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願う心は神に届く

『願う心は神に届くものである。』

「念ずれば花ひらく」で有名な、坂村真民(さかむら しんみん)先生の詩は、
年令、職業を間わず幅広く愛唱され、その生き方とあわせて、「人生の師」と仰ぐ人が多いそうです。

先生が八歳の時、小学校の校長をしていた父親が急逝し、一家の生活はどん底に落ちます。
父親の死に目に会えなかった長男の先生に、母親は父の喉仏を与え、
「今日から毎朝水を供えるように」と命じました。それから先生の早起きが始まります。
誰も起きないうちに共同井戸の水を汲みに行き、父の喉仏に供えるのが日課となりました。
その日課は生涯続いたそうです。

母親は五人の幼子を育てるために懸命に働きました。
その母親の働く姿、そして母親が常に口ずさんでいた、「念ずれば花ひらく」という言葉が、
先生の心に焼き付いて、あの有名な詩が生まれたのです。

念ずれば花ひらく 
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ ひらいていった


「祈ることしか出来ない」という溜め息混じりの言葉をよく耳にします。
これは、「自分には何も出来ないから、せめて祈りはするが、
祈ったところでどうにもならない」と、「祈り」を過小評価しているのではないかと思うのです。

「祈り」には力がある。このことは、本気で祈り、願い、念じた者のみが分かることです。
「祈ることしか出来ない」のではなくて、どんな絶望的な状況にあっても、「祈ることだけは出来る」のです。
そして、その願い、祈りというものが必ず自分の人生に形となって表れてくるのです。

御霊様とともに

『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、殻と実とが分かれるようなものであり、
時が来れば魂と体とが分かれるのである。』

人は誰でもいつかは必ず死ぬ。しかし、いつその時が訪れるのかは誰にも分かりません。
唯一つ言えることは、人が死ぬということは、その人として
一度は必ず出逢わなければならないことに出逢われたということです。
『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』というのは、
死は人生の最後に来るのではなく、最初から時々刻々、常に生と離れずに付きまとっているということです。

ですから死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、
実はそれは生の問題であって、本当に良い生き方が出来れば、それが同時に良い死に方にもなっているのです。

愛する人が亡くなることは、生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、これ程淋しいことはない。
しかし、信心の眼で見れば、死んだからといって、どこへ行くわけでもない。
目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、共にこの時を生きているのです。
本当に『会う』ということは、相手が見えるかどうか、相手と話すことが出来るかどうかではなく、
ひとつとなって生きて行くということです。

同じ家に毎日一緒に暮らしている家族であっても、顔を見るのも嫌だと言い合っているようでは、
本当に会っているとは言えないでしょう。
亡くなられた方とでも本当に会える道がある。一緒に暮らせる道がある。それが信心なのです。
一心に信心させて頂けば、今まで死んでいた者が、皆そこに生き返るのです。

仕事をしているときも、台所に立っているときも、いつもそこに一緒にいる。
寝入るときには傍で優しく見守り、困った時には助けてもくれる。
御霊様に命を吹き込み、それだけのお働きをしてもらうには、
まずは自分自身が精一杯、前向きに本気の毎日を送らせて頂くこと。
そのとき人は本当に生きたと言えるのであり、亡くなられた方に対しては本当の弔いともなるのです。

ただ一途に咲いて

仏道に「往生」という言葉がありますが、これは一日一日を大事にして生きる生き方のことです。
そして死ぬのは、神さま仏さまにお任せすればよい。
「花の命は短くて」という有名な言葉がありますが、それは人間の嘆きでしかありません。
坂村真民さんの『花』という詩に、このようにあります。

花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びが残るのだ

花は、自らの美しさを誇示しょうとして咲いているのではありません。
人間が見ていようと、見ていまいと、ただ懸命に、「花だから咲く」のです。
自分に与えられたいのちを、与えられた環境の中で、与えられた役割を精一杯、
ただひとすじに果たして、次の世代にいのちをつないでいくのです。

朝顔は朝に咲いて夕べにしぼみ、夕顔は夕方に咲いて夜明けにしぼむ。
でも、一生懸命に咲いたのですから、朝顔も夕顔も決して悲しんでいないでしょう。
咲くのが、朝顔、夕顔の喜びなのです。

私たちが花を見て美しいと感じるのも、その花の形や色などの見た目だけにあるのではなく、
自らの生命を全うし、ただ一生懸命に咲いている、そのひとすじの気持ちが私たちを感動させるのですね。
私たち人間にもまた、自らに与えられた生命を精一杯に喜び、全うする役割が与えられているのではないでしょうか。

今日一日、自らに与えられた仕事を精一杯に喜んでさせて頂けるかどうか。
自分の中から喜びを生み出す稽古こそが信心であります。人間にとって感謝にまさる生き甲斐はないのですから。
この自分の中から、どれだけの喜びが現れ出るか。
花も咲かせ、実も結ばせて、ただひとすじに咲き切ろうとするところに美しさが生まれるのです。

神人(かみひと)

『信心』という言葉を辞書で引きますと、「神仏を信じること」とあります。
なるほど言葉の通り、神様を信じる心という意味ですから、自分と神様とは別々にあるわけです。

同じ「シンジン」という言葉でも、このお道では『神人(かみひと)』と書きます。
これは、神様が私たち一人ひとりの中に居られるということです。
私たちが気付こうが気付かまいが、嬉しい時も悲しい時も寄り添って、
この人生を共に生きて下さっているのですね。

宮、寺、社など特別な場所で、特別な作法をもって、特別なことをすることが信心と思われていますが、そうではありません。
大切なことは、その自分の中に居られる神様に心を向け、本当に一つとなって生きていくことであり、
場所や作法はその為の言わば“工夫”なのです。

神様に心が向かっている時の感情とは、感謝・満足・納得・安心・共感・謙虚・愛情…と言った、正の感情です。
一方で、自分の中には我(エゴ)という鬼もいる。
その鬼に自分の心が向かうと、不足・不満・不服・心配・嫉妬・傲慢・憎悪…
と言った負の感情に責め立てられることになるのです。

つまり生きるうえで本当に大切なこととは、
自分の心を正の感情か負の感情、どちらに向けて生きていくか、ということ。
自らの心の調子を整えるということに尽きます。

しかし人間ですから、調子が整って神人となっている時もあれば、
はたまた調子が狂って心の鬼に責められる時もある。

性善でも性悪でもないのが人間です。
白と黒、善と悪の間に人間がいて、そのどちらにもいくことが出来る。
何らかの縁で上に昇ることもできれば、下に落ちることにもなる。
あらゆる悪も人間から出てきますが、同時にあらゆる善も人間から出てくるのです。
そのように、人間というのは何か一定の塊としてあるのではなく、
その時々の場や関係次第で色々な動きをするものであります。
だからこそ、調子が狂わないように、乱れないように、手を掌せていくことが大切なのです。

心配するな 大丈夫 大丈夫

『心配は体に毒、神様にご無礼である。心配する心を神様に預けて、信心する心になるがよい。』

一休禅師は八十七歳という当時としては非常に高齢で亡くなられましたが、
その亡くなる直前に弟子たちに、「この先、本当に困ることがあったら、これを開けなさい」
と一通の封書を残されたそうです。

数年後、寺に大変な問題が持ち上り、どうしようもないので、弟子たちは集まって、その封書を開いてみると、なんとそこには、

『心配するな 大丈夫 なんとかなる』
とだけ書かれていました。

]とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと明るさを取戻し、難しい問題を解決できた、という話です。
本当の話かどうかはさておき、一休禅師らしいユーモアたっぷりのお話であります。

人生には色々なことが起こります。嬉しいことも、辛いことも。
しかし、そのすべてが神様からのお差し向け、言わばプレゼントなのです。
途中で何があっても、後から振り返ってみると、それは、それでよかったこと。
いのちの糧となっていくのです。

何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、
どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、
解決がつかず、ますます苦しくなっていくものです。
ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。
心配する心は神様に預けてしまいなさい、と教えているのです

そのように神様に任せきり、凝り固まった考えから放れることができれば、
物事は自然と好転していくものです。
心配するな、大丈夫、なんとかなる。このことを忘れてはなりません。
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