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心の行

金光教の御教えに『表行よりは心行をせよ』というものがあります。

表行とは、肉体を酷使するような行のことをいいます。

例えば、寒中に滝に打たれたり、断食をしたりするようなことをいいます。

そういう行を否定するのではありませんが、そういう行よりも、
心の行を優先させなさいという御教えであります。

例えば寒の間、滝に打たれて、
『私はこんな過酷な行をやり抜いたのですよ。大したものでしょう』と言ったのでは、
『なにそれ、自慢なの』と、いっぺんに値打ちが下がってしまいます。

心の行についてこうあります。

『人に不足を思わず、物事の不自由を行とし、家業を勤め、
身分相応を過ごさないよう倹約し、誰にも言わないで行えば、これ心行なり』

今は『心の時代』なんて言いながら、みんな不足タラタラなのですね。

家庭でも、職場でも、人の不足を言いたい放題ですし、
自由だ権利だと声高に主張して、身分不相応な生活をして、
それで足りない足りないと困っている。

人間の難儀は、わがままな生き方が原因なのです。

わがままな生き方の反対は、素直な心、謙虚な生き方であります。
素直とは、天と真っ直ぐに繋がる心、
つまり
『お天道様が見ておられる。こんな事をしていてはお天道様に顔向けできない』
という心なのです。

また謙虚とは、地に伏せる心、低い心になることなのです。
この気持ちが大事なのですね。

この気持ちになるためには、感謝の心がなければなりません。

『ありがとうございます』という気持ちが、心を素直にさせます。

『ありがたいことでございます』という心に、謙虚な気持ちが湧いてきます。

行というのを、私は『お手本通りに行う』ことだと考えています。

わがままな自分の心を、お手本通りに当てはめて行くことが、心の行なのです。

『そんな窮屈なこと』と思われるかも知れませんが、
わがままを通すから心が窮屈になっていくのです。

反対に、心の行をすることによって、心の器が大きくなっていくのです。

心が大きくなって、自由自在になることを悟りといいます。

心の行をすると自分の身の回りから足りないものがなくなっていきます。

孤独に対して

13世紀、シュタウフェン王朝のフリードリヒ2世は、
ある恐ろしい心理実験を行いました。

それは「人間の原始言語はどのようなものか?」
を知るための実験であったようですが、

彼は全国から生まれたばかりの孤児たちを集め、
ある「条件付き」でベビーシッターに世話をさせたのです。

その条件とは、
赤ちゃんに決して声をかけず、笑顔を見せたりあやしてもならず、
ただ生きるために必要な食事と着替えだけを行うというものでした。

そうすれば、赤ちゃんが何か言葉を話し始めるだろうと考えたのですが、

この実験は無惨にも失敗に終わりました。

赤ちゃんはみな死んでしまったのです。

なんとも酷い実験ですが、この結果から、
幼い子供はいくら栄養を与えられても、
人間的な触れ合いの無い、孤独な状況下では生き延びることができない
ということが分かったのです。

今は科学が進歩し、人間にとって
「孤独」ほど強いストレスはないことが明らかになってきました。

成人した人間でも、孤独を感じると
脳内はストレスホルモンでいっぱいになり、
落ち着かない、食欲がない、眠れないなど、心身ともに深刻な影響を受けます。

また、人との触れ合いが多いはずの都会ほど、
実は孤独を感じやすかったりします。

しかし光明もあるのです。

孤独の対極にある感情は「見守られている」という安心感ですが、
事実、何かに見守られていると人が信じる時、
たとえ肉体的には孤独な状態に置かれても、脳内では奇跡が起きるそうです。

この安心感から生まれたホルモンが、
孤独によって生まれたストレスホルモンを見事に打ち消してしまうのです。

歴史を振り返ると、金光教祖も、
またキリストや孔子などの偉人たちは、
孤独な状態に置かれても神や天が見守ってくれていることを信じ、
心折れることなくその生涯を全うしました。

それは、神や天に大金を積んだからでも、
お守りやお札を購入したからでもありません。

ただ信じ、感謝する心が彼らを導いたのです。

家庭でも会社でも孤独を感じる事はあるでしょう。

でも、「見守られている」という気持ちだけは、決して忘れないでいて下さいね。

責めないという修行

信心というと、これまでの宗教や修養団体では、
こうしてはいけない、ああしてはいけない、
そんな心だから不幸になる、病気になる、貧乏になるというように、お説教されることになります。
それが嫌だから信心しないという人も多いようです。

だいたい人間というのは、自分の欠点を指摘されるのが嫌なものですよね。

自分の欠点や足りないところを指摘されて、なるほどそうだとその時は分かっても、
分かったからといって、その欠点が直るわけではありません。

精神的にある程度のレベルに達している人であれば、
自分の足らぬところを指摘されても、すぐに心を改めて欠点を補うことが出来るでしょうが、
一般的な人だと、わかっちゃいるけど直せないということになります。

するとどうなるかというと、欠点を他人に見せまいとしたり、
自分を押し殺したり、自分自身を責めるようになります。

つまり人間の本来の性質であります自由自在な大らかな心をなくしてしまうのです。
これが実に問題なのです。
自由な心を失うことによって、より根深い問題をその人は自ら抱えることになるためです。
 
また、いろんな教えを聞くことによって、自分だけではなく他の人に対しても裁く心を持つようになります。

あの人はあんな心を持っているからこんな病気になるのだとか、
あんなことをしているから、こんな不幸なめに遭うのだというように、
相手を責めてしまうようになるのです。これも問題ですよね。

『それなら信心しない方がええやん』と思う方も
おられるでしょう。でも、人間は信心してもしなくても、
やはり自分を責め、相手を責めてしまうものです。

問題は、教えの聞き方にあるのではないでしょうか。

教えというのは本来、自分を裁くためでも人を責めるためにあるのでもなく、
人間のあるべき姿のひながた、実践目標のようなものなのです。

本来人間は不完全で未完成なのですから、欠点も足りないところもあって当然です。

そして、その原因はどこにあるのかというと「愛」が足りないからなのです。

教えというのは、その足りない「愛」や「許し」を学ぶためのもの。

学んだからすぐに愛に満たされる訳ではありません。だから修行が大切なのですね。

今できる親切を尽す (東日本大震災に対して)

三月十一日に発生した東日本大震災ですが、
地震発生から一週間が経過しました。

災害によりお亡くなりになりました方々に哀悼の意を表するとともに、
被災されたすべての方々、
並びに現在も被災地区の中で救助や支援に当たっておられるすべての方々へ
心よりお見舞い申し上げます。

また、依然行方不明の方々と連絡が取れないご家族や、
お知り合いの皆様の胸中を察するに余りあるものがございます。

震災の厳しい現実をつきつけられる毎日ですが、

一方で、被災地区で犯罪が発生せず、
声をかけ合い、助け合う姿に、喜びの涙も溢れます。

財産を失いながらも、食べ物を譲り合う人々の姿。

家族を失いながらも、他人の幸せを我が事のように喜ぶ人々の姿。

そして、日本だけでなく全世界へもひろがる支援の輪…。

私どもの教会へも、

「義捐金を一緒に送らせて下さい」

「被災者のためにお祈りさせて下さい」

などの声を多数お寄せ頂いております。

このような時、どのような心で、
どのような事をさせていただけばよいのか。

金光教の教えに、
「信心する人は神様に参るばかりではない。
 銭ももらわずお礼も言うてもらわず、
 至急な時に格別の親切を尽くし、
 急難にかかりておる人を助ける時に早く行きてやり、
 火事の場合にも早く行きて、火を消す働きを早く潔くすれば、
 真の信心親切となる」
とあります。

今はまだ被災地区に直接行くことができません。

それでも、一人ひとりが、今できる親切を尽くす。
「信心親切」の心で、
それぞれの立場でお役に立たせていただき、祈らせていただく。

震災発生の翌日、金光教本部はじめ全国約千六百の各地の教会で
具体的支援が鋭意開始されております。

また、その日、本部広前には全国各地から、
大勢の方々がお参りされ、
熱心にお祈りされておられる姿を目にしました。

毎月の教会誌に書かせて頂いているスローガン、
『声かけ、愛かけ、願いかけ』
を共に実践させていただきましょう。

万策尽きて

坂本龍馬は幕末の風雲児として、今や国民的英雄ですね。

その龍馬の姪にあたる岡上菊枝(おかのうえきくえ)という人物をご存じでしょうか。

その生涯を孤児・貧困児の養育に捧げ、「社会福祉の母」と呼ばれた女性であります。

そんな菊枝の養育が世間の注目を集めるきっかけとなったのが、
山中で動物と一緒に数年間暮らし、山猿同様であった十歳の少女が、
村人に付き添われて入園してきた時のことでした。

皮膚や髪の毛は泥と垢にまみれ変色し、
人を睨む目つきは獣のようにするどく、
とても教育を受けさせられるような状態ではありませんでした。

しかし菊枝は、その汚れきった少女の体を一緒に風呂に入って洗ってやり、
抱いて寝る生活を始めたのです。

少女も始めはそんな菊枝に圧倒され、ただただ驚くばかりでしたが、
自分を愛し受け入れてくれる菊枝の姿勢は、少女にとってわけが分からないほどの喜びであったようです。

その後少女の知性は急速に成長を始め、
5年のうちに食事も読み書きも一人前に出来る可愛らしい娘になりました。

この奇跡のような養育に関して、その教育方針を尋ねられた菊枝はこのように答えています。

『愛と理解こそ人間教育の最も優秀な武器でございます』と。

私たちは幼いころから『相手の立場に立ちなさい』と教えられてきました。
確かにそれはごもっともですが、実際のところ本当に「相手の立場に立つ」ことなんて、
とても生身の人間には出来やしないものです。

うまく出来て、受け入れてあげられるぐらいでしょう。

そんな非力な人間が一人の人間を育てるのに、
口や手をいくら上手に使ったところで歯が立たない。
その相手が他人の子ならば尚更歯が立たない。

そんな万策尽きたところで、愛と理解がまだ残る。
心でしかできないことが、真価を発揮するのですね。

菊枝はこのような言葉も残しています。

『口の人になりなさんな。心の人になりなさいね。』

この格言は時代や場所を問わず、言えることではないでしょうか。

真のリーダーとは?

人が集まってグループが出来ますと、
必ずそこにはリーダー的役割の人が生まれてきます。

これを聞いている人も、きっとこれまでリーダーとして行動したことがあるでしょうし、
これから先もたくさんその機会が増えることでしょう。

さて、リーダーに必要な要素やスキルとは、どういうものでしょうか。
やはり人の上に立つ人だから、頭が良くて、積極的で、
人使いがうまい人などという条件が求められることでしょうね。

でも、本当のリーダーというのは、人の上に立つよりも、
人のお役に立つ人のことです。

人のお役に立つために、喜ばれるために何かをするというのがリーダーなのです。

これは学級委員でも社長でも、また宗教家でも同じことです。
そのリーダーがどういう人であって欲しいですか?

そもそも、もし自分の頭の上に、誰かが乗ったらどんな気分でしょうか?

私もそうですが、すごく嫌な感じがする筈です。
逆に、自分の足元を支えてくれたらどうでしょうか? 
きっと気分が良い筈です。

誰だって自分の頭の上に乗られたくないし、
反対に自分の足元を支えてくれたら嬉しいのです。

ちょっとイメージしてみて下さい。家にセールスマンが来て、
彼がいろいろ商品説明をしようとしてカバンから資料を出そうとした際、
カバンから一冊の本がこぼれ出ました。

その本には、『客を簡単に操る3分間営業術』というタイトルが書かれていました。

さぁ、あなたならどう感じますか? 

私なら買う気があってもやめてしまうでしょう。

反対にそのタイトルが『お客様に満足してもらう営業術』なら、嬉しくなりますよね。
買う気になるかも知れません。

そもそも、人の上に立つのは一瞬で、その喜びを感じるのも一瞬なのです。
しかし、人の役に立つことは何度も出来ますし、
その喜びは何度でもいくらでも感じることが出来るのです。

幸せになる一番簡単な方法は、目の前の人をどう喜ばせるのか考えて実践することなのです。

リーダーとして大切な要素は、人の役に立つことに情熱を注ぐことが出来ることなのです。

そうすれば、多くの人たちの応援を得ることが出来ますよ。

250の法則

セールスマン経験のある方なら、
ジョー・ジラードという名前を一度は耳にしたことがあるかと思います。

シボレーの販売代理店で15年間で13,001台の新車を販売し、
12年間連続でギネスブックに
「世界一」
の名を刻んだ、伝説のカーセールスマンの名前です。

そんな彼が、すべての顧客に守り続けた、
「ジラードの250の法則」
というものがあります。

それは、一人の客の背後には250人の見込み客となる親族・友人・知人がいて、
もし一人の客を敵に回したら、250人を敵に回すことになるという法則です。

逆に言えば、一人の顧客を満足させることが出来たとき、
どのようなことが起きるかということも教えてくれていますね。

ちなみに何故「250」なのかというと、彼が葬儀屋で調べたところ、
葬式の参列者の人数が平均250人であったからだそうです。

「250」という数字は国や地域で変わるかも知れませんが、
この法則の本質は、カーセールスだけにとどまらず、
すべての産業、あらゆる業種で言えることではないでしょうか。

私たちはよく「一期一会」という言葉を使ったりしますが、
ジョー・ジラードのように本気で「一生に一度の出逢い」を活かそうとするなら、
「気付き」と「準備」が必要不可欠となります。

まず、実際に会って接客をさせて頂いている顧客の背後に、
「250人との出会い」があるということに気付くこと。

このことに気付けば、人を選り好みして接客するようなことができなくなります。

そうなると次に、250人という大口顧客をお迎えするときのような「準備」を始めますよね。
『たかが1人』という考えの時と、『250人』という時では、
服装も、掃除の仕方さえも変わってくる。

やらしいように聞こえるかも知れませんが、
これが出来ない人は大抵、1人の顧客さえも満足させることができないものです。

このように心の姿勢が変わってくると、普段は気付かぬ一期一会をも、
見つけられるようになってくる筈ですよ。

「すみません」「ありがとう」

ふだん何気なく使っている言葉が、
知らず知らずの間に私たちの「気分」を左右しているとしたら…
これはゆゆしき問題であるとは思いませんか?

心というのは、気分によって支配されているといっても過言ではありません。

『何となくやる気が起きない』『何となくユーウツだ』というように、
気分が晴れないと心が晴れないのです。

そこで今週のタイトルである「すみません」と「ありがとう」という言葉も、
使い方は似ていますが、気分を大きく左右する言葉なのです。

よく、道で落とし物をした時、それを拾ってくださった方に
『すみませんでした』と恐縮して言う人がいます。

友人から贈り物をもらって『ごめんね』とか、
先輩に食事をごちそうしてもらって『すみません』と言う人がいます。

もしあなたが、こういう人たちの部類に属して、
何かにつけて「ありがとう」ではなく
「すみません」という口グセがついているとしたら要注意です。

感覚的には似た言葉かもしれませんが、その性質はまったく違うのです。

「すみません」とは、私が悪かったと自分を一段低いところに下げてしまう謝罪の言葉です。

一方「ありがとう」というのは純粋な感謝の言葉であります。

常に「すみません」を口にしている人と「ありがとう」を口にしている人の心の中では、
どんな気分が作り上げられるでしょうか。

言われる側からしても、
他人から謝罪されるよりも感謝された方が気持ちよくはありませんか。

上司に叱られた時、ただただ「すみません」の繰り返しでは、上司の怒りはおさまりません。

また謝る方も、自分を責めるばかりで、
どんどん辛い気分に落ち込んでいきます。

そこで「すみません」の後に「ありがとうございました」と感謝の言葉を口にしますと、
状況が変わるのです。

上司は『よし、ちゃんと理解してくれたようだ。
指導した甲斐があった、もう大丈夫だろう』と納得できますし、
また、あなたも気持ちを切り替えて『いい勉強になった』
と素直になることが出来ます。

もちろん上司を恨む気持ちなど起きません。

「すみません」という謝罪の言葉を、「ありがとう」
という感謝の言葉に代えるだけで気分も人間関係も大きく転換できるのです。
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