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許しの道

お道の教えにこのようにあります。
『神様は人間の親様である。…信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、おかげを受けていくのである』

悪いことをすれば天罰が下ると言いますが、
悪いことをした人間に罰を当てよう、罪を償わせようとするのは人間です。

神様は人間の親であります。自分のことなど忘れ、我が子を助けずには居られないのが親心というものですが、
同じ親でも、神様は人間の親よりも遥かに気が長く、心が広い。
責めるところが一切無い為に、ものを言われることもないのです。

どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。
よしお前がどんなに悪い者であろうとも、どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。
悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、なお助けずには居られない。
信心とは、神様が自分を愛し、許して下さる親であることを知ること。
神様がいつも自分に寄り添って、この人生を共に生きて下さっていることに気付くことなのです。

そして、そのような親神様から、私たちは「許す心」を学び、
わが心に頂いていくことが、助かっていく道筋なのです。

人間というのは、どこまでも許されないと助からない。
責められることがあっては助からない。そういう生き物です。
人が助かる道。それは、他の人間が自分のことを本当に愛してくれている、
どんなことがあっても最後は自分のことを許してくれると信じ切れるところにこそあるのです。

神様は私たち一人ひとりを、その長所・欠点を、そのままに愛して下さる。
喧嘩をする者たちがいても、その両方を包み込んで、一人ひとりをそのままに許して下さる。
その許す心を学び、ともに実践させて頂きましょう。
人の長所を愛し、欠点をそのままに許すことが出来るようになったとき、本当の幸せに出逢える。
自分も他人も有り難い存在であることに気付かせて頂けるのです。

感謝の気持ちで過ごさせて頂く

悪性腫瘍のため右足を切断し、三十二歳の若さで亡くなられた医師、井村和清さんの「あたりまえ」という詩をご存じでしょうか。

あたりまえ こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれ
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます 
食事がたべられる 
夜になるとちゃんと眠れ、 そして又朝が来る
空気をむねいっぱいにすえる 笑える、泣ける、叫ぶこともできる、走りまわれる
みんなあたりまえのこと こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは
それを失くした人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ


「感謝」という言葉の反対語は「当たり前」である、と言われます。
一日一日、日は経つ。夜が明けて日が暮れる。毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、
決して同じではない。当たり前ではない。
何事も慣れてきますと、その一番大切な「当たり前ではない」という思いが抜け落ちる。
一日一日、その時その時が有り難いのだという思いが抜け落ちるのです。それでは台無しであります。

一番大切なことは、一日一日、その瞬間その瞬間を感謝の気持ちで過ごさせて頂く。これに尽きます。
朝起きたならば、昨日まで言ったことのない、よい「おはよう」が言えるような私にならせて頂く。 
毎日の仕事や交際の上に感謝が抜け落ちぬよう、また感謝を現せる自分にならせて頂けるようにと手を掌わせる。
それが、信心させていただくうえで一番大切なことではないでしょうか。

生きていてよかった

『100歳の詩人』として人々に愛された、
柴田トヨさんの詩に、『くじけないで』という作品があります。

ねえ 不幸だなんて 溜息をつかないで
陽射しやそよ風は えこひいきしない
夢は 平等に見られるのよ
私 辛いことが あったけれど
生きていてよかった
あなたもくじけずに

肉体的なことであれ、精神的なことであれ、私たちが大きな苦難に直面したときには、
それをどのように受け止めるかということが大切になってきます。
これまで当たり前にできてきたことや、自分の夢や目標がその苦難のために失われることになったとき、
愚痴や弱音を吐きたくなるのは当然のことです。
そうした苦難は人にとって不運なことには違いない。 
しかし、不運と不幸とは同じものではありません。
不運というものは、受け止め方によって幸にも不幸にも成り得るのです。

苦難に逢わない人間などいません。色々あるのが人生であります。
しかし、他人の苦しみは自分には分からないものですから、
「どうして自分だけが不幸になるんだ、理不尽な目に遭うんだ」と思うものですが、決してそうではない。
自分と同じような思いをしている人が、世の中には必ずいるのです。

そこで、自分と他人の苦しみを比較してどうこう考えるよりも、まずは自分の苦しむ問題をしっかりと見ていく。
自分を見ることに徹することで、はからずとも幸福なときには得られなかった
人生の別次元の喜びや価値に出逢うことになる。
本当の意味で人を思いやることも出来るようになる。
苦難が、人間を大きく成長させるための尊い縁ともなるのです。

苦しみや悲しみというのは、その時は一生続くような気がするものですが、絶対続きません。
天気を見ても明らかなように、すべて移り変わっていくのです。
人間の本当の幸せとは、人生で出逢う苦難を、自らの心が乗り越えた先にあるのです。
苦難の時にこそ、尊い縁を頂いたと思い、
その苦難の中にある神様のプレゼントをしっかりと受け取らせて頂きましょう。

どこへも行かぬ ここに居る

愛する人が亡くなることは、生きている者の心情としてはこれ程つらいことはなく、これ程淋しいことはありません。
一体、何がこれほどつらく、淋しい想いを引き起こすのかと言えば、それは『もう二度と会えない』と思うところにあります。
もう二度と会えないのならば、いっそのこと自分も死んだ方がましだとさえ思われるのです。

一休禅師は亡くなる間際、このように遺しました。
死にはせね どこへも行かぬ ここに居る
たずねはするな ものはいわぬぞ


死んだからといって、どこへ行くわけでもない。ほら、ちゃんとここに居るではないか。
目には見えなくとも、声は聞こえなくとも、共にこの時を生きており、ここ(お前と一緒)にいるのだ、と。

本当に会うということは、相手が見えるかどうか、相手と話すことが出来るかどうかではありません。
この世に生きて居りさえすれば必ず会えるのかと言えばそうでもありません。
同じ家に毎日一緒に暮らしている家族であっても、顔を見るのも嫌だと言い合っているようでは、
本当に会っているとは言えないでしょう。本当に会うということは、「ひとつになる」ということです。

霊祭をするのでも、その祭りによって本当に御霊様と一つになるということでなければ、お祭りになりません。
喧嘩をしたり、不平不足を言っていてはお祭りにならず、弔いにもならない。ましてや会えるはずがない。
亡くなられた方とでも本当に会える道がある。一緒に暮らせる道がある。それが信心なのです。
一心に信心させて頂けば、今まで死んでいた者が、皆そこに生き返ることになるのです。

仕事をしているときも、台所に立っているときも、いつもそこに一緒にいる。
寝入るときには傍で優しく見守り、困った時には相談にも乗ってくれ、助けてもくれる。
御霊様に命を吹き込み、それだけのお働きをしてもらうには、
まずは自分自身が精一杯、前向きに本気の毎日を送らせて頂くこと。
それはすなわち、毎日霊祭を行っていることになり、御霊様とも一つとなった生活が送れるのです。

「死ぬ」ということ

お道の教えに、このようにあります。
『死ぬということは、もみを臼(うす)でひいた時、殻と実とが分かれるようなものであり、
 時が来れば魂と体とが分かれるのである。』


人は誰でも例外無く必ず死ぬ。これほど確実なことはありません。
しかし、いつその時が訪れるのか、その長き短きは知る由もない。
ただ言えることは、人が死ぬということは、
その人として一度は必ず出逢わなければならないことに出逢われたということであります。

『殻と実とが分かれるように、時が来れば魂と体とが分かれる』というのは、
死は人生の最後に来るのではなく、最初から時々刻々、
常に生と離れずに付きまとっているということです。

私たちは日々生きていると思っており、それは確かなことでしょうが、
実は今日一日生きたということは、今日一日死んだということに他なりません。
生命は一刻一刻死んでいるのであって、それがすなわち生きているということなのです。
ですから、死の問題というものが生きることと別にあるわけではなく、
実はそれは生の問題であって、本当によい生き方が出来れば、それが同時によい死に方にもなっているのです。

世間でよく、亡くなった人が「浮かんでいない」というのは、その者が死に切れておらず、
また生き切れてもいないためにその場にとどまっているのであり、
死ぬのも生きるのも同じことですから、本当に生きれば、本当に死ねるということになる。

そこで、生きている私たちが亡くなられた人とひとつとなり、共に生きていこうと願うなら、
自分自身が本当に生き切ればよいのです。
日頃から不平不足を言っていては弔いにもならない。御霊様と共に生きていけるはずがありません。

真のご供養とは、自分自身の心の成長を、日々の生き方を通して御霊様にご覧にいれること。
それでこそ、お供えする一輪の花にも、その価値が出てくるのです。

前向きに日々の生活を送る。
そのとき人は本当に生きたと言えるのであり、亡くなられた方に対しては本当の弔いともなるのです。
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