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世界はわが心に

オリンピックに、世界中が沸いていますね。

開催地であるイギリス・ロンドンは世界屈指の観光地としても知られていますが、
その中でも世界遺産に登録されているウェストミンスター寺院には
年間百万人以上の人が訪れるそうです。

この寺院の地下室には、
次のような碑文が刻まれた英国教会主教の墓があります。


「何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、
 私は世界を変えることを夢見ていた。

 ところが、年を重ねて賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。

 そこで、目指すものをもう少し近いものにして、
 自分の国から始めることにした。だが国も変わらなかった。

 老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。
 自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。

 だが、悲しいことに、これすらままならなかった。

 今、私は死の床につている。
 なんと、今になって初めてわかったのだ。
 変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。

 自分が変われば、家族も変わっただろう。
 そして家族に励まされ支えられながら、
 国をよくすることもできたろうし、
 やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ。」


人を変えるには、まず自分が正しくある必要があります。
例えば音楽を演奏するときなどでも、
一緒に演奏している相手に、本気で自分に合わせてもらおうと思うなら、
方法は唯一つ。

まずこちらが正しい調子になって、
向こうの調子が正しくなるのを待つしかないのです。

合うのはどこで合うのかと言うと、正しい所で合うほかにないのです。
 
金光教の教えにこのようにあります。

『信心は心を狭く持ってはならぬ。
 心は広くもっておれ。世界は広く考えておれ。
 世界はわが心にある。』

自分の心を広く、真っ直ぐなところに置いて待って居さえすれば、
必ず皆もそこに基づいて変わって来る。

そこで初めて、夫婦でも親子でも互いの心が合って
関係が変わって来るのです。

教えの通り、世界はわが心にあるということを忘れてはなりません。

ひとすじの心

八木重吉(やぎ じゅうきち)は、
昭和二年に二十九歳の若さで亡くなった
敬虔なクリスチャンの詩人であります。

信仰と詩の合一を目指し、
短くもひたむきに生き抜いた彼の作品は、
彼の死後二十年以上経って世間から注目され、
今なお多くの人の心に光を与え続けています。

そんな彼の作品の中に「花」という詩があります。

花はなぜ
美しいか
ひとすじの気持ちで
咲いているからだ

彼にとって花が美しいのは、
形や色などの見た目にあるのではなく、
「ひとすじの気持ちで咲く」ところにあるのです。

自分を美しく見せようとか、人に褒められようとか、
そんな余計なことを考えずに、ただ「花だから咲く」、
そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのだと。

人間もまたしかりであります。

金光教の教えにこのようにあります。

『これまで、神がものを言って聞かせることはあるまい。
どこへ参っても、こちらから願うばかりであろう。
それでも一心を立てれば、わが心に神がおられるからおかげになる。

生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはない。
…祈るところは、神と一心である』

自分を生かし自然を生かし、
この天地全体を生かしている大いなる働きがあります。

一心とは、一つの心と書く通り、
その働きと一つになるということ。

我欲を張らず、物事に執着せず、
ただひとすじに神に心を向けるということであります。

花は誰のために咲くのか。

誰のためでもありません。
花は、ただ花であるがゆえに咲くのです。

自分に与えられたいのちを、
与えられた環境の中で、
与えられた役割を精一杯、ただひとすじに果たして、
次の世代にいのちをつないでいくのです。

私たち人間もまた、
自らに与えられたいのちを全うする役割が与えられているのです。

この自分の中から、どれほどのものが現れ出るか。
そこに一心を立て、ただひとすじに咲こうとするところに美しさが生まれるのです。

信心と仕事

中国の唐の時代に百丈(ひゃくじょう)という禅の高僧がおられました。

その教えで特筆すべきは、
出家者にとって一番重要な修行を「労働」としたところにあります。

禅が頭の中で考えるだけのものにならないようにと、
毎日の修行として、坐禅だけではなく労働を課したのです。

今でこそ、そのような労働は「作務(さむ)」として一般的ですが、
当時はそれまでの戒律に真っ向から相対するものでしたから、まさに命懸けです。

しかし、百丈はこの労働を自ら実践し続けました。

百丈にとってこの日々の労働とは、
食べるための手段ではなく仏の務めを作(な)すものでした。

そのため八十歳を過ぎてもやめようとしません。

やがて弟子たちは師匠の体を案じて
「お休みになったらどうですか」と勧めましたが一向に辞めようとしない。

そこで弟子たちは苦肉の策として、
百丈の仕事道具であった農具を隠してしまったのです。

道具を隠されて働くことができない百丈は、
その日は部屋に戻りました。

弟子たちは「やれやれ、これでよかった」と安心していましたら、
今度は食事をしないと言い出すのです。

そして、驚き戸惑う弟子たちに向かい、
「一日作さざれば一日食らわず」と。

一日仏のすべき務めができなけば、
私は食べろと言われても頂戴できないのだ、と諭したのです。


金光教の教えにこのようにあります。

『神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。
日々勤める仕事は信心の行であるから、
仕事をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる』

ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、
特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、
実はそうではないのです。 

会社でのお勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行がある。

他人に仕え、他人の幸せを追求していくことが、
そのまま自分のためにもなるのです。

日本では昔から、「幸せ」という字を、仕え合う(「仕合せ」)と書きました。

つまり、人に仕えること、仕えようとする心を抜きにしては、
自分の幸せなど有り得ないということを教えているのです。

和らぎ喜ぶ心

ドイツの哲学者カントは、
生まれつき背中が曲がっていた上に喘息で、
少年時代にはその病気のためにいつも苦しんでいたそうです。

しかしある時、たまたま町に来ていた巡回医師の言葉によって、
カント少年のその後の人生は大きく変わることとなります。

自らの病気を治らないものとして、
あきらめたような発言を繰り返すカント少年に対し、
その医師は優しくこのように言いました。

「気の毒だな、君は。
しかし気の毒だと思うのは体だけのことだよ。

考えてごらん。体はなるほど気の毒だ。それは見れば分かる。
でも、心はどうともないだろう? 

心まで息苦しいなら別だが、君の心はどうともないはずだよ。
 
苦しい辛いと言ったところで、この苦しい辛いが治るものじゃない。

言えば言うほど、君も、君の両親も、余計に苦しく辛くなるばかりだ。
 
苦しい辛いと言うその口で、心の丈夫なことを喜び感謝すればいい。

体はともかく、丈夫な心のお陰で君は死なずに生きていられるんじゃないか。
そのことを喜びと感謝に変えていったらどうだい。

これが僕から君に与えられる診断の言葉だよ。
分かったかい。薬は要らない。お帰りなさい」
 
この医師の言葉は、素直なカント少年の心に深く刻まれ、
やがて少年は人間の心について深く考えるようになりました。

これが、八十一歳まで元気に生きた、大哲学者の誕生秘話であります。


金光教の教えにこのようにあります。
『おかげ(幸せ)は和賀心にあり。和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』

幸せとは、今この瞬間、周囲の人や出来事に対して
感謝できている心の状態を言います。

天地から与えられた肉体を大切に使わせていただくことは
私たち人間の務めでありますが、
心の健康を保つということはそれ以上に大事であります。

たとえ体が病弱でも心が健康であるならば、
私たちのいのちは生き生きと輝きます。

そして、心の健康を保つということは、
日々自らの心を和らぎ喜ぶ心にしていくこと。
そこに自らの願いを立てて生きる決意をすることなのです。

人間の器

俳優の山城新伍(やましろしんご)さんの父親は、
被差別部落と在日韓国・朝鮮人の部落のど真ん中に小さな医院を開き、

雨の日も風の日も往診に行き、
誰かに何かあれば、夜中でもすぐに出かけていく医者だったそうです。

また治療代が払えない患者さんからは、
代わりに米や野菜をもらってきたりすることなどから、
食糧には困らなかったものの、ずっと貧乏な生活をされました。

結局父親は無理がたたって結核で亡くなってしまうのですが、
葬儀の参列者の多さと、別れを惜しむ数多くの姿に、
父親がいかに偉大であったかということを分からされると同時に、
あるエピソードが思い出されました。

それは、普段めったに怒らない父親が、
山城さんが差別的なものの言い方をしたり、
人を見下したような言葉を吐いた時には、
烈火のごとく叱りつけ、いつも必ずこう言ったのだそうです。

「『人は生まれながらにして平等である』という格言があるが、
 それは嘘だ、まやかしだ、建て前だ。 
 
 世の中を見てみい。人間皆平等のわけないやないか。
 
 この資本主義の社会の中で、
 生まれた環境といい、受ける教育といい、才能といい、皆それぞれ違う。

 人間はなぁ、生まれながらにして平等なんかじゃない。
 それは間違いや。

 人は生まれながらにして人間である。
 ゆえに平等でなくちゃならんのだ! 

 こういうことをお前よく考えろ」


金光教の教えにこのようにあります。

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身も人である』


結局のところ、人間の器というものは、
人に対してどれだけ偏りの無い愛情を向けて生きているか、
ということではないでしょうか。

特にこのことは、自分より立場が弱い人に対する接し方に、
まざまざと表れるものです。

何故ならそこにこそ、紛れもない
その人物の人間性というものが透けて見えるからです。

自分の愛情を出来る限り偏りの無いものにしていくということは、
自らの器を大きくしていくことに他ならないのです。
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