このような格言があります。
「おだてられれば、あなたを信じない。
批判されれば、あなたを嫌いになる。
無視されれば、あなたを許さない
勇気づけられれば、あなたのことを忘れない。」
激励すれば人がついてくる。逆に賞賛や激励がなければ人はついてこない。
これって当たり前なことなのですが、ついつい忘れてしまうのですよね。
人は褒められたくて生きている、ということを。
褒められ、自己重要感が満たされることこそ、人が求めてやまないものなのです。
ブランドの服を着たり、人より少しでも高いステータスを求めたりするのも、自己重要感を満たしたいということに尽きます。
仕事をしている時だって同じです。
オフィスの掃除をしている人が「いつも綺麗にしてくれて本当にありがとうございます」「気分よく仕事ができます」と言われると、
その人の自己重要感が満たされるのです。他のどんな仕事だって、根本は同じ。
誰もが心の奥底では、他人に認められ、褒められたい。自己重要感を求めて生きているのです。
『生神とは、ここに神が生まれることである』
神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、
そうではなく、人間の中に現れる神様、生きた神様なのです。
大切なことは、相手の中の神様を信じること。その神様が現れ出る手助けをすることです。
傷つけられたとき、あなたはやる気がでますか?
出るのはせいぜい「あいつ、いつか覚えていろよ」という恨みだけですよね。
欠点をいくら言われても、自信を無くして傷つくだけ。
それが褒められると、能力以上の力を発揮するのです。
褒めることで、その人の自己重要感が満たされ、自信が生まれる。
その人の一番よいもの、よい働きが現れ出るように祈りながら、褒めてあげましょう。
よく「一寸先は闇」と言いますが、同時に「一寸先は光」でもある。光と闇とは紙一重ですから。
天気を見ても明らかなように、すべて移り変わっていきます。苦しい運命も、やがては必ず好転していくのです。
ところが、すぐそこまで光が来ていることに気づかず、ずっと不幸が続くと思う人は、自ら闇を引き込んで自分から離れないようにしてしまっているようなものです。
「喜べば喜びごとが喜んで、喜び連れて喜びに来る」
発句である「喜べば」というところが特に肝心です。
まず自分が喜ぶ、言い換えれば「感謝する心」が先にあって、
それによって喜びごとが喜び、お仲間さん達を引き連れて、自分のもとへやって来るというわけです。
私たちの「感謝」というのは、結果が良い時に感謝するのであって、結果が悪ければ感謝しない、というのが通例です。
しかし本当は感謝することが先にある。
「感謝する心」が先にあって、結果として感謝したくなるような出来事が起きてくるのです。
この順番は大切ですね。出来事の前に自分の心があるのです。
ですから、まず自分が感謝すること。感謝する稽古をさせていただくことが大切なのです。
現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。
過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。
「すべて恵まれてのことなのだから」と、神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。
そうすれば、どのような境遇に置かれても、人は幸せになれます。
幸せとは、今この瞬間、周囲の人や出来事に対して感謝できている心の状態を言います。
境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。
有難く受け取ったその第一歩が、運命を大きく好転させていく。幸せな人生へと通じているのです。
大嫌いな仕事をしなければならない、というのは一種の拷問のようなものです。
仕事が嫌だと思うと、朝起きすることがつらくなり、なんとか一日を乗り切るだけで精一杯になる。
そうなると、仕事に喜びを見出すどころか、仕事を忘れようとして、
今度の休暇は何をして過ごそうとか、給料が出たら何に使おうか、といったことばかり考えてしまうことになる。
仕事を自分の生きていく為の単なる手段として考え、そのためにしなければならない、
しょうことなしの重荷であると考えているならば、いつまで経ってもそのような仕事の仕方しか出来ず、
そのような仕事しか与えられないことになるでしょう。
実は、「仕事」自体も生き物でありまして、
心も持っていて、いつもより良いご主人様を探しているのです。
ですから、仕事をそのように嫌々ながらにしておりますと、
仕事のほうでも、「そんなに嫌がられるのなら、もう貴方にはしてもらいません」と言って、
やがては逃げてしまって、仕事自体をさせてくれなくなるのが道理なのですね。
仕事をすること自体を目的として、何のためというわけでもなく、
自分がどうなるかなどということは忘れて、ただ仕事をすることを有り難く、
喜んでしていると、仕事のほうも喜んでくれて、やがては貴方に終始付きまとってくれるようになるのです。
そして、いざという時には仕事が貴方を助けてくれ、守ってもくれるようになります。
信心の行というのは、火の中をくぐったり、滝に打たれたりするものではなく、
会社での勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行があるのです。
「働くことそのものが楽しみでありますように」と祈り、仕事を愛せる自分にならせていただきましょう。
貴方が仕事を愛することが出来れば、周囲にいる人々のためにもなるのです。
貴方は仕事を楽しんでいるから幸せな気分でいられますし、
一緒にいても楽しい存在となる。
また、貴方が提供するものを手に入れる人たちは、
愛情のこもった製品やサービスを得ることが出来るのです。
相田みつをさんの「負ける練習」という詩の中に、このようにあります。
柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習
人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習
人の前で負ける練習です。
つまり、人の前で失敗をしたり恥をさらす練習です。
自分のカッコの悪さを多くの人の前で
ぶざまにさらけ出す練習 それが受身です。
柔道の基本ではカッコよく勝つことを教えない
素直にころぶことを教える
いさぎよく負けることを教える
長い人生には カッコよく勝つことよりも
ぶざまに負けたり だらしなく恥をさらすことの
ほうが はるかに多いからです。
そして負け方や受身のほんとうに身についた人間が
世の中の悲しみや苦しみに耐えて
ひと(他人)の胸の痛みを 心の底から理解できる
やさしい暖かい人間になれるんです。
そういう悲しみに耐えた暖かいこころの人間のことを観音さま、仏さま、と呼ぶんです。
さて、「負ける」というと、少し消極的なように聞こえるかも知れませんが、
「負かされる」ことと、「負ける」ことでは、全く次元が違います。
「負かされる」というのは、相手に勝とうと思って力が及ばずに負けることですが、
「負ける」というのは相手に勝とうと思わないで、自分の方から相手の意に歩み寄ろうとすることですから、
そこに真心がなくては出来ません。少しでも対抗的な気持ちがあっては本当に「負ける」ことなど出来はしません。
相手が腹立ちや憎しみを持って来たとき、こちらにそのような真心がない時には、腹立ちや憎しみの心が起こる。
しかし、こちらに真心があれば、相手が仕向けた腹立ちや憎しみを心の内で解かしてしまうことが出来るようになる。
負ける練習を通して、ほんとうの真心を身につけさせて頂きましょう。
蟻の集団の働きぶりを細かく観察すると、
よく働く蟻が2割、普通に働く蟻が6割、働かない蟻が2割
という分布になるのだそうです。
それでは、よく働く蟻だけを一カ所に集めたらどうなるかと言うと、
なぜかまた働かない蟻がでてきて、自然と元の通り、
よく働く蟻が2割、普通に働く蟻が6割、働かない蟻が2割
になるのです。
それでは、働かない蟻だけ集めるとどうなるか。
これもやはり結果は同じで、2割、6割、2割の分担で、仕事をするようになります。
さて、もう一つ気になることがあります。
それは、働かない蟻たちは一体何をしているのでしょうか。何の役にも立たないのでしょうか。
このことについて、興味深い研究結果があります。
それは、蟻は巣と餌との間に定期ルートを作って行動する習性があるですが、
その際、働かない蟻たちの何匹かが必ずルートから外れるのだそうです。
実はそのルートを外れた蟻たちによって、新しい餌を発見する確率が高まり、
集団としての生存確率が高まるのだそうです。
それぞれに違いがあり、働く者もいれば働かない者もいる。
だからこそ、役割分担ができて、変化にも適用出来る。集団として成り立つわけです。
これは人間の組織にも言えることでしょう。
「よく働く蟻」の役割を担う人々というのは、『自分だけこんなに働いて…』と、
ついつい周囲を批判しがちなものです。しかしそれは本来、感謝すべきことなのです。
「よく働く蟻」以外の役割を陰で果たしてくれている人々のお陰で、
自身がスポットライトを浴びて、人一倍の経験を積むことが出来ているのですから。
何かが好転したり、うまくいっている時には、誰か多くの人に支えられていると考え、感謝しましょう。
反対に、不都合や不幸に見舞われたときには、誰か多くの人々を支える番が巡ってきたのだと考えて、
静かに誇りながら、気力と体力を蓄えましょう。
誰もが多くの人に支えられ、自分も誰かを支えながら生きています。
すべての役割に感謝をしていくことで、もちつもたれつの、「お陰様」の本当の姿が見えてくるのです。