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心の置き所

澤庵(たくあん)和尚は、江戸初期の臨済宗の僧であり、
また将軍家光の剣道指南役であった
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と親友の仲でありました。 

ある日、宗矩が沢庵に
剣道の極意についてこのように尋ねました。

「真剣勝負をするときは、心をどこに置いたらいいか」と。

宗矩は心の中で、
「臍下丹田(せいかたんでん)、臍(へそ)の下に心を置け」
とおそらく沢庵は言うに違いないと思っていたところ、

沢庵は「心はどこにも置くな」
という思いもよらぬ答えを返してきました。

「臍の下に心を置いたら、頭が空っぽだから、ポカンとやられるぞ」
というのです。

さらに、
「心をどこかに置くと、そこに執着してしまうから、
どこにも置かずして事に当たれ」と言います。

つまり沢庵の教えた、最も良い心の在り方とは、
「置き所を持たぬ心」であるというわけなのです。

何か雲を掴むことのような話ではありますが、
このことは現代の人間関係においても大変役に立つ教えなのであります。

大抵人間というのは、自分のこれまでの経験や知識で、
他人の良し悪しを決めつけてしまいがちです。

しかし、良いとか悪いということにこだわると、
そこに誰かが傷つくことになります。
また他の人を悪く思うことは、
自分自身としても心が乱れ、傷つくことであり、
相手との間柄も悪くなっていくばかりで、
自他ともに損をすることばかりなのです。

悪いものを悪く思うだけでは善後策は立ちません。
悪く思わない心があってはじめて、
「その人のためにどうしてあげたらよいか」という善後策が立ちます。

金光教の教えに、このようにあります。
『どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。
じっと眠たくなるような心持ちになれ』

大切なことは、ただありのままを見て、
そこで善後策を立てていくことです。

ありのままの姿を見るためには
じっと眠たくなるような心持ちとなり、
心の置き所から離れる必要があるのです。

そうしてありのままの姿を見ることで、
人間をよく知れば知るほど、
そう単純に良し悪しなど言えないということが
心の底から分かるようになるのです。

いのちの根

相田みつをさんの「道」という詩に、
このような言葉があります。

人生にはなぁ
どんなに避けようとしても 
どうしても通らなければならぬ道というものがあるんだな
そんなときはその道を黙って歩くことだな
愚痴や弱音を吐かないでな
黙ってあるくんだよ
ただ黙って
涙なんか見せちゃダメだ
そしてなぁその時なんだよ
人間としてのいのちの根がふかくなるのは

肉体的なことであれ、精神的なことであれ、
私たちが大きな苦難に直面したときには、
それをどのように受け止めるかということが大切になってきます。

これまで当たり前にできてきたことや、
自分の夢や目標がその苦難のために失われることになったとき、
愚痴や弱音を吐きたくなるのは当然のことです。

そうした苦難は人にとって不運なことには違いない。
しかし、ただメソメソしているだけでは
不運な道を通る甲斐がないというものです。

不運と不幸とは同じものではありません。
不運というものは、受け止め方によって幸にも不幸にも成り得るのです。

金光教の教えに、このようにあります。
『これほど信心するのに、
なぜこういうことが起きてくるのだろうかと思えば、
もう信心はとまっている。
…これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、
信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。』

病気なら病気のままに、
そのことを自分の勤めるべき役として、
最高の演者となってみる。

その病気をしっかりと味わい、
そこで自分の生き方を見つけていく。

そうして病苦から解放されていくとき、
他の多くの病人の手本になり、
彼らに勇気を与えていくことができるようになるのではないでしょうか。 

病気になったおかげで、
健康のときにはわからなかった人生の別の価値がわかり、
他の病苦が察せられるところから、
本当の意味で病人を慰めることができる。

自分はそのためにこそ病気になったのだ、
そう思えるようになれば、
失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。

そこで不運は幸せとなる。
いのちの根が深くなり、
よりしっかりとした人生を送ることが出来るのです。

見た目と中身

一休宗純(いっきゅう そうじゅん)と言えば、
天才的な頭脳の持ち主、「とんちの一休さん」として
誰もが知る人物でありましょう。

また別号「狂雲」とあるように、
金も名誉も否定し、命懸けで禅の道を突き進んだ、
変人とも呼ばれた求道者であります。

その一休さんに、京都のある大金持ちが
自分の父親の葬儀の導師を依頼したときのお話です。

依頼を受けた一休さんは早速、
破れ衣を着て、粗く織ったむしろをかぶり、物乞いの鈴をつけ、
その大金持ちの門前に立ち、布施を求めました。

主人も、まさかその薄汚い坊主が一休さんとは思わず、
「すぐに追い払え」と命じ、召使いが木の棒で一休さんを打ち、
追い払ってしまったのです。

そして葬儀の当日、一休さんは何食わぬ顔で、
今度は金襴の袈裟を身にまとい、再びその大金持ちの門前に立ちました。

すると主人は大喜びで出迎え、
導師の席で食事を食べて頂こうと案内しようとしました。

しかし一休さんはその場を動こうとしません。

それどころか、金襴の袈裟を脱ぎ捨て、
「先日は棒で打たれて追い払われたのに、今日は立派なご馳走。
先日も今日も中身は同じ一休で、違うのは衣だけ。
まさに、今日のご馳走は金襴の袈裟がいただいたようなものですなぁ」
と一蹴し、

『一休も 破れ衣で 出るときは 乞食坊主と 人は言うらむ』

と詠んで、さっさと寺へ帰ってしまったということでした。

人間は生まれた時から、それぞれ才能も違えば容姿も違い、
環境も違えば受ける教育も違うのです。

にもかかわらず、見た目や収入で人間の価値を決めつけ、
軽く見たり見下したりしているようでは、
本当の意味で人間を理解するなど出来はしません。

見た目と中身とは決して同じではないのです。

金光教の教えに、
『人間を軽く見るな。軽く見たら、おかげはなし』
とあります。

人間を見た目で判断しないことを決意してはじめて人は、
どのような人からも学ぶことが出来、
またどのような人をも愛せるように心が広がっていくのです。

そのような心の広がりを持ってはじめて人は
真の信頼と尊敬を得る。つまり人徳を得るのです。

道は開ける

戦前の話になりますが、
金光教和歌山教会の初代教会長である
沢井光雄(さわい みつお)師のもとに
ある警察官が来られたときのことです。

「ここではどんな事でも神様に
願ってよいと教えているようだが、
それでは泥棒をするということを願ってもよいのか。
そういう不埒な願いに対しても、願いを叶える神様なのか」

とその警察官が尋ねたところ、沢井師は
「はい、泥棒することでもお願いしたらけっこうです」
と答えられました。

それに対し、
「そんなバカな神様があるものか!」
と警察官が怒鳴ったところ、

「いいえ。そういうお願いをしてもよいのです。
お願いをすれば、泥棒をしなくても済むような
おかげを頂かして下さるのが神様であります」
と答えられたというお話です。

さて、よく宗教というと、
「あれをしてはならない」
「これを食べてはならない」
「こんな願いをしてはならない」
などといった戒律やタブーがいくつもあって、
それを破ると罰が当たるなどと言われる方もおられるようですが、

本当に正しいこと、良いこと、道筋に合ったことしか
神様へ願えないのだとしたら、
難儀に苦しむ人に助かる道はありません。

それでは、どのようなお願いをすればよいのでしょうか。

金光教の教えに、
『身の上のことは何事でも、実意をもって願え』
とあります。

「実意をもって願え」とは、
心から願ったなら、後は神様にすべてお任せをするということです。

「お任せする」というのは、
ただ頼るだけで何もしないということではありません。

「頼る」というのはただ甘えることですが、
「お任せする」というのは、人間として出来る限りのことをして、
その上は神様に任せて、あれこれ思い煩わないということであります。

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、
解決がつかず、ますます苦しくなります。

ですから、どうにもならないことは
まな板の上の鯉のように自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。

自分の力でどうにかしようという我を捨てる。 

そのように神様に任せきり、
凝り固まった自分の我を放れることができれば、
物事は自然に好転していくものです。

必ず道は開けていくのです。
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