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受験シーズンに向けて

なにかと忙しい年末年始を過ぎれば、
あっという間に受験シーズンの到来です。

と言っても、受験生となる子供がいる家庭では、
もうとっくに家中が受験一色で、
ピリピリとした空気が漂っていることかも知れませんね。

多くの子供たちにとって受験とは、
周囲の人間からこれまで以上に
大きな期待がかけられる出来事であり、

またそうした重圧をどのようにして
乗り越えるかということを、
子供自身の心が試され、鍛えられる大切な機会でもあります。


そして同時に、周囲の大人たちも試されることになります。

その際に、ただ合格すればよいと、
子供を叱咤すればよいのでしょうか。

または不合格でも本人が傷つかないようにと、
子供のご機嫌をとればよいのでしょうか。

叱咤することもご機嫌をとることも
時には有効な手段となりますが、
忘れてはならないことは、

受験に合格したとしても不合格となったとしても、
この受験を通じて人間成長の上に
大きな栄養となるようにと願ってあげて、
またそのように接することではないでしょうか。

実際に大人になって社会に出てみれば、
何か一つのことに勝った負けたということよりも、
勝った者の勝利を共に喜ぶことが出来、
負けた者の気持ちを理解することが出来る
心の優しさ、心の強さを身に付いていることの方が
よっぽど大切になるのです。

また子供からしてみても、
結果にこだわらず大きな心で
自分の成長を見守ってくれる大人が傍にいてくれたなら、
これほど心強いことはないのです。


お道の教えにこのようにあります。
『神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、
 このほかには何もないのであるから、
 人の身の上にけっして無駄事はなされない。
 信心しているがよい。みな末のおかげになる。』

山に登るのは頂上に達することだけが目的ではありません。
むしろ途中の景色を鑑賞するところに醍醐味があるのです。
人生もまたしかりであります。


受験の結果がどちらに転んでも、
恵まれてのことなのですから、
子供と共に感謝の心を土台とさせて頂く。

受験シーズンに向けて、
子供を見守る私たちもそのような心の準備をさせて頂きましょう。

年忘れ

今年も残すところあと二週間となり、
すっかり忘年会の季節になりましたね。

忘年会の起源ははっきりとされていませんが、
この「忘年」という言葉には、大きく2つの意味があるのだそうです。

一つは、一年間の苦労を忘れて楽しみましょうという意味です。
これは、まさしく私たちが毎年行っている忘年会のことですね。

もう一つは、年齢の違いを忘れて
一人間同士としてのお付き合いをしましょうという意味です。
さて、こちらの方はしっかりと出来ているでしょうか。

人間、どうしても年齢を重ねて行けば行くほどに、
心に垢(あか)が積み重なってくるものです。

この心の垢とはどのようなものかと言いますと、
「自分には値打ちがあり、正しいものであり、
人に注意できるだけの資格がある…」
といった思い込みであります。

よく年をとると小言が増えると言いますが、
自分より若い人を見てはブツブツと
不平・不足を並べたがるのはこの心の垢のせいであります。

しかしながら、
皆と打ち解け、皆をありのまま認め、皆と仲良くしたい
というのは人間根本の願いでありますから、
小言を言っている本人も心中穏やかではない筈です。

そこで、そうした心の垢を落とす為に、
自分の年齢、これまで積み上げてきたものを一旦忘れて人に接しなさい、
ということなのですが、
頑張って生きてきた人ほど、それがなかなか難しいのです。

では、心の垢を落とすための一番の方法は何かと言いますと、
それは“お詫び”をすることです。

何にお詫びするかと言えば、
「自分には値打ちがあり、正しいものであり、
人に注意できるだけの資格がある…」

と思い込んできた自分に対し、

「そんなに自分は正しいものではありません」

とお詫びをした上で、人に接することが何よりなのです。

相手を評価しようとする姿勢が、
良い人間関係を築くうえでは一番邪魔になるのです。

自分には人間の良し悪しなど評価できはしない、
自分の中に何ものもないということになるから、
いつも心はすがすがしく、生き生きとしていられるようになるのです。

一年の締め括りである忘年会で
心の垢をしっかり落として、
有り難い新年を迎えさせて頂きましょう。

「捨てる」ではなく、「放れる」道

「幸せになるためには欲を捨てなければならない」

数多くの本や話の中でよく言われることですが、
人間は昔から欲を捨てる道を求めてきました。

仏教でいう極楽も、キリスト教でいう天国も
欲の無い世界でありますが、
欲というものが捨てようとして捨てられるようなものではない
というところに、かえって苦しみがあったように思います。

もしこの世の中から欲が無くなるとすれば、
一体どうなってしまうでしょうか。

普段、欲と言うとあまり良い意味では使われませんが、
人間の自己発展を促し、行動に駆り立ててきたものは
他でもない人間の欲であります。

私たちが特に意識をしなくとも、
欲というものが私たちにもっと成長するように、
もっと努力するようにと働きかけてくれているのです。

逆に言えば、欲があるから毎日働くことが出来ますし、
欲があるから正直で親切な人間になることも出来ますし、
欲があるから道を求めることもできるのです。


しかしここで大きな問題が一つ残ります。
それは、欲が無限に働くものであるということです。

そのために人間そのものが欲に飲み込まれてしまい、
あらゆる問題が生まれてきます。

そして大半の人間が欲に飲み込まれるものだから、
いっそのこと捨てたほうが良いということになったに違いありません。

そのため、欲を捨てないで生きようとする私たちは、
自分自身が欲に飲み込まれないようにするために、
欲に対して道を得る必要があるのです。


金光教の教えに
『我情我欲を放れて真の道を知れよ』
とあります。

我欲とは、全体の都合ではなく、
我のみの都合をはかる心であります。
そこから放れよと教えられているのです。

本来、欲というのは人間にとって捨てることのできない、
また捨てるべきでない神様からの
お恵みであり、生命の糧なのです。

お恵みなのですから、お恵みとして使わせて頂く限りは、
道にかなっており人間の幸せを生み出す働きとなるのです。

「捨てる」のではなく「放れる」、
放れるところに真の道があるということを知りなさい、
と諭されているのです。

足の裏を拝む

東井義雄(とうい よしお)先生は、
檀家が9軒しかない日本で一番貧しい
と言われるほど極貧の寺に生まれ、
大変な苦労を重ねられて教育者となり、
数々の功績を残された方であります。

その東井先生が、
ある方に足を揉んでもらった際、

「あなたは奥様の足の裏を揉まれたことがありますか。
一度揉んで差し上げて下さい。
その時は必ず、揉ませて頂きますという気持ちで、
手を合わせてから揉むとよろしいですよ。」
と教えられます。

東井先生は素直な方で、
帰ってすぐ奥様に「足を出してくれ」と言いました。

何のことかと思いながら
腹ばいになって出した奥様の足の裏を見て、大変驚きました。

結婚三十八年目にして初めて見る我が妻の足の裏とは、
なんとまぁいかつい、ひび割れだらけの
ゴツゴツした足の裏なのかと思われたそうです。

そして気付かされたのです。

もともと妻は町の寺の娘として生まれ、
結婚した頃はきっと可愛らしい足の裏をしていたに違いない。

それが結婚して今日まで、
山の中の貧しい寺で、
炊事、洗濯、掃除と毎日毎日働き続けた為に
このような足の裏になったのだと。

自分はこれまで手を合わせたことがないばかりか、
考えもしなかったが、この足の裏に
三十八年間ずっと支えられて来たのだと…。

そうして気が付くと、
東井先生はいつの間にか、
本気になって、妻の足の裏を拝まれていたそうです。


金光教の教えに
『女房は朝、神様を拝して、
それから夫の後ろから、
主人様と、拝む心になれよ』
とあります。

拝むのは奥様だけではありません。

本来、夫婦の関係とは
お互いに拝み合うほど真剣に感謝し合って、
良い仲をつくらねばならない関係なのです。

すべての人間関係の元は夫婦の関係にあるのです。

夫婦の関係が元になって、
親子の関係も、兄妹の関係も、
その他すべての人間関係が生まれたのです。

それだけの関係にご縁を頂いたのですから、
そこに命を懸けて全身全霊を尽していくことが、
その他の人間関係の仲をも
良いものとしていく道となるのです。

そのような夫婦の関係をつくっていくために、
相手を拝むことを忘れてはならないのです。
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