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さらさらと

甲斐和里子(かい わりこ)さんは、
京都女子大学創立に貢献した教育者であり、
また宗教者であるとともに、すぐれた歌人でもありました。

彼女の歌にこのようなものがあります。

『岩もあり 木の根もあれど さらさらと
たださらさらと 水のながるる』

山を流れる川の水のように、
途中の岩や木の根にぶつかりながらも、
さらさらと流れていく。

そのような何事にもとらわれない在り方こそ、
私たちの求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。

ところが、そうした流れを邪魔するものがある時に、
そこから問題が起きてきます。

川の流れで言いますと、
一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、
そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。

なぜ心の流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、
それは執着というものが川底にこびりついているためです。

その執着の中でも最たるものは、
善悪を決め付けるということであります。

特に誰かのことを悪く思うことは、
その相手との関係を悪くするだけでなく、
自分自身の心が乱れ、傷付くことでもあります。

しかし人の悪いところは見ないようにと努力したところで、
悪いものはやはり悪く見えてしまい、
責めもすれば、関係を断とうともする。

これではやがてすべての人間関係に行き詰まってしまいます。

そこで忘れてはならないのは、
相手の善なり悪なりが見えるということは、
自分のなかに相手と同じ善なり悪なりが在るということです。


金光教の教えに、
『人間は、合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。
悪いことも善いことも、みな鏡に現れる。
…信心して、真の心にならなければならない』
とあります。

相手だけが悪いと思っていたことが、
自分も相手も根本的には同じであることが分かるところから、
相手の悪いところも許せるようになり、
また善いところもよく見えてくるようになります。

物事の善悪に心がとらわれなくなれば、
山を流れる川の水のように、
さらさらとした生き方が出来るようになるのです。

愚か者であれ

いつの時代も、優れた指導者たちは口を揃えて
「愚か者でありつづけなさい」と諭されています。

『論語』の中で、孔子(こうし)は
「利口に立ち回るのは簡単だが、 愚か者となるのは大変難しいことである」
と弟子に教えています。

親鸞上人は自らを愚禿(ぐとく)、愚かな坊主と称し、
また良寛禅師は自らを大愚(たいぐ)、大愚か者と称しました。

アップル創業者であるスティーブ・ジョブズの、
今や伝説となったスタンフォード大学でのスピーチも、
「ステイフーリッシュ」、愚か者であれ、という言葉で締めくくられています。

何故、先人たちはこれほどまでに
「愚か者であれ」と強調されたのでしょうか。

ここで言われる「愚か者」とは、頭が賢くないという意味の愚か者ではなく、
また単に謙虚であるという意味でもありません。

自分は何事につけても至らない愚か者である、
という自覚のことを言っているのです。

自分が愚か者だからこそ、人一倍努力しようとする。
自分が愚か者だからこそ、どんな人でも尊敬できる。
自分が愚か者だからこそ、人を責めようとしない。
自分が愚か者だからこそ、人から注意されても怒らずに素直に受け止め、
            改まろうとすることが出来る。

この愚か者である、という自覚がなくしては、
人はすぐに傲慢になってしまい、人間としての成長が止まってしまうのです。

ですから、逆に自分のことを善人で、
賢い人間だと考えている人は危険信号です。

こういう人には、表面は穏やかであっても、
腹の中には頑としたものがあり、
人の言うことをなかなか聞こうとしない人が多いのです。
そうして、家庭でも職場でも、心の中では人と対立し、
助からない在り方となってしまいがちなのであります。


金光教の教えに、
『我よしと思う心を仇として 戦いていけ 日ごと夜ごとに』(安武松太郎師)
とあります。

自分の至らなさを痛感してはじめて人は、
腹が立つ事や相手を責めようとする心に打ち克ち、
成長を続けることが出来るのです。

そのために日々、「愚か者であれ」と自分を諭すことが大切なのです。

運を味方につける

よく運が良かった、悪かったという言葉を耳にします。

いわゆる成功者と呼ばれる人々には、
成功の要因を「運が良かったから」と答える方が多いようです。

では、運を味方につけるにはどのようにすればよいのでしょうか。

「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(まつしたこうのすけ)も、
自分が成功した理由について、

「まぁ、運がよかったちゅうことでっしゃろな」
と答えました。

そこで、ある方が何故そう思うのかと問うたところ、
彼は自分の運の強さを自覚した出来事として、
海に落ちてしまったときのことをあげました。

船から落ちた時にそれを見ていた人がいたこと。
落ちた季節が夏だから水温が高く助かった、
というのが彼の強運の証だそうです。

しかし、普通に考えれば成功の理由とは程遠いどころか、
船から落ちた時点で不運だと考えてもおかしくないでしょう。

しかし彼は「私ほど運の強い人間はいない」と言い切るのです。

小学校しか出ていないことも、
そのおかげで何でも人に尋ねることが出来るようになったから幸運。

体が弱いことも、
そのおかげで部下に仕事を任せることが出来るようになったら幸運。

つまり、彼にとって不運などはなから無かったのです。


金光教の教えにこのようにあります。

『信心していれば、目に見えるおかげより目に見えないおかげが多い。
 知ったおかげより知らないおかげが多い。
 後で考えてみてはじめて、あれもおかげであった。
 これもおかげであったということがわかるようになる。』

起きてくる事柄はすべてが恵まれてのことであります。
ですから、このお道では運に良い悪いもありません。
言うなれば、幸運のみがあるのです。

ですので、もし「あなたは運がいいですか?」と問われれば、
迷うことなく「強運に恵まれています」と答えましょう。

人生を肯定する言葉は、
自分だけでなく周囲の人間にも良い影響を与え、
良い縁が運ばれてくるようになるからです。

生きている人はどんな人であっても本来「運が強い」のです。
問題は、そのことに気付けるかどうか。
運を味方につける生き方とは、自分の運の良さに気付く生き方に他ならないのです。

地獄の門と天国の門

白隠(はくいん)禅師は、
臨済宗中興の祖と仰がれ、
後に五百年に一人の名僧とまでいわれた方であります。

ある日、その白隠禅師のところに
たいへん立派な武将が訪ねてきて、このように問いました。

「白隠殿、天国と地獄は本当にあるのでしょうかな?
 またあるとしたら、どこにあるのか教えては下さらぬか?」

すると白隠禅師は、いきなり大笑いしはじめ、
その武将に対して、

「身なりだけは立派なようじゃが、
 そんなこともわからんとは、本当にまぬけな侍じゃのう!」

と罵声を浴びせたのです。
それを聞いた武将は、顔を真っ赤にして激怒しました。

「この無礼者めが! 叩き切ってくれるわ!」

そう怒鳴るなり、刀を抜いて白隠に振りかざします。
白隠はそこで間髪入れず言いました。

「それが地獄じゃ! 地獄の門が開かれたぞ!」

はっと気がついた武将は、深く恥じ入り、

「なるほど、そういうことですか。
 地獄とは己自身の心が創り出すもの。
 ものの本質を見ようとせずに、
 ただ己の心の状態に振り回されていることなのですな。
 いや、これはありがたい…」

と言って、深々と頭を下げたということです。
そこで白隠禅師は、にこりと笑ってこう言います。

「ほれほれ、天国の門が開かれましたぞ」

地獄も天国も、それを受け取る人間の心の中にあるというわけです。


金光教の教えに、
『わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともあり』
とあります。

結局のところ、出来事自体には良い悪いはなく、
受け取る側の心にだけ、良い悪いがあるのです。 

人や物も同じであります。
ある人にとってはとても良い人、良い物であり、
ある人にとってはとても悪い人、悪い物でもあるのです。

良いも悪いもないのであれば、
「すべて恵まれてのことなのだから」と、
神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。
有難く受け取ったその第一歩が天国の門へと通じているのです。
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