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貴方を見つめる眼差し

オーストリアの精神科医、
ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』は、
ナチスのアウシュビッツ強制収容所での
実体験をもとに書かれた不朽の名作として知られています。

強制収容所での地獄のような環境下では、
処刑以外でも多くの人々が精神的な崩壊が原因となって、
自殺や病気で死んでいったそうです。

そうした中、精神科医である著者に対して、
「どうすれば精神的な崩壊が起こることを防げるか、話をしてもらいたい」
と収容所の仲間たちから求められ、
著者は次のように言って、仲間たちを勇気付けました。

『わたしたち一人ひとりは、この困難なとき、
そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、
誰かの促すような眼差しに見つめられている。
…誰かとは、友かも知れないし、妻かも知れない。
生者かも知れないし、死者かも知れない。あるいは神かも知れない。
そして、わたしたちを見つめている者は、
失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、
そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと
願っているのだ…』と。

さて、強制収容所とまではいかなくとも、
仕事や家庭で、私たちが辛い時や悲しい時、困った時などには、
自分の中に「心から尊敬する存在」が在るかどうか、
また「心から愛する存在」が在るかどうかが、
とても重要になってきます。

私たちの良心や自覚をしっかりと働かせれば、
自分自身にこのように問いかけることができます。

「尊敬するあの人なら、
このようなことについて悩むだろうか?
このようなことで怒ったり、悲しんだりするだろうか?
こういう時には、どのような振る舞いをされるだろうか?」

「私がやろうとしていることは、
愛する人を悲しませたり、失望させたりすることはないだろうか?
 愛する人は私にどのような振る舞いをして欲しいと願っているだろうか?」と。

たとえ目には見えなくとも、
私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、
実はたくさん在るのではないでしょうか。

ただ、その存在を有意義にするためには、
まず初めに「貴方を見つめる眼差し」に気付く必要があると思うのです。

踏み歩いていくこと

中国・唐の末期に趙州従しん(じょうしゅう じゅうしん)
という禅僧がおられました。

ある時、一人の雲水が
「道とは何ですか?」と問うたところ、
趙州和尚はあっさりと
「墻外底(しょうがいてい)」道なら垣根の外に在るわい、
と答えました。

雲水は馬鹿にされたと思って、
「私がお尋ねしているのは、その道のことじゃありません」
と口をとがらして言いました。

「では、何の道を尋ねておるのか」
と趙州和尚が聞くと、雲水は
「仏教の大道を尋ねているのです」と。

すると趙州和尚はこう答えます。
「ああ、大道は長安に通っておる」と。

有名な公案ですね。

「道」というものが何か高尚な概念だと決めつけている雲水に、
垣根の外の小径もたどっていけば都に通じているように、
生活の全て、一挙一動が人として
踏み行うべき正しい道、大道に通じているのだ。

つまり、道とは実践なのだと諭したわけです。

私含め、多くの人はついつい
この雲水のような考えを持ってしまいがちです。

「○○教は○○だから、良い、悪い」

「だから助かる、助からない」

名前とか教学などは、あえて言うなら、
本来どうでもよいものだと思います。

そういうものに拘ると、
逆に「道」というものが分からなくなっていきます。
 
趙州和尚が教えたとおり、
「道」というのは実践、
これを踏み歩いていかないと進歩していかない、
というものです。
 
金光教の教えにこうあります。
「信心といっても別にむずかしいことはない。
親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、
その日のことが都合よくいくように願い、
よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。
そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、
夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、
それで信心になる」と。

一日一日、その瞬間その瞬間を、
感謝の気持ちで過ごさせて頂く。

その対象が神であれ仏であれ、
感謝の気持ちでより善い生き方を心掛けていくのならば、
「道」を歩いていることには何ら違いはないのですから。

あと一歩

「継続は力なり」と昔から言われるように、
世の中のどのような分野においても、
その道の成功者と呼ばれる人は、
成功と失敗を分ける要因に「継続力」を挙げておられます。

自ら決めたことを一貫して続ける、
ただこれだけのことなのですが、
肉体的な事であれ、精神的なことであれ、
これが何より難しいのです。 

続けようとする力が働けば、
必ずそれを止めようとする反作用の力がかかるものです。

その最たるものに「不安」という感情があります。

「こんなこと続けても意味が無いんじゃないか…」

成果が出ず、先行きも見えない時、
不安に襲われ、元いた場所へ引き返そうとする力が働くのです。

実はこうした不安に襲われる時こそが、
物事を継続する上での一番の難所であると言われます。

金光教ではこうした難所を「お試し」と呼びます。

自分が本当により良くなれるかどうか、
神様から試されている時なのだということです。

日本初の林学博士であり、
「蓄財の神様」とも呼ばれた本多静六(ほんだ せいろく)先生は、
登山家としても知られ、人生を登山になぞられた教えを数多く遺されています。

山で道に迷い、地図や磁石も使えず、
最も確かだと思えるところまでも下ることさえ出来ない
最悪の状況においても、助かる方法がまだ一つ残されていると言います。

それは、杖をころばした先でもなんでもいい、
ある一定の方向を目指して引き返すことなく突き進め、
というものです。

突き進むことができない人は、
難所にあう度に引き返し、
同じ場所を右往左往して結局倒れることになってしまうからです。

人生もまた然りと。

何か心に決めたことがあるなら、
どんなに馬鹿を見ても、断乎突き進んでみる。

「馬鹿正直」でも、実際にやり通していくうちに徳が身につき、
「馬鹿」が外れて「正直者」となって、人から求められるようになります。

それを途中で馬鹿らしく思って不正直な事をすれば、
「正直」が外れて「馬鹿者」だけが残ってしまう。

難所こそ自分が試されている時なのです。

そこで引き返すことなく「あと一歩」踏み出すことが出来れば、
人里の明かりが見えてくるのです。

徳は巡って‥

江戸時代の儒学者、
太宰春台(だざい しゅんだい)の書に
このような話があります。

中国の衛という国の君主が
猟に出かけたときのことです。

道中で一人の老人が「はぁはぁ」と言いながら、
松の苗木を植えているのを目にし、
君主が「おじいさん、歳はいくつだ?」
と尋ねたところ、老人は
「八十五歳になります」と答えました。

それを聞いて君主は笑いながら、
「この松は立派な材木になるだろうが、
おじいさんの生きている間には使えないではないか」
と言いました。

すると老人は松を植える手を止め、
君主をじっと見て、
「木は植えてから百年後に材木として役に立つものです。
自分が生きている間に使えないからといって無駄だとはいうのは、
とても国を治める者の言葉とは思えない。
そのような考えで国が治められるでしょうか。
私は年老い、先の短い身ではありますが、
後の者たちのために木を植えているのです」
と言いました。

これを聞いて君主はすっかり恥じ入り、
「私が間違えていた」と言って、
老人に食事とお酒を与え、労をねぎらったとのことです。

さて、なんとも器量を感じるこのご老人、
後の者たちに遺したのはきっと材木だけではないでしょう。

現代においても、家・仕事を問わず、
立派な後継者を育てるために、
私たちが後の人たちに何を遺すかということは
大変重要な課題であり、また大きな悩みどころでもあります。

金光教の御教えに
「先の世まで持っていくことができ、
子孫までも残るものは神徳である。
…神徳を受ければ、人徳はついて回る」
とあります。

人徳が人に求められ用いられる徳であれば、
神徳とは神に求められ用いられる徳、
お道と調和した生き方と言えます。

後の者に財産を遺すというのも立派なことですが、
それよりも神徳を受け、
人徳を得られるような生き方をすれば、
後の者にも徳を遺すことができる、
と教えられているのです。

いくら物質的な財産を遺しても、
後の者がその財産を当てにして努力を怠り、
身を持ち崩すというのはよく耳にする話ですね。

それに対し、「徳は末代まで」というように、
徳というのは人を介し、巡り巡って
後の者を幸せにしてくれるものなのです。
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