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聞いて助かるということ

「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるのですが、

実は通じるところがあるのです。

赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。

声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。

母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、

それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。

それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。

なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。

人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。

聞くことなくして、話すことなど出来はしません。

耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。

それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、

この天地自然、人の心を受け取っているのです。

その受け取るということがなければ、自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。

ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、相手の心を受け取っていなければなりません。

ただぼんやりと耳を傾けている、心を込めて聞いていないようであっては、

自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、その結果、

誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。

このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。

聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのです。

愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、その時こそ相手の本音が出ているわけですから、

身を入れて本気で聞かせて頂き、その場限りで解消してしまいさえすれば、

「愚痴」と名をつけるまでもなく、それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 

聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」とはねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。

聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。祈りを込めて聞くか。

ここが肝心であります。

わが計らいを去って神任せにせよ

『何事にも無理をするな。我を出すな。
 わが計らいを去って神任せにせよ。
 天地の心になっておかげを受けよ』

我というものは、一つの事にこびりついて動かぬものを言います。

物事に対しては、こうでなければならない。

人に対しても、こうあるべきだ。そのような拘りから、心配や腹立ち、不足の心が出てくるのですね。

人間関係を例にとってみますと、あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、

その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなる。


それがもっと広い心にならせて頂ければ、人を決めつけたりせず、

相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、何故そういうことをしたのだろうか、

何か訳があるに違いないと、その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、

十分に察することが出来るようになる。

一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるのです。

では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。

ここが肝心なのですが、そもそも「我」とは、

自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。

「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。

しかし、そのような「我」がある為に、

有難いという心になれず、本気で頭を下げることが出来ない。

さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないことです。

それが故に、人から諭されようが、責められようが、

かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。

ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。

それは、教えを聞いて自分自身で詫びることです。

「我」というのは、自ら気付き、恥じ、詫びることによって、不思議と消える。

信心とは、自らの我を詫びていくことと言っても過言ではない。

そのために教えを聞くのですね。

祈られていること

ある信奉者の方から、このような話を聞かせて頂いたことがあります。

「ある朝、学校へ向かう我が子の後ろ姿に手を合わせ送り出したとき、
 私も又このように祈られてここまで来たのだ、という実感が湧きました。」

我が子の後ろ姿を祈って送り出す自らの姿の中に、自分の親の祈りを見出し、

その祈りの中で自分が親として、我が子に祈りをかけている。

大変尊いことに気付かれたことであります。


お道の教えにこのようにあります。

『我が子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ』

神様は人間の親であります。親が子を思う親心を通して、神様の氏子にかけられる御心を悟ったとき、

信心は生きたものになるのです。

親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても子どもの世話をし続け、心を配ります。

そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、祈りに祈りながら長期に亘って時節を待っているのです。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、

実は神様から先に、私たちのことを祈って下さっているのです。

神様が分からぬ、信心が分からぬということなど、さしたる問題ではありません。

大切なことは、この自分というものは、祈りに祈られている我が身であることに気付くことであります。

「祈り」とは神様に願い、問いかけることであるように考えられていますが、

本当はその逆で、願われ、問いかけられているのは祈っている自分自身なのです。

起きている事実を通して、自分自身が神様から「より良くなってくれ。助かってくれ。」と、

祈られ、問いかけられているのです。

神様だけではありません。自分以外の多くの人々からも願われている我が身なのです。

祈りを捧げるということは、その自らにかけられた祈りに応えて、

自分の生き方をより良くしていく決意をすることに他ならないのです

どんな時も見ておられる

「ほんもの」と「にせもの」

「ほんもの」と「にせもの」は
見えないところの在り方で決まる
それだのに「にせもの」に限って
見えるところばかりを気にし 飾り
ますます「ほんとうのにせもの」になっていく
(東井義雄)

人間の品というものは、その人全体から出るもの。生命全体の言わば調子なのですね。

人間、自分のやましい部分は隠そう隠そうとするものですが、

隠したいと思うものほど、実は表に出てくる。

お金・モノの扱い方、性生活や家族への接し方…。

自分の生命と密接に繋がっている事柄ほど、隠そうとしても必ず表に出てくるのです。

それらを正しくしている人は、それがだんだんとその人の生き方の

調子となって表れてきて、次第に品の良い生き方となる。

逆にそれらを乱していると、それがその人全体の生き方、調子の狂いとなって表れてくる。

そこで品が悪くなっていくのです。

他に知れる、知れぬの問題ではありません。

知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れない。

しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。

財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。

「にせもの」の横道はこの人生にいくらでもありますが、それらは皆やがては必ず行き詰まる。

その行き詰まりは大変苦しいものですが、実はそこが真に有り難いのでありまして、

行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。

信心をさせていただくということは、この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと心掛けることであります。

どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことなのです。

自分が見えること

『自分を見ることを仕事とせよ。
 それよりほかに何もすることはいらぬ』
 (高橋正雄師)

「悩み」とか「苦しみ」というのは、それに対して本気で向き合わないと、

いつまでもそこから抜け出せないものです。

『あいつが悪い』、『こいつが悪い』といっている間は、自分の悩みや苦しみから、ほんの少し逃げているのです。

正面から悩みや苦しみを引き受けるのは、誰しもしんどいことですからね。

しんどいから逃げたくなる。

それで、少しでも逃げるため『あいつが悪い』と、誰かのせいにする。

誰かのせいにしておく限り、自分はその問題に正面から向かわなくていいわけですから。

たとえば、「これだけ私が、成績の悪いわが子のことを心配しているのに、

なんであの子は平気な顔をして遊んでいるのか」と思ったとしましょう。

すると人はたいてい、わが子にだけ問題があるのだと思うのですね。

しかし、実はそうではない。自分にも問題があるのです。

成績ばかり気にする自分。顔をみれば勉強、勉強と言って、子どもをうんざりさせ気力をなえさせてしまう自分。

いやもっと深いところに問題は隠されていて、それを引き起こしているのは、もしかすると自分かも知れない。

そうやって問題を自分のものにして見てみると、解決の糸口がいろいろ見えてくるのです。

それを『あいつが悪い』方式で、ただ怒ってしまうというのは、

働きもせずにお金持ちになりたいという発想に近いのですね。

自分を見ることが足りない間は、すべて人のせいにして、不足をそこに持っていってしまいます。

ところが、自分を見ようとするところから一大転換が起きるのです。

自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないということに気付かされるのです。

そこから、相手の悪いところも許せるようになり、

また善いところもよく見えてくるようになり、物事が好転していくのです。
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