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そうですね

私たちは、自分が「こうだ」という考え方を持つと、
違う考え方の意見を受け入れにくくなります。
そして、相手の考え方や意見を、自分に従わせたくなるのです。

でも、相手も自分のように、
自分が「こうだ」という考え方を持っていますから、
同じように、こちらを従わせようとしてきます。

そこで対立が起きるのですね。

でも、相手の意見と相手の人間性とは違うものです。
たとえば、子供には、子供の意見があります。

大人からすれば、それはたしかに幼稚な考え方かもしれないけれど、
でも、だからといって子供の人間性を疑うような親はいません。
子供が何を考えているのか理解しようとするのが親です。

それと同じように、相手が何を考えているのか、
それを理解することは、自分の意見を変えなくても出来るはずなのです。

相手を受け入れること、つまり、相手が何を話したいのか、
どんな気持ちなのか、それを聞いて、
「そうですね。あなたがそう言うのも、あなたにとっては当然のことですね」
と、そういう意味での「そうですね」と言うことは出来るでしょう。

正反対の意見の人に対しても、
その人がそう言うに至った生い立ちや立場に思いをはせてみて、
「たぶん、自分もそう言うかもしれないなあ」という理解を示して、
「そうですね。そうあなたが言うことは、
あなたにとってとても自然なことなのでしょうね」の
「そうですね」を意識して言ってみて下さい。

そうすることによって、
人間関係がしっとり落ち着いたものになることが実感できるようになります。

相手も落ち着いてきて、会話がとてもスムーズになります。
仲の良い関係になれるかもしれません。

自分に自信の持てる人は、どんな相手にも「そうですね」と言える人です。

相手を理解しようとする心のゆとりが、自分の自信になるからです。

相手を変えよう、自分の意見に従わせようとばかりする人は、
自分に自信があるかのように見えますが、
実際はかたくなに自分を守るばかりの人です。

そして、そういう人は、まわりから遠ざけられます。
そして、やがては自信を失うことになります。

ゆとりを持って「そうですね」と言える人になりましょう。

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地獄と極楽

あの世には「地獄の館」と「極楽の館」とが並んで建っているそうです。

どちらの館も、見た目も造りも全く同じで、
入口を入ると中には大きな食堂があり、
テーブルの上には山海の珍味が山盛りに並べられています。

ただし、食べ方のルールだけは決められていて、
手に結び付けられた長い箸を使ってのみ、その御馳走を食べることが許されるのです。

「地獄の館」を覗いてみると、テーブルを囲んでいる人々は皆とてもやせ細り、
不機嫌な顔をしています。

それは、長い箸を使ってご馳走をつかみ、
それを自分の口に運ぼうとするのですが、箸が長すぎて自分の口に入らず、
隣の人の顔にぶつけたり、落としたりして、結局、誰も一口も食べられないでいるためです。

そうしてお互いに『馬鹿野郎』と罵り合っているのです。

一方、「天国の館」を覗いてみると、テーブルを囲んでいる人々は皆とても健康的で、笑顔がたえません。

それは、つかんだご馳走を自分の口ではなく、
正面に座っている人の口に運んで『さぁ召し上がれ』と食べさせ合っているためです。
そうしてお互いに『ありがとう』と感謝し合っているのです。

このお話は、心のあり方一つで人生は地獄にもなり、
また極楽にもなるということを教えてくれます。

人生を極楽にするその心とは
『貴方からお先にどうぞ』と、他人に与える心のことなのです。

こういう話をすると、頭では分かるんだが耳が逆らう、
どうにも受け入れがたい、根拠を示して欲しい、とおっしゃる方がおられますね。
お気持ちは大変よく分かります。そういう方にも朗報があります。

最近の脳科学では、この他人に「与える」という行為が、
自分が「与えられる」のと同じような嬉しさを脳内に生み出すことが分かってきたようです。

また、そうした愛や感謝に満ちた時、
人間の脳はモルヒネの500倍もの鎮痛効果を示すホルモンを分泌するらしく、
『与えることによって、人は益々幸せになる』との金言は、どうやら紛れもない事実のようです。

あとは実践するのみです! 

「極楽の館」への行き方は、もう覚えて頂けましたよね? 

ドンマイ

日本人には、相手の失敗を許し、
なおかつ励ます時によく使う「ドンマイ」という言葉があります。
私はこの言葉が大好きです。

野球などの集団競技で誰かがミスをすると、
みんなが「ドンマイ、ドンマイ」と声をかけている。

それが勝敗を決める致命的なミスであっても、
「まあ、いいよ。気にすんなよ」という意味で、
ドンマイと言って許してやるのです。

この言葉、実はとても有り難い言葉なのです。
なぜなら、相手を許すことによって、
将来的にもし自分がミスをしても許してもらえるからなのです。

「あなたのミスは許すから、もし私がミスをしたときも許してちょうだいね」
ドンマイという言葉を精確に解釈するなら、
おそらくそういうことになるはずです。

他人のミスには甘くしてあげた方がいいに決まっています。
なぜなら、自分のミスも甘くしてもらえるからです。

それを、他人のミスに対して厳しい態度を取ったら、
今度自分がミスを犯したとき、どれほどの報復を受けるかは
火を見るよりも明らかであります。

古今東西の宗教家は、口を揃えて「他人を許してやれ」と説いています。
それは愛の実践を勧めているのですが、
そんなに高尚に考えなくても、相手を許すということには多くの功徳があるのです。

まずは、「気にすんなよ、ドンマイ」と言うと、
相手はあなたのファンになるのです。
時によっては、義兄弟とも、子分ともなってくれるのです。

そうして、相手を許し励ますことによって、
身内意識が高まれば、あなたが困った状態に陥ったとき、
絶対に救いの手を差しのべてくれるのです。

身内意識というのは、一言でいうと「えこひいき」ということです。
えこひいきというと悪いように聞こえますが、
実際自分がそうされると、本当は嬉しいものです。

だから困っている人を見つけたら、
「どうしたの?」「大丈夫?」と声をかけてあげましょう。
ミスをした人がいたら、
「俺もよくすることだよ」とか「責任の一端は俺にもあるよ」
とかばってあげることです。

もちろん「ドンマイ」と励ますのも忘れないようにしましょう。

この心掛けでいれば、
いざあなたが困ったときには、やはり助けてくれるものなのです。

成長の法則

人間は、坂道を一歩一歩踏みしめ登るがごとく、
努力を重ねていくものですが、その成長は階段式に訪れると言われます。

つまり、停滞と飛躍を繰り返して、人は成長していくというわけです。

それでは、その成長の差とは、一体どこで生まれるのでしょうか?

西郷隆盛は、明治維新に偉大な功績を残し、
また幾多の逆境から人間的成長を遂げ、徳性を養ったことから
『日本歴史上第一級の人物』とも称されています。

彼は三十五歳のとき、島津久光の怒りに触れ、沖永良部島(おきのえらぶじま)に流されます。

この時代の流罪と言えば、死刑に次ぐ重刑で、
刑期は無期、生きて島を出ることは望めない状況でした。

しかし彼はそうした中でも、自らを高める機会を逃さぬよう、
自分を練ることに専念しました。

その証拠に、彼はわずか二、三畳の吹きざらしの獄舎に
八百冊の本を持っていったと言われます。

彼の底知れぬ人間的な深さは、飛躍の時よりも、
その停滞の時の心の持ち方から生まれたと言えるでしょう。

あの有名な『敬天愛人』の思想もこの時に生まれたと言われます。

『敬天愛人』とは、天地の道理が、
全ての人間を分け隔てなく愛するものであるのだから、
この天地に生かされる自分もまた、
同じように人を愛さなければならないという考えです。

これほどの逆境下で、彼が天に向けたのは、
怒りではなく、感謝の心であったのです。

やがて彼は、
「西郷以外には、維新勢力を取り纏めることができる人物はいない」
として求められて、島を出ることを許され、
明治維新の大業を成し遂げることとなります。

人生には、思うような成果が挙がらず、人からも認めてもらえず、
小休止を余儀なくされる時期があります。

そうした停滞期というのは、実は自分の生き方を再確認できる良い機会でもあるのです。

貴重な機会を与えられたことに感謝できるかどうかが、
次の飛躍をより大きなものとするのです。

成長の法則は、停滞と飛躍の繰り返しであると言いました。
ただし、西郷隆盛のように停滞の時に感謝の心を持てるかどうかで、
その成長に差が生まれるのです。

人を助ける

「人を助ける」とはどういうことなのでしょうか。

大きな挫折によって苦しんでいる人、
大切な人を失って悲しんでいる人の為に、
私たちに出来ることとは、一体何なのでしょうか。

悲しみが癒えるには、時間が必要だと言われます。

深い喪失感から無気力に陥る冬を越えて、
傷が癒され、新しい希望の花が咲く春が来るまで、
じっと耐える時間が必要なのです。

しかし、実は時間だけでは足りません。
深い悲しみの中で長いあいだ希望を見出せず、
ついに最後を迎える人もいます。

植物は土地に種を蒔けば必ず花が咲く、というものではありません。
花が咲くためには、時間以外にも、新鮮な空気と水、
そして太陽の光などの様々な「縁」が必要なのです。

同様に、人間が悲しみを乗り越えるためには、良い「縁」が必要となります。

「人を助ける」ということは、
私たちが進んで他人の良い「縁」となり、
共に冬を越えるということではないかと思うのです。

良い「縁」となって働かせて頂こうと思うなら、
愛によって行動しなければうまく行きません。

愛がないのに、「問題を解決してやろう」「良い人間になろう」というエゴによって、
逆に相手を傷つける人がいます。

「過去は忘れなさい、
マイナスをプラスに変えなさい」

これらの言葉が力を発揮するのは、愛が働いている時だけです。
きれいずくでは人は助からないのです。

「人を助ける」というのは、マイナスをマイナスとして、
愛を持って一緒に受けとめること。

すると、それが良い「縁」として働き、
マイナスの中にあるプラスが見えてくることなのです。

金光教の教えに、
『不幸せな者を見て、真にかわいそうと思う心から、
 わが身を忘れて人を助ける、そのかわいそうと思う心が神心である。』
とあります。

私たちが誰かのことを「何とかあの人が助かってほしい」と思う時、
その心は神と同根であり、神と同じ働きが生まれるということです。

どうぞ、たくさんの愛によって、
たくさんの良い「縁」が働きますように。(合掌)

最善を尽くす

最善を尽くすということを、私は
「実意を込めて、丁寧に、真心でもって本気で取り組む」
ことだと理解しています。

今の社会では、何をすれば成長できるのか、
何をすれば幸福になれるのかと考える人が多いように見受けられます。

しかし、成長と幸福という点から言えば、
「なにをするか」よりも、「どのようにするか」のほうがずっと重要なのです。

アメリカの公民権運動指導者として、
ノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キング牧師は言われました。

「あなたが道路清掃人なら、最高の道路清掃人になりなさい。
ミケランジェロが彫刻をするように、ベートーベンが作曲するように、
シェークスピアが戯曲を書くように、あなたの道路を清掃しなさい。
あなたの死後、すべての人たちから
『自分の仕事を立派に成し遂げた道路清掃人がここにいた』
と言われるくらいに、見事に道路を清掃しなさい」
 
何をすれば儲かるか、何をすれば格好いいか、
何をすれば人に認められるかということを
探している間にも月日はたってしまう。

そして、それが見つかっても
儲かるか、格好いいか、認められるかの保証はありません。

「何もすることがない」というのは、ただの怠け者であります。
目の前を見れば、することは山ほどあるはずなのです。

精魂込めて最善を尽くして行う限り、
あなたはどんな仕事からも学ぶことができるし、
成長することが出来るのです。

しかし、工夫もなく、言われた通りに、
マニュアル通りに、人並みに行うのであれば、
どんなに収入の高い仕事であっても、成長はありません。

およそ仕事の価値は、その仕事そのものにあるのではありません。
誰が、どのように、それを行うのかによって、その価値が決まるのです。

何であれ、やると決めたら、そのことに最善を尽くすことです。

それが、人の尊敬と感動を呼びます。
そして、何よりも、あなたに成長と幸福をもたらすのです。

お金がなくてもできること

今回の震災に対し、
様々な団体、企業、著名人が夫々に義援金を募っていますね。

各団体、各企業の精神も素晴らしいですし、
著名人の方々が個人で何千万、
何億という義援金を寄付されるというニュースを耳にすると、
なんとも心温まるものがあります。

聖徳太子の言葉に
『和を以て貴しとなす』というのがあります。

これはただ読むと、
「みんな仲良く、助け合うことが大切ですよ」
という協調の気持ちを教えた言葉のように思えますが、
この言葉には、もっと深い、大きな意味があるのです。

それは、「あなたと私は一つですよ」という心です。

「あなたが悲しい時、私も悲しい」

「あなたの喜びは、私の喜びでもある」

そういう心になれた時というのは、
誰がとか、どの団体、どの宗教だからとかは、まったく重要ではないのです。

また、何もしない人を「無責任だ」と責めたり、
支援をおおっぴらにする人を「自己満足だ」と責めたりといった考えも一切無い。

もっと、大きく自由な考えなのであって、
そういう「和」の精神が貴い、ということを教えているのです。


では、義援金を寄付したくても出来ない人は何も出来ないのかと言うと、
もちろんそんなことはありません。

大切なのは、お金を寄付すること自体ではなく、
喜びを与えることなのです。


お釈迦様は、お金がなくとも
人に喜びを与えられることが七つあると言っています。

それは、
① 優しい眼差しで接すること(眼施 げんせ)
② 和やかな笑顔で接すること(和顔施 わがんせ)
③ 思いやりの言葉で励ますこと(愛語施 あいごせ)
④ 身体を使って奉仕すること(身施 しんせ)
⑤ 真心で共感すること(心施 しんせ)
⑥ 席を譲ってあげること(床坐施 しょうざせ)
⑦ 一晩泊めてあげること(房舎施 ぼうしゃせ)

の七つです。

多くの人を助けてあげたいけれど、自分には何もできない…。
そういう心の葛藤から、自分や他人を責めてしまっては元も子もありません。

「貴方と私は一つですよ」という「和」の心を大切にすれば、
人に喜びを与えることは、何かに限定されるものではなく、実はたくさんあるのです。

スポットライト

人が集まると、その中で
自分が話題の中心になろうと必死で頑張っている人と、
なぜか自然と話題の中心になってしまう人がいます。

この違いはどこからくるのでしょう。

誰もが、自分が話題の中心になって、
「この指とーまれ」と言いたい気持ちは
きっと持っているに違いありません。

でも、控えめなあなたにとっては、とても出来ないことかもしれません。

たくさんの友達に囲まれて、いつも話題の中心になる人は、
積極的で、人付き合いがうまいからだ、とそのように思うのも無理はありません。

でも、私の経験上、人付き合いが得意だと思っている人はほとんどいません。
周囲から、人付き合いが得意だと思われている人でさえも、
実は得意だと思っていないことが多いのです。

でも、知らない間に自然と話題の中心になる人は、
スポットライトの使い方が上手な人だと言えます。
何人かで話をしているとき、
いまどこにスポットライトが当たっているかという意識を持って、
つまりテレビでいえば、誰にカメラが向いているのかを意識することです。

そういう意識を持ちながら、会話の中で、
出来るだけ相手にスポットライトを当ててあげ、
カメラを向けるように意識すると、
相手の変化に気づきやすくなるのと、
また、他の人の変化にも気づくようになるのです。

誰かがスポットライトを受けていて、
横に全く受けていない人がいたら、
横のその人にスポットライトを当てるようにする。

まんべんなくみんなにスポットライトが当たるようにすると、
そのグループの中で共鳴が起きて、すばらしい仲間になります。

相手にスポットライトを当てる人ほど、
相手からスポットライトを当てられやすい傾向があります。

別な言い方をすれば、
相手に対して、自分の価値を押しつけるのか、
それとも相手と自分の価値を共有しようとしているのかの違いです。

「俺の考えはすごいだろ。だからこの指握れよ」
ではなく、
「私の考えはこうだけど、よかったらこの指とーまれ」
みたいなイメージですね。

あなたのスポットライトをもっと浴びたい人がいると思いますよ。
当てれば当てるほど、周りに人は自然と集まってくるはずです。
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