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幸せの青い鳥

真の幸せを得るためには、
「足るを知る」心が必要だと言われます。

いくら高い目標を達成しても、
欲しい物を手に入れても、
現状に感謝し満足する心が無ければ、

「より多く、もっと欲しい」という欲望にはキリが無く、
いつまで経っても不足・不満の中にいて、
幸せを実感することができないためです。

しかし、だからと言って
「現状に満足して、それより上を目指さない」
と受け取っては、元も子もありません。

現状に満足して、向上心を持ち続ける。

一見矛盾する二つの考えを
自分の中でどのように頂くか、
これがとても難しいところであります。

メーテルリンクの『青い鳥』も、
人間の幸せをテーマにした童話として
大変よく知られています。

貧しい家に育ったチルチルとミチルの兄妹が、
数々の冒険の旅を経て、
結局どこにいっても捕まえることが出来なかった幸せの青い鳥は、
家に帰ってみたら、庭先で鳴いていたというものです。

童話はここで終わりますので、
「幸せは身近なところにある。
だから、その身近な幸せを大切にしよう」
と解釈するのが一般的でしょう。

しかし実は、メーテルリンクの原作には
その話に続きがあるのです。

それは、家にいた青い鳥も結局逃げて、
居なくなってしまうというものです。

そこで話が終わってしまうのです。
では結局のところ、幸せの青い鳥は
一体何処に行ってしまったのでしょうか?

思うに、幸せの青い鳥というのは、
自分の心の中に見出すものであり、
自分の外の世界をいくら探しても見つからない
ものなのだ、ということではないでしょうか。

金光教の教えに
「わが心でわが身を救い助けよ…
幸せ(おかげ)はわが心にある」
とあります。

「足るを知る」というのも、
感謝・満足の基準を外に求めず、
自分の内に見出していくことであり、

またその感謝・満足を土台として、
より一層、人間として向上を続けていくことなのだと思います。

それが現状に満足して、
向上心を持ち続けることであり、
幸せの青い鳥を立派に育てる方法なのではないでしょうか。

馬鹿殿様

「馬鹿殿様」と言えば、
志村けんさん演じる白塗り極太マユの
イタズラ好きの殿様が思い浮かびますが、
もともとの言葉の意味は、実は大変な褒め言葉なのだそうです。
 
江戸時代、各藩の殿様には大勢の家来がいますが、
家来にも色々なタイプの人間がいて、
現代同様、真面目で正直な働き者ばかりではありません。

怠け者もいれば、私利私欲のために悪事を働く者もいる。

それらを束ねつつ、
そのうえ幕府とも上手に付き合って藩を維持していくには、
並々ならぬ苦労があったようです。

そうした中を、清濁併せ飲んだうえで
悠々と藩を維持していくことなど、
小利口な殿様にはとてもできやしない、
よほど馬鹿にならないと務まらない、
というわけで「馬鹿殿様」という褒め言葉が生まれたそうです。
 
つまり「馬鹿殿様」とは、本物の馬鹿という意味ではなく、
馬鹿を演じることができる器量をもった殿様だということです。

殿様ともなれば馬鹿になるのも、いよいよ難しいことでしょうから、
当時の人々はこのように褒め讃えたのでしょう。

諺にも「賢い人には友がない」とあるように、
いわゆる頭の賢い人というのは、
人付き合いにも計算や評価の目を向けてしまうため、
他人と深い関係を結ぶことが難しくなります。

それに対して、馬鹿には計算や評価ができませんから、
相手の存在をそのまま認めることができます。

人間、誰しも欠点があるものです。
関係が深くなって行けば行く程にそれが露骨に見えてきますから、
他人と深い関係を結ぼうと思うなら、
そのような欠点に対して馬鹿にならなければうまくいきません。

馬鹿になりきれない最大の原因に、
「自分は正しい」
「自分は良い・悪いがはっきりと分かっている」
という慢心があります。

金光教の教えに、
「自分が正しいと思うことが、自分の敵である」
とあります。

自信と慢心とは紙一重と言いますが、
真に自信のある人は、
自分が完全ではないこと、
自分にもたくさん欠点があることを
素直に認めることができるので、
人の欠点に対しても馬鹿になることができるのです。

神も人も

中国古典『論語』の中にこのような話があります。

孔子(こうし)がある時、
弟子である顔淵(がんえん)と季路(きろ)に対し、
このように問いかけます。

「おのおの自分の志を述べてみなさい」

すぐさま季路が答えます。

「馬車を持つような身分になっても、
友人には喜んで使わせてあげて、
それによって馬車が傷んでも気にしない。
そのような人間になりたいと思います」

顔淵も続きます。

「自分の善いことを自慢せず、
辛いことや苦しいことは自分が引き受け、
人に押し付けるようなことはしない。
そのような人間になりたいと思います」

今度は季路が孔子に対して、
是非先生の志をお聞かせ下さいと申し出ると、
孔子はこのように答えました。

「老人には安心を与えて、楽に暮らさせてあげたい。
友人には信頼され、交際を全うしたい。
子供には愛して慕われるように導きたい。
そういう人間に私はなりたい」と。

「志」というと、
何か壮大で深遠な理想を考えがちなのですが、
孔子の志はもっと身近で、人間関係に立脚した理想を言っています。

信心する人にも同じことが言えます。

熱心に信仰するのは結構ですが、
その教えを他人に押し付けて、批判したり、傷つけたり
するようでは何のための信心なのか、分かりませんよね。

神をこの天地・宇宙の働きとし、
その神に感謝するというのならば、
身近な人やモノに対しても
感謝を向けていかなければ嘘になります。

金光教の教えにこうあります。 
「神も人も同じこと。
いくら神を拝んでも、
人の心にかなわねば神の心にかなわず。
神の心にかなわねば人の心にもかなわず」
 
教えは本来、人を自由にし、幸せにするものです。

自分が神を信じ、その教えを大切にしたいと思うなら、
周囲の人々と、その人々の考え方も
同じように大切にすべきではないでしょうか。

そのように神も人も同じように大切にする心を
忘れないようにしたいものです。
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