのは、
幾つになってもワクワクしますよね。

しかし、そういった感動が続くのもせいぜい2、3日のことであって、
誰しも長旅が続くと、やっぱり「我が家」が恋しくなるものです。

高見順さんは死の病床にあって、
自らの人生を「帰る旅」だと言いました。

そしてその旅は、「我が家」である自然に帰る旅なのだから、
精一杯楽しまなくちゃ。お土産も買わなくちゃと言っているのです。

金光教の教えにこのようにあります。

『神様を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。
 広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも
 遊ばせていただいているのである。
 みな天地の間に、うれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。』

夏休みの旅行同様、人生という旅の目的も、
実はうれしく、楽しく、ありがたく遊ばせていただくことなのです。

せっかく来た旅なのですから、精一杯楽しまなくちゃもったいないのです。

もちろん、お土産も忘れてはなりませんよ。お世話になった人々に、立ち去るときにそっと置き土産を遺してゆくのです。後世の人の生き方に何か良い影響を与えるものが遺せたのだとすれば、この旅はもっと素晴らしいものになるでしょう。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター