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真(まこと)の祈り

世の中には
「祈っても無駄だ、気休めにしかならない」
と言われる方がおられます。

その理由を尋ねてみると、
「いくら祈ったところで、
起きてくること、事実を変えることは出来ないからだ」
と言われます。

確かに祈りでどうにも解決できないこともあるでしょう。

この天地自然の働き、万物の生死というものを、
人の祈りで思い通りにすることはできません。

事実は事実としてどうにもなるものでなく、
火の高きに燃え、水の低きに流れることは、
天地自然そのままの働きであります。

しかし、そうした事実を自分の祈りの力で動かそう、
なんとかしようとする行為が、
果たして「祈り」と言えるのでしょうか。

自分が祈る代わりに、
神様から事実を自分の都合の良いように変えてもらおう、
というのでは「祈り」ではなく「取引」と
呼んだ方がそれらしいですよね。


真の祈りとは、
事実を事実として受けとめ、
自分をごまかすことなく、
事実に従っていこうとする行為です。

そこから自然に、
真に願うことも出来るようになり、
真に努力出来るようにもなるのです。

それを、事実から目をそらし、
自分の力でどうにか出来るもののように
思い誤るところから、迷いや悩みが生まれてきます。


金光教の教えに
『何事も神の差し向けである』とあります。

「祈り」とは神様に願い、
問いかけることであるように考えられていますが、
本当はその真逆で、
願われ、問いかけられているのは
祈っている自分自身なのです。

起きている事実を通して、
「今よりもっと良い自分になれるのか?」
ということを自分自身が神様から願われ、
問いかけられているのです。

神様だけではありません。
自分以外の多くの人々からも
「今より良くなってくれ」と願われているのです。


真の祈りを捧げるということは、
事実から目を逸らさず、
事実を全て神様からの差し向けとして受けとめ、
自分に対する願いの声に耳を傾けるということ。

その願いに応えて、
自分の生き方をより良くしていく決意を
することに他ならないのです。

神に会おうと思えば

遥か昔から有神論者と無神論者の間で
「神は存在するのか、しないのか」
という途方も無い議論が繰り返されていますよね。

お互いに一歩も引くことなく
考えを主張し合うのですが、
この議論の展開はおおよそ決まっていて、結局最後は
「存在することも、存在しないことも証明することはできない」
というどっちつかずの所で幕が下されます。

こうした議論を見たり聞いたり、
時には当事者に立たされたりしたときに、
神は説明して分かるようなものではない
ということを痛感させられます。


なぜ神を信じられないかと言えば、
やはり一番の理由は目に見えないものだからでしょう。

目に見えないものは、いくら人から説明されても
やはり見えないものですから、疑えばキリがありません。

しかし、この世の実際は、
目に見えないものが、目に見えるものを支えているのです。

「大切なものは、目に見えない」と言いますが、
美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が咲かせています。 

誰が考えても疑いようのない、自らの命でさえも、
目に見えない働きのよって生かされているのです。


神が分かるということは、
信心が進んでいく中で
自分の命、生活は自分だけのものでなく、
一切の働きによって恵まれて生かされているのだと
気付くところから分かってくることであり、
説明して分かるというようなものではなく、感じ取るものなのです。

金魚鉢の中を泳ぐ金魚は、
鉢の中の水を泳いでいることを知らないのと同じように、
人間も目に見えない大きな働き、そのお恵みの中で
生かされていることが自分自身にはどうしても分からない。
分かったとしてもすぐに忘れてしまうようです。


金光教の教えに
『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。空が神、下が神。』
とあります。

信心の話というものは他人の話ではなく、
どこか遠く離れた所の話でもありません。
自分の話、命の話なのです。

「神は存在するのか、しないのか」という議論の前に、
自分というものが分かる、命というものが分かるということに、
自らの命をかけて取り組むべきではないでしょうか。

願いを叶える言葉

日本初のヨーガ行者であり、
天風会の創始者として、政財界を中心に
数多くの指導者を育てた中村天風(なかむら てんぷう)師が
ヒマラヤのふもとで修行をしていたとき、
師匠からこのようなことを言われたそうです。

「『今日はどうだい』と聞くと、
お前はいつも『あまり良くありません』と言うが、
それを言っているとき、お前は楽しいか? 

頭が痛いとか、気分が悪いとか言っているときは、
爽快さを感じないだろう。
今日は嬉しいです、楽しいですという言葉を言ったときは、
なんとも言えない快さを感じるだろう。

 結局、その言葉の善し悪しによって、
お前の生きる力が良くも悪くもなるのだよ」と。


とかく人は暗示にかかりやすい動物ですが、
その中でも昔から「言霊」と言うように、
言葉による暗示ほど人にとって強力なものはありません。

これまでを振り返ってみて下さい。

「お前なら絶対大丈夫だ」と、
自分が無条件に肯定された言葉というのは、
何年、何十年経ってもなお、自分の元気とやる気を引き出してくれ、
困難に直面した時にはより一層自分を助けてくれたのではないでしょうか。

それとは逆に、「ほんとにダメな奴だ」などと、
自分が無条件に否定された言葉というのは、
生涯心の傷として残ってしまうものです。

そして、それだけ強力な力を持つ言葉を、
誰から最も多く聞かされているかと言えば、
他ならぬ自分自身からなのです。

普段何気なく使っている、
「自分自身の言葉」ほど、
自分に影響を与えるものはないということを
忘れてはならないのです。


金光教の教えに、
『信心する者は、常平生、
心にありがたき、恐れ多き、もったいなきのみきを供えて祈れ。
一切の願い事を成就させてやる』
とあります。

人間ですから色々と不足な事もあるでしょうが、
それでも自分自身を軽くみていくような言葉を避け、
今の自分に与えられているものが、
ありがたいこと、恐れ多いこと、もったいないことである
という視座から言葉を使うように工夫してみる。

そこから発する言葉が、
自らの願いを叶える言葉になるのです。

人を活かす

貧しい農家に生まれながら、
織田信長の草履取りから武将となり、
ついには天下人まで昇り詰めた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、
人を活かす天才であったと言われています。

ある時、秀吉が京都の東山に
松茸がたくさん生えていると聞き、
家臣たちに皆で行こうと言い出しました。

早速家臣たちが下見に向かったところ、
すでに京の人々によって松茸はほとんど採られてしまっており、
もう何ほども残っていませんでした。

困った家臣たちは、それでも何とか秀吉を喜ばせようと、
違う場所から松茸を取り寄せ、夜を徹してその山に植えました。

その後、上機嫌でその山へやって来た秀吉は、
あたり一面に沢山生えている松茸を見て、
「これは見事!」と、ますます機嫌を良くし、
子供のようにはしゃいで松茸を採り始めたのでした。

しかし、そんな秀吉に対して、ある側近がこう告げます。

「これは見たところ、どうやら自然に生えたものではありません。
誰かが殿下を喜ばせようと植えたものに違いありません」と。


さて、この家臣たちの行為に対して、
貴方がもし秀吉ならどのような処罰を与えるでしょうか。
時代背景からすれば、切腹ものかも知れませんね。

しかしそこは人を活かす天才、秀吉。
偽物だと告げてきた側近の言葉を遮り、

「言うな、言うな。
わしらを喜ばせようと頑張ってここまで植えてくれたのだ。
その気持ちを有難く受け取ってやらねばならん」
と笑って言ったのでした。


人を判断する時、
感情や経験といった不安定なものを土台にすると、
どうしても善悪、正邪といった
二元論的な考え方に固執してしまいます。

しかし人間というのは知れば知るほど、
そう単純に善悪、正邪が言えないものですよね。

それを無理矢理に善悪、正邪を決めていくと、
そこに誰かが傷つき、人が活きる余地が無くなってしまうのです。


人を活かすには、
感謝を土台に人を判断する必要があります。

感謝を土台にすれば、
隠れた善意や正しさといったその人の「良さ」に光が当たります。

自分の「良さ」にしっかりと光を当ててもらえて初めて、
人は活き活きとしてくるものなのです。

神人になる道

臨済宗中興の祖と称され、
五百年に一人の名僧といわれた白隠(はくいん)禅師が、
天狗の鼻を一番高々としていた頃の話です。

「天下どこを見渡しても、皆つまらん奴ばかりだ。
おれに太刀打ちできるような偉い奴はいないのか」
と豪語する白隠禅師に対し、

ある友人が
「それなら信州の飯山にいる
正受(しゅうじゅ)老人に会いに行け」
と言いました。

白隠禅師は
「なんだ、そんな田舎者ごときが」
と思ったようですが、とにかく行ってみることにしました。

正受老人に会うとすぐ、
白隠禅師は得意の議論を始めようと
あれやこれやと話し出しましたが、
正受老人からは思わぬ返答が返ってきました。

「お前の話はみな本を読んで知ったものばかりだ。
そんなものは何の値打ちもない。
お前が本当に自ら会得したものは何だ。
お前の本当の物を出せ」と。

これには秀才・白隠禅師も
何も言い返せずにいたところ、

「この馬鹿野郎!」
と一喝されたのでした。

これをきっかけに、
白隠禅師はこれまで自分がやってきた修行姿勢を反省し、
自慢の蔵書を全て焼き払い、
正受老人の弟子となって、
炊事係を務め自分の体で考え出すことを始められたそうです。


良い本を読むことは確かに大切なことですが、
ただ読んだだけでは他人から借りてきた知識に過ぎず、
生きていく道では役に立たないものです。

やはり道というからには、
自分で実際に歩いていくほかありません。
つまり実践が必要なのです。

信心も同じことです。

金光教の教えに
『しんじんとは信の心ではなく、神人(かみひと)と書く』
とあります。

これは道というものが、
知識として神が分かったとか、
神をただ信じさえすれば良いというようなものではなく、

人を救い助ける神の働きを
自分の心、体で現して行こうとするところに道がある
ということを教えられています。

本を読んだ時だけ、良い話を聞いた時だけ、
何事にも感謝できる心になれる、
人に親切になれるというのは、
それが他人から借りてきた知識に過ぎないためです。

自分自身がそのようになってしまうということ、
神人になることが信心の目的なのです。
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