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自分が見えていればこそ

人生というのは何事も思い通りに行くものではない。

そのことは誰もが知っていることでしょう。

そして、何か一つの思いが叶ったとしても、また一つ思うことが増える。

一つの欲が満たされれば、また次の欲が起こる。

ですから不平や不足というのは言い出せばキリが無い。

このことも誰もが知っていることでしょう。


しかし、それらのことが頭で分かっていると言ったところで、

不足を言うのを止めるのは大変難しいことです。

それだけ、「不足の根」というのは、私たちの心に大変深く根付いているのです。


その他の根、腹立ちや心配や恨みや疑いなど、

色々な困った心持ちの根というのも同じで、自分の力でどうにかしようとしたところで、

たとえ表面上は取り繕うことが出来たにせよ、根を断つことは出来ません。

根が残っている以上、何かの拍子で必ず表に現れてくるのです。


そこで、このお道では信心を通して、「自分を見よ」と説いているのです。

自分をしっかりと見て行けば、不足を言わない、

腹を立てまいと心掛ければ心掛ける程、不足に思い、腹を立ててしまう、

どうしようもない私であるということが分かり、

自分の力ではどうする事も出来ない私であるということが得心出来る。

そこで自分を見直さざる得なくなる。その時はじめて一筋の光明が指すのです。


不平や不足が起こるというのは、自分を良しとし、

これ位のことはしてもらって当然だと思う気持ちが必ずどこかにあるのです。

そのような思い上がり、勘違いが砕かれたとき、不足の根も断たれるのです。


また、自分が見えることによって、相手だけが悪いと思っていたことが、

自分も相手も根本的には変わらないことが分かるところから、

相手の悪いところも許せるようになり、また善いところもよく見えてくるようになります。

自分が見えていればこそ、他の人が悪いところを出しても、

それが我が内にもあることを知っているから、簡単には責められなくなる、蔑めなくなる。

不足の根が断ち切れた時、その他の色々な困った根も断ち切れて行くのです。

お陰様

太陽の塔などの作品で知られる岡本太郎さんが、

ある講演会でお話された際、臨済禅師の

「道で仏に逢えば、仏を殺せ」

という教えについて、参加者に対し、このように問いかけました。


「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。

仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください。」

誰も手を上げません。岡本さんは続けます。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか?」

誰からも返事はありません。そこで岡本さんは言いました。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら己を殺せ。」

たいへん考えさせられるお話であります。


己を殺す、というのは本当に殺す、死ぬという意味ではなく、

自分と仏、自分と他人という対立した見方、考え方を無くすという意味ではないかと思うのです

自分も無ければ、他人も無い。

仏、神というのも自分と離れて存在しているのではない。

この自分というものは、自分だけの自分ではなく、

全体の一部として自分があるということに気付くことが大切です。

そこに至ってはじめて、これまでの悩みや問題の一切が無くなるのです。

自分とすべての物とを別に見、対立させて考えているというところが変わらぬ以上、

他に対する是非善悪の批判を無くすことは出来ません。

自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることが出来れば、

もちつもたれつ、「お陰様」の本当の姿が見えてきます。

夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。

その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。

自分が気付こうと気付かまいと、自分を生かそうとする働きがこの天地の中に満ちわたっていて、

その中に生かされて生きている自分であることを知ることが肝要なのです。

苦難の時にこそ

『100歳の詩人』として人々に愛された、

柴田トヨさんの詩に、『くじけないで』という作品があります。


ねえ 不幸だなんて 溜息をつかないで

陽射しやそよ風は えこひいきしない

夢は 平等に見られるのよ

私 辛いことが あったけれど

生きていてよかった

あなたもくじけずに


肉体的なことであれ、精神的なことであれ、私たちが大きな苦難に直面したときには、

それをどのように受け止めるかということが大切になってきます。

これまで当たり前にできてきたことや、自分の夢や目標がその苦難のために失われることになったとき、

愚痴や弱音を吐きたくなるのは当然のことです。そうした苦難は人にとって不運なことには違いない。 

しかし、不運と不幸とは同じものではありません。

不運というものは、受け止め方によって幸にも不幸にも成り得るのです。

苦難に逢わない人間などいません。色々あるのが人生であります。

しかし、他人の苦しみは自分には分からないものですから、

「どうして自分だけが不幸になるんだ、理不尽な目に遭うんだ」と思うものですが、決してそうではない。

自分と同じような思いをしている人が、世の中には必ずいるのです。


そこで、自分と他人の苦しみを比較してどうこう考えるよりも、

まずは自分の苦しむ問題をしっかりと見ていく。

自分を見ることに徹することで、はからずとも幸福なときには得られなかった

人生の別次元の喜びや価値に出逢うことになる。本当の意味で人を思いやることも出来るようになる。

苦難が、人間を大きく成長させるための尊い縁ともなるのです。


苦しみや悲しみというのは、その時は一生続くような気がするものですが、絶対続きません。

天気を見ても明らかなように、すべて移り変わっていくのです。

人間の本当の幸せとは、人生で出逢う苦難を、自らの心が乗り越えた先にあるのです。

苦難の時にこそ、尊い縁を頂いたと思い、

その苦難の中にある神様のプレゼントをしっかりと受け取らせて頂きましょう。

罰を当てない神様

『神様は叱ってはくださっても、罰はお当てなさらない。』

悪いことをすれば天罰が下ると言いますが、

悪いことをした人間に罰を当てよう、罪を償わせようとするのは人間であります。


神様は人間の親であります。自分のことなど忘れ、

助けずには居られないのが親心というものですが、

同じ親でも、神様は人間の親よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもないのです。

どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。

よしお前がどんなに悪い者であろうとも、どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。

悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、なお助けずには居られない。

信心とは、神様が自分を愛し、許して下さる親であることを知ること。

神様がいつも自分に寄り添って、この人生を共に生きて下さっていることに気付くことなのです。


そして、そのような罰をお当てにならない神様から、

私たちは「許す心」を学び、頂くことが大切なのです。

人間というのは、どこまでも許されないと助からない。

少しでも責められることがあっては助からない。そういう生き物であります。

小さい子供が育って行くのは親が許してくれるからであり、

私たちもそれでここまで育って来たのです。

仮に子供が何か失敗をしたとしても、その失敗には何か訳があるのだろうと、

親は子供の立場に立って解釈してくれる。その優しさが子供を育てる、落ち着かせるのです。

しかし、そのような許す心を他人に対して持つのは、何と難しいことでしょう…。

他人を責め、押しのけ、恨み、憎む。そんな我が子の姿など、親は見たいなどと思わないでしょう。

相手を許し、助けようとする。そんな大人に育ってもらいたい。

だからこそ、神様はその見本として、決して人を責めず、罰をお当てにならないのです。

やった者にしか分からない

「真にありがたしと思う心、

 すぐにみかげのはじめなり」


修行が大事などと言いますと、

「そんなことやって何か意味があるのか」などと言い出せばきりがないものですが、

そこで我が身、我が心を通して実際に修行をしてみると、

日々繰り返し続けるその中に、必ず見えてくるものがあります。


古人の言葉にあるように『それはやった者にしか分からない』ものなのですね。

これは自分にとって大変なことだとか、苦しい修行をすること自体に価値があるわけではなく、

神様に「させて頂きます」とお願いをし、自ら進んで自らに課した修行をしたときの、

その時の自分の心を見ていくことに大変価値があるのです。


例えば、このお道には御祈念修行というものがありますが、

これは只ひたすら、朝から晩まで御祈念を唱え続けるというもの。

1時間もすれば喉が渇いて声がかすれてきますし、2、3時間で意識が朦朧としてくる。

実際にさせて頂きますと、なかなかの苦行であります。


そうしますと、最後あたりは自分が唱えているのか神様が唱えて下さっているのか、

よく分からない状態になってくる。

自分の力で修行をしている、というような気持ちが無くなり、

最後までやり遂げさせて頂けるところに感謝の念が生まれてくる。

そういう経験を毎日させて頂けば、理屈は抜きにして、

「神様、有り難し」というものが心と体に染み入ってくるのです。


そして、有り難い心が自分の中に生まれますと、

人を責めたり、愚痴・不足を言ったりといったやましい心は一切無くなって、

曇った心も明るくなり、自分の方から周囲に対して

有り難い心を現していきたいという気持ちが起こってまいります。


みかげというと、自分の周囲が自分にとって都合良く動いた時によく言われたりするものですが、

周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。

それこそが、真の助かりなのです。
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