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幸せの不思議

メキシコの田舎町で、一人の漁師が小さな網に魚を獲ってきました。

そこへ一人のアメリカ人がやってきて尋ねました。

『素晴らしい魚だね。どれ位の時間、漁をしたの?』

すると漁師は、

『そんなに長い時間じゃない』

と答えました。

アメリカ人が

『もっと長い時間漁をしたらもっと魚が獲れるというのに。余った時間は何をしているの?』

と聞くと、漁師は、

『朝はゆっくり寝て、家族が食べる分だけの漁をしたら、
あとは子供と遊んで、妻と昼寝をして、夜になったら友達と一杯やって、
ギターを弾いて、歌を歌って…それでもう一日終わりだね』

と答えました。

するとアメリカ人は真剣な顔で漁師に言いました。

『経営のプロとして君にアドバイスしよう。
いいかい、君はもっと長い時間漁をすべきだ。
それで余った魚を売って、お金が貯まったらボートを買って人を雇うんだ。
それでさらに儲けたら次は魚を缶詰にする工場を造って、ニューヨークに進出するんだ。』

漁師は尋ねました。

『そうなるまでにどれ位かかるんだい?』

『おそらく20年から30年といったところかな。』

『それからどうなるの?』

『今度は株を売却して、君は億万長者になるのさ』

『それで?』

『そしたら引退して田舎に住んで、朝はゆっくり寝て、
日中は釣りなどをして過ごす。あとは子供と遊んで、
妻と昼寝をして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌を歌って過ごすのさ。
どうだい。素晴らしいだろう?』

田舎暮らしも、子供との遊びも、妻との昼寝も、友人との楽しい時間も、
すべて漁師がすでに手にしているものばかりです。

精一杯働いて社会に貢献することは確かに素晴らしいことですが、
自分にとって必要ではないモノのために、大切な時間や人間関係を犠牲にするなんて、
なんとも滑稽な話ですよね。

幸せというのは不思議なもので、
お金とか地位とかいった外からの基準では判断できないものなのですね。
むしろそういう決まりきったものがあると思っている人の方が、
不幸に陥ってしまうケースが多いように思います。

結局のところ、今与えられているものに感謝できる心を育てる方が、
幸せへの近道だったりするかも知れません。

さて、皆様にとって幸せとは一体何でしょうか?

幸福は決断にある

自分が不幸せなのは、
自分が思う通りの人生ではないから
と考える人が多いのではないでしょうか。

自分の思うように人生がまわっていけば
幸せになれるはずだと思うのです。

そういう人は「あれがこうなったら幸せになれるのに」
と考えてしまいます。

でも、人生はそれほど飼い犬のように忠実ではないのです。
ワクワクすることもあればイライラすることもあります。

成功することもあれば失敗することもあるでしょう。

「あれがこうなったら、幸せになれるのに」
などというのは、結果的に自分をごまかすことなのです。

幸福というのは自分の決断にあるのです。

何もしなくても、このレールに乗っていたら、
いつか『幸福駅』というターミナルに着くように幸福にたどり着ける。
そう思いながら生きている人はとても多いのです。

こういう人の人生は「あれがこうなったら幸せになるだろう」
で終わってしまいます。

私たちは皆、決断を迫られているのです。

自分の手にしたものを最大限に生かすための
時間は限られているのだから「今をどうするのか」
もしくは、より良い未来に期待しながら
「今を無為に過ごすのか」その決断をせまられているのです。

私たちがこの世にいられる時間は限られています。

要は、その時間を出来る限り活用するしかないのです。

自分がもっと幸せになり、もっと多くのものを人生から得るのに、
この世界まるごとを変える必要があるでしょうか。

言い方を変えますと、世界が変われば、
私たちはもっと幸せになり、
もっと多くのものを人生から得ることが出来るでしょうか。

私たちは時々勘違いをします。
まわりが変われば自分が変わると。

でも、それは幻想です。

自分が変わらなければ、世界は変わらないのです。
私たちが思う不幸の度合いは、今のあるがままの状態と、
かくあるべきだと思う状態との違いの大きさなのです。

私たちが他に求めるのをやめれば、もっと簡単に幸せになれるのです。

そのうえで、幸せを求める願いは願いとして持ちながら、
その願いがもしも叶わなくても、
やはり自分は幸せでいようと決心しなければ、幸せにはなれないのです。

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合わせ鏡の間で

ハワイに伝統的に伝わる癒しの方法に、
『ホ・オポノポノ』というものがあります。

心理学者のヒューレン博士によって紹介され、
広く世界に知られることになりました。

それはヒューレン博士が州立病院の精神病棟の責任者として、
実際に患者の治療にあたっていたときの話です。

その当時、病棟には罪を犯した精神患者も収容されていて、
職員も身の危険を感じる環境であったことから、
退職者もたいへん多かったそうです。

しかし、ヒューレン博士が着任してからは、
患者の精神が回復し始め、退院者が増え、職員の定着率も高まりました。

そして4年後、ついに入院患者が一人もいなくなってしまったので、
この病棟は閉鎖されることになったのです。

では、ヒューレン博士は何をしていたのかというと、
患者に直接会っては治療せず、ただ毎日、
患者一人ひとりのカルテを見ながら、
感謝と愛情の念と言葉を送り続けたのだそうです。

人の心は、潜在意識で繋がっていると言われます。

「いつもこんなに良い態度と良い言葉で接しているのに、
相手はちっとも変わってくれない」
と考えてしまう時には、少し心の持ち方を変えてみるのが良いでしょう。

金光教の教えに
「人間は、合わせ鏡の間に置いてもらっているようなものである。
悪いことも善いことも、みな鏡に現れる。
…信心して、真の心にならなければならない」
とあります。

鏡に映るモノを美しくしたいのであれば、
映す本体を美しくする必要があります。

その本体が感謝と愛情の心で満たされているのであれば、
鏡にもまた、感謝と愛情が映るのです。

つまり、大切なのは、自分の心を
いかに感謝と愛情で満たせられるか、ということなのです。

相手の反応に応じて、自分の心が
不満や怒りで覆われてしまうぐらいなら、
相手の写真を見ながら、相手の助かりを祈ってあげる方がよっぽど良いのです。

合わせ鏡の間で生きる私たちは、
「鏡に映る世界をより美しくするためには、
自分の心をより美しくする必要がある」
ということを、肝に銘じなければならないのです。

幸せになるための絶対条件

「積善の家に余慶あり」という言葉があります。
善意善行を積んだ家には、
有り余るほどの慶びごとがあるという意味です。

金光教の教祖は、
「神徳を受けなさいよ、人徳を得なさいよ」と勧められました。
また「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はなくなる」と、
徳を積むことが安心の人生を送るための大切なことであると教えられました。

徳というのは、善意や愛、感謝の
積み重ねによって身につくものであります。

また、「徳は孤ならず」といいますが、
徳を積むと不幸せや孤独とは無縁の自分になれるといわれるのです。

お金や権力を集めようと努力して、
それがたとえ果たされたとしても、
その人が本当に満たされているとは限りません。

むしろ、孤独で不幸せな金持ちや権力者を探す方が容易でしょう。

金銭は、その人自身や家族が幸福に生きていくために
必要な条件の一つではありますが、絶対的な条件とは言えません。

権力もそうです。まわりの尊敬や同調を得るために必要なものといえば、
これも幸福のための条件の一つではありますが絶対的なものではありません。

お金や権力を求めるあまり、善意とか愛とか感謝といった
徳の貯蔵を忘れてしまうと、やがて貯えは底を尽き、
何ら幸福感を伴うことのない金や権力だけが残されることになります。

そんな結果に終わるのなら、
いったい何のために努力するのか空しさだけが残ります。

つまり、金や権力そのものは人生の目的にはならないということです。

人間にとって、幸せになるための絶対条件は徳であります。

徳を積むように努めていると、いつの間にか自然と、
より裕福でより満ち足りた暮らしが実現されるのです。

善意とか愛とか感謝の思いを持てるということは、
それだけで幸せな人なのです。

だからこうとも言えます。
幸福になったらそういう思いを持とうでは幸福にはなれないのです。

幸せな人というのは、途中から幸せになるのではなく、最初から幸せなのです。
人はどんな境遇にあっても、その考え通りの人生を送っています。

幸不幸の分かれ目は、
心がどちらの方角へ向いているかで決まってくるのです。

徳を求めるのか、それとも…。

「有難い」ルート

戦後の民営九電力体制を生み出して
「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(まつなが やすざえもん)は
このような名言を残しています。

「実業家として大成するためには、
長い闘病生活、長い浪人生活、長い牢獄生活の三つを経験しなければならない。

三つを経験するのはなかなかたいへんなことだが、
少なくとも一つくらいは経験しなければ、実業人の端くれにもなれない」
 
闘病生活とは死にかけるような大病、
浪人生活とは失業状態。
牢獄生活はさすがに無理があるので、現代に置き換えれば
「胃に穴があくような職場や家庭環境」といったところでしょうか。

いずれも辛いに違いないのですが、
それをなおかつ長い期間経験するところに大きな「価値」があるのだと、
日本の歴史を代表する実業家は言いきっている訳です。
 
ではそうした長く辛い経験の中に、
一体どのような「価値」を見つけることができるのでしょうか?

一般的に私たちは「幸せ」より「不幸せ」を感じやすいと言われます。

言い換えれば、怒りや不満といった不幸せな感情は
何の苦労も無しにやってきますが、
感謝や満足といった感情を持つには、
特別な経験をしたり、心の訓練をする必要があるのです。

その特別な経験というのが、
まさに闘病・浪人・牢獄に値するのではないでしょうか。

死に直面して初めて、命や健康の有難さを知る。

職を失って初めて、仕事やお金の有難さを知る。

逆境にあって初めて、思いやりの有難さを知る。

今まで当たり前に「有る」と思っていたことが、
本当は「有り難い」ことであったと思うようになるのです。

その時、心の中では、これまで毎回通ってきた
怒りや不満のルートの反対方向にある、
感謝や満足からなる「有難い」ルートを通るのです。

初めは慣れなくても、繰り返し通ると
「有難い」ルートが正規のルートとなって、
物事への対処の仕方が全く変わってくる。

だから、松永安左エ門は長く辛くとも
「価値」があるのだと言ったのではないでしょうか。

信心というのは、この「有難い」ルートを
一歩一歩踏み締める訓練だと私は考えています。

闘病・浪人・牢獄を全て経験しないと通れないルートだとしたら、
あまりに酷な話ですから(笑)

仕事とお金と幸せを手に入れる

仕事というのは、事に仕えると書きます。

もともと、仕事の「仕」も「事」も「つかえる」という意味で、
天に仕えるという意味を持っています。

しかし西洋では労働といって、信仰的な側面もあって、
神様から与えられた罰として人間は働かなければならないというように考えられています。

ですから働くことをいとうと書いて労働というのです。

さて、皆様は何のために働いていますか?

それがもし『生活のために働いている』と考えているとしたら、
幸せな人生を手に入れることに黄色信号が灯っているかも知れませんよ。

『生活のために働いている』と考えると、
ついつい
『仕事は辛いもの』
『きついけど、食べていくためには我慢しなくちゃ』
と思ってしまうものです。

つまり、仕事をすることをいとうことになるのです。

その結果、お金に対しても
『苦しみの代償として手に入れたもの』
『苦しみなしでは決して手に入らないもの』という、
お金に対してマイナスのイメージを持つようになります。

面白いもので、お金にマイナスのイメージを持つと、
自分にお金がないことに言い訳がうまくなるのです。

『私が金持ちになれないのは、仕事はほどほどにして、プライベートを大切にしているからだ』

『お金だけで幸せなんて決まらない。それよりも、もっと幸せになれるものはいくらでもある』

これがどんな人生も引き寄せるか想像はつくでしょう。
潜在意識は、仕事を苦しいものと考え、
お金が手に入らない方向へ引っ張っていきます。

『仕事は楽しいもの。自分自身を成長させてくれて、
そのうえお金まで手に入るんだから、こんなに素晴らしいことはない。
もっといい仕事をして、もっとお金を手に入れて、もっと幸せを手に入れていこう』と、
いつもそう考え、それを口グセにして仕事をしていくと、
必ずそういう人生を手に入れることになります。

仕事に対してどのような考え方を持つか?

その一番目のボタンをかけ違えると、私たちはいとも簡単に、
無意識のうちに不幸のスパイラルにはまり込んでしまうのです。

気をつけたいですね。

五月病に打ち克つ

ゴールデン・ウィークを過ぎると、
新入生や新社会人などに見られる「五月病」。

目指す学校・企業に入るという、高い目標を達成した一方で、
次の目標を見失ってしまいがちです。

そんな時に大型連休が来ると、その間、ついつい深く考え込んでしまって、
連休が空ける頃には「本当にやりたいことが分からない」と、
すっかり元気を無くしてしまうのです。

また、この五月病というのは、
実は新入生や新社会人だけの特別な病ではありません。

転職や人事異動など、新たな環境に飛び込む時には
いつでも、いくつになっても注意が必要なのです。

五月病に襲われた時、自己啓発書を読まれる方も多いようですが、
実際書店に行ってみるとその類の書が何百冊も並んであって迷ってしまいます。

私もそれらの全てを読んだわけではありませんが、
名著と呼ばれるものを何十冊と読み込んでいくと、
全ての書の中に、ある共通点を見つけることができます。

それが、「目標を持つこと」なのです。

儒教の四書「大学」の中にこのような話があります。

中国古代の殷(いん)王朝の創始者で、
また聖人と呼ばれた名君、湯王(とうおう)は
顔を洗う洗面器に字を彫って、
そして毎日、その字を読みながら顔を洗いました。

彫られた字は『苟日新、日日新、又日新』
(つつしみて日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり)。

毎日自分を成長させ、新しくなっていくのだという決意が込められているのです。

成功して金持ちになったら、後は楽々暮らす、
何もしないでのんびり過ごせるというのは大きな勘違いです。

何もせず目標を持たずに生きていると、
かなりの確率でノイローゼになってしまうのだそうです。

お金持ちがよりいっそう働くのは、
目標を持って努力すること自体が、人間にとって強い快感であり、
また生きる上で必要だからなのです。

今「目標を持っている」と言える人は、
本当はとても有難いことなのです。

もし目標が無いのであれば、
目の前のことを昨日より少しでも上手く、
少しでも早く出来るように意識してみてはいかがでしょうか。

結局のところ、「本当にやりたいこと」というのは、
自分が精一杯頑張って、目標を一つひとつ達成した中にしか見つからないものなのですから。

人生いろいろ、人それぞれ

人生いろいろあるように、人もそれぞれであります。

一目逢った時から好きになれる人もあれば、
一目逢った時からどうしても好きになれない人もいます。

「どんな人でも好きになる努力をしなさい」とか、
「どんな人とでも仲良くしなければいけません」と、
幼い頃に親や先生から言われませんでしたか?

そう言われて、好きになる努力をしたり、
仲良くしようとすることは、道徳的には大切なことですし、
実際そのようになれたら、人間的な幅が出来て素晴らしいことです。

でも、嫌いな人を好きになるのは、とてつもない努力がいります。
そして、その割には得るものはあまりありませんね。

一生懸命けなげに嫌いな相手と
仲良くしようとする自分が可哀相に思えてきて、
自虐的になってしまうことさえあります。

そこで、そうならないための方法を考えてみましょう。

まず、好きになる努力をするのをやめて、
どうすれば、相手を上手に避けられるかということを考えるのです。
その方が効率的なのです。

でも、人間には
「人を嫌ってはいけない」とか
「嫌な顔を相手に見せると、相手に悪い」という
優しい思い込みがありますから、まずそれを捨てましょう。

これは、「自分は悪い人と思われたくない」とか
「嫌われたくない」という自分の弱さでもありますから、
「嫌われても自分は大丈夫だ」と思えればなんてことはありません。

更には、「私はこの人と、今生では縁がないのだ」と思えば簡単です。

「この人とはもともと、今生では縁のない人なんだ」
と、思い切ったとたんに、
「それなら今しか一緒にいないのだから、少し話を聴いてあげよう」
とか、
「少しの間だから、笑顔でいてあげよう」
とか、
「もう会うこともないだろうけど、お幸せに」
とかの思いが自然に湧いてきます。

つまり、イヤだから逃げたいという悪い気分が、
その時点で消えてしまうという訳です。

嫌な上司や部下がいても、
その人を好きになろうと努力しないこと、
この人とは残念ながら今生では縁がないと思うことです。

そうすると、一年か二年の間のことだから
せめて笑顔で接してやろうと、自然に優しい気持ちが戻ってきます。

そうすると不思議ですよ。
目の前から相手がいなくなるような事態が起きてきます。
つまり卒業です。

逆境の受けとめ方

『逆境にあって人間の真価が問われる』と言います。

私もそうであったように、大半の人間は逆境に立たされた時、
それを「降りかかってきた災難」として受けとめ、
自分や人を責めたり、悲しんだり、ただ絶望を感じたりしてしまうものです。

日本画家の大石順教(おおいし じゅんきょう)尼も、
耐え難い逆境を体験された方の一人ですが、その受けとめ方は全く違ったものでした。

順教尼は十七歳の時、ある凄惨な大量殺人事件に巻き込まれ、
養父により両腕を切り落とされるという、たいへんな目に遭われました。

しかし順教尼はそんな境遇を嘆くことなく、
口に筆を加えて文字や絵を書くことを習得され生計を立て、
後には出家して他の身障者の自立教育に努め、
『心の障がい者になってはいけませんよ』と言って、
人を助け励ます生き方を模索されたのです。

さらに驚くべきことに、自分の腕を切り落とした、
憎んでしかるべき養父の墓を建て、
『嫌な役回りを果たす養父がいたから、私は幸せになることができた』と、
墓前に手を合わせるのでした。

そんな順教尼は「日本のヘレンケラー」とも称され、
他界され四十年以上たった現在でも、人々に夢と希望を与え続けています。

このような生き方を学ばせて頂くと、逆境への見方も180度変わってきます。

もしかすると逆境というのは、一人ひとりの持ち味や、
秘められた力を開花させるために与えられたものとも受け取れるのではないかと思うのです。
事実、何らかの事を成し遂げた人物の歴史をたどると、みんな逆境から始まっているのが分かります。

信仰的に言えば、その人物にしかできない何かを達成させるために、
神様が差し向けて下さったものということになります。

つまり、逆境というものは「降りかかってきた災難」ではなく、
「貴重な機会」とも受けとめることができるのではないでしょうか。

程度の違いこそあれ、どんな人にでも逆境について考える機会が訪れるでしょう。

その際、順教尼はじめ逆境を福に転じた偉人たちのことを思い出して頂きたいと思うのです。

その逆境を越えた先には、自分にしか出来ない何かがある筈ですから。
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