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真実の道

『人間、生身に痛いかゆいは当たり前である。
…これがもとで信心もできるようになり、これが修行になって信心も進んでくる。人間は勝手なものであるから、痛いかゆいがあるとご信心できるが、なにもなかったら信心が寝入る』


一見「不幸」に見えることの中に、
神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。

中国・唐の時代、大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師は、
「この道さえ歩いてゆけば、絶対にまちがいのない真実の道とは、一体どのようなものか」
と問われ、
たった一言、
「七転八倒」
と答えられたそうであります。

普通なら、何度転んでも起き上がる「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、
禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。
つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、と弟子に教えたのです。

人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全であり、
生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものです。

しかし、その転んで倒れることの中にこそ、
私たちが求めてやまない人間的な成長、生き甲斐があるのも事実でしょう。

例えば、病人へのお見舞いでも、自分も同じ病を患ったことがあれば、
心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように人を慰めることで自分自身が慰められるという働きにも気付くことが出来るでしょう。
それは「病」という一つの石に転んで倒れた経験のおかげなのです。

信心も同じことで、苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、
真の生き方に目覚めるのです。そこから自然と手が合わさるようになります。

肉眼で見れば災難であることが、
信心の眼で見れば、それは神様からの「プレゼント」なのです。

ですから痛いことも辛いことも、七転八倒している真にその時、
その出来事の中にどれだけの願いが込められているか、
どれだけの飛躍の種が詰められているかということに心を向けなくてはなりません。

話を聞いて助かる道

このお道は、「話を聞いて助かる道」と説きます。
聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのですね。
本日はこの教えにつてお話ししたいと思います。

さて、「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるかも知れませんが、
まことに通じるところがあります。

赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。
声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分かりません。
母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、
それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。
それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。
なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。

人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。
聞くことなくして、話すことなど出来はしません。

耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。
それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から人の心を受け取っているのです。
その受け取るということがなければ、自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。

ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、
相手の心を受け取っていなければなりません。
ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、
自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、その結果、
誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。

愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、
その時こそ相手の本音が出ているわけですから、身を入れて本気で聞かせて頂き、
その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、
それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 
聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」と
はねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。

聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。
祈りを込めて聞くかということが一番大切なのです。

神に会おうと思えば

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。
空が神、下が神。』


「神様を信じよ」と言われても信じるのは大変難しいことでしょう。
なぜ信じられないかと言えば、目には見えないものだからです。
目に見えないものは、いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、疑えばキリがありません。

しかし、この世の実際は、目に見えないものが、目に見えるものを支えています。
美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が支えているのです。

たとえ目には見えなくとも、私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、
実は私たちの周囲にたくさん在るのではないでしょうか。
祈りの中で生かさせて生きている。私たちはその祈りに気付いていないだけなのです。

このお道の信心には「後ろ祈念」という言葉があります。
その名の通り、誰かの背中を祈らせて頂くこと。
学校へ行く我が子、会社へ行く夫の後ろ姿に合掌し、お礼を申して無事を願うということです。

合掌と言えば両手を合わせて頭を下げる。
形の上ではただそれだけのことなのですが、単に社交で頭を下げる低頭や、
手を握り合う握手とは違い、相手の地位や身分を尊敬するのではありません。

そこに神様を拝む心、有り難いと感じる心があってはじめて合掌となる。
人の背中に合掌するということも、相手の中におられる神様を拝むことに他なりません。

「どうぞ、あなたの中の神様がお働き下さり、今日一日、幸せに過ごせますように」と念じて、両手を合わせる。
それが合掌するということなのです。

そのようにして、人の背中に手を合わせることが出来るようになると、
だんだんと自分自身も有り難い心持ちになってまいります。
何が有り難いかと言いますと、自分も又同じように誰かに祈られてここまで来たのだ、ということが分かってくる。
その祈りの中で「生かされて生きている」ことが実感出来るようになる。
そのことが大変有り難いのです。

上善如水

『老子』の中に『上善は水の如し』という言葉があります。

上善とは「最も理想的な生き方」という意味であり、そういう生き方をしたいと願うならば、
水のあり方に学びさない、という教えです。

川を流れる水を想像してみて下さい。
途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。
水というものは、その時々の環境に応じて自由自在に動いていくところにこそ、その本質があるのです。

人間の生き方も、何事にもとらわれることなく、どこどこまでもさらさらと生きていけるようになった時にこそ、
本当に「助かった」、「救われた」と言えるのでありまして、それが私たちが求めてやまぬ生き方なのではないでしょうか。

ところが、そのようにさらさらと生きることを邪魔するものが、私たちの心の中にある。
それを「我」と言い、また「執着」と言います。
「我」も「執着」も、一つの事にこびりついて動かぬ心のあり方を言うものです。

川の流れで言いますと、一カ所にせかれて停滞しているのが迷いや心配している様子、
そこから流れが激しくなっているのが腹を立てている様子です。

なぜ流れが停滞したり激しくなったりするかと言いますと、
それは「我」なり「執着」なりというものが川底にこびりついて、水の流れを邪魔しているためです。

お道の教えとは、どんなことにもとらわれず、凝らず、迷わず、
しっかりとした生き方をしていくことを心に決めることです。

他人を見る見方においても、あの人はこういう人間だ、と決めつけてしまうところから、
その相手のことをあれこれと悩まなければならないようになる。
それがもっと自由な見方が出来るようになると、相手を決めつけることなく、
その人が何かした場合にも、それにはどういう事情があったのだろう、何か訳があるに違いない、
と察することが出来るようになり、責める心がおさまってくるのです。。

「我」や「執着」を離れていくことで、
山を流れる川の水のように、さらさらとした生き方が出来るようになるのです。

神様にお任せする

昭和の政治家である広田弘毅(ひろた こうき)は、四十八歳のとき、
それまでの華やかな出世街道から一転、オランダ公使の閑職に左遷されます。

左遷の知らせを聞いた友人たちは驚き、彼を慰めたり、励ましたりしましたが、
当の本人である彼自身はきわめて平然としており、逆に友人たちの激情をなだめ、気さくに俳句を吟じます。

「風車(かざぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな」 

風車はオランダのトレードマークであす。
風車はいかに精巧であっても風が吹かないと回らないものですから、
自分の境遇をそんな風車になぞらえて、機会という風が吹くまで、
昼寝でもするかのごとくゆっくり待とうじゃないかと言ったのです。

彼の凄さは、政治的手腕もさることながら、
そのような逆境に対する心の持ち方にあったと言えるでしょう。

そうして、オランダ公使四年の間に力を蓄え、
やがて外務大臣、内閣総理大臣へと出世していくこととなるのです。

お道の教えに、このようにあります。
『どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。
じっと眠たくなるような心持ちになれ』


何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、
どうにもならない時には、何もしないで昼寝でもするかのごとく心を落ち着かせることが、
一つの大切な仕事となるのです。

何かするということも大切なことですが、
何もしないで時節を待つということにも、それに劣らぬ値打ちがあるのです。

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、
解決がつかず、ますます苦しくなっていきます。

ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様に全て投げ出し、お任せする。
自分の力でどうにかしようという我を捨てることが大切なのです。 

そのように神様に任せきり、凝り固まった自分の我を放れることができれば、
物事は自然に好転して行くものであることを、忘れてはなりません。
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