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理想の教師

『五穀は実が熟すほど頭を下げる。

 氏子は天地の神のありがたいことを知ったら、

 人に教えるにもかがんで教えてやるがよい。』


戦前の政界に大きな影響を与えた、頭山満(とうやまみつる)は、

その人物の大きさから「東洋的巨人」とも呼ばれ、彼を師と仰ぐ著名人は数知れず、

天風会の創始者で、数多くの指導者を育てた中村天風(なかむらてんぷう)もその一人です。


天風は師匠である頭山の力を借り、銀行頭取などを歴任し、実業界で大変活躍するのですが、

ある時、一切の社会的身分、財産を処分し、人を救い助ける道に生きる決心をしました。


頭山もこれには驚きましたが、お前が望むならばと快諾し、

それから天風は上野公園の片隅で毎日、道行く人々に人生について説き始めたのです。


しかし世間もなかなか認めてくれません。

来る日も来る日も、同じ場所に立って話をするのですが、誰も足を止めて聞いてくれません。

たまたま聞いてくれる人がいても、目を合わせると怖がってすぐに逃げてしまいます。

そのため、天風もなるべく人と目を合わさないようにして話をするようにしました。


ある日のこと、その日も同じように教えを説いていると、

珍しく数人の人が話を聞いてくれていました。しかしそこに雨が降り出したのです。

天風は構わず、雨に濡れながらも話を続けるのですが、雨はさらに激しくなり、

聞いてくれていた人たちも立ち去ってしまいました。

しかし、まだ一人だけ残って聞いてくれている人がいます。

目を合わせたら逃げられるかも知れないので、そちらを見ないようにして話を続けます。

しかしこのような大雨の中、よほど熱心な方だと思い、そっと目を向けてみました。


「頭山先生!」

なんと、そこにいたのは師匠である頭山だったのです。

頭山は優しく微笑み、「うん、うん、今日からわしがお主の弟子になろう」と言ったそうです。

天風は涙を流し、喜んだという話です。


教師と言うと、何かを教えたり、言い聞かせたりする人だと考えがちなのですが、実はそうではない。

相手と同じところまでかがんで降りて、実際にやって見せる人のことを、理想の教師と言うのです。

「させていただく」という心

『仕事をするというから神は見ている。

 仕事をさせていただくという心になれば、

 神はつきまとってさせてやる』


人間の性(さが)とは悲しいもので、金を持たない者が多少の金を持つようになると、

金を持たぬ者を見下す心持ちになる。

大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。

役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。

人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、醜い相として現れるのですね。


かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、

「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。

 それは、おそれるものがなかったからだ」

と部下に教えたそうであります。

実業会において、怖いものがないほど登りつめられた松下幸之助が

教えた「おそれ」とは、ただ何かを怖がるというような意味ではなく、

神仏を畏れ敬い、人間の欲望を畏れ慎むという意味が込められていたのではないかと思うのです。


いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。


気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さが怖い。

また、そのような傲慢を許さない、この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。


幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。

もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、

人のお役に立たせて頂いているのであります。

ですから、何事も「させて頂く」ことである、ということを決して忘れてはなりません。


何事にも道があるように、仕事にも道がある。

仕事の道とは、仕事を神様から差し向けられたものとして、有り難く勤めさせていただくこと。

有り難く勤めさせていただくところに、有り難いおかげが受けられるのです。

仕事と幸せ

『日本でいちばん大切にしたい会社』で知られる、

知的障がい者雇用割合7割を超える、チョーク製造会社の日本理化学工業。


同社の会長であり、知的障害者雇用を始められた大山さんは、

もともとは知的障害者に理解がある方ではなかったそうですが、

あるご住職からの教えが、その後の人生を決定づけたそうです。


ある方の法要で禅寺を訪れた際のこと。

ご祈祷がすみ、食事の席でたまたま隣の座布団にご住職が座られました。

何か話しかけねばと思った大山さんの口をついて出たのは、こんな質問でした。


『うちの工場には知的障がいを持つ二人の少女が働いています。

 施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?』


これは、大山さんがずっと考えていた疑問でした。

するとご住職はこのように答えられました。


『人間の幸せは、ものやお金ではありません。

人間の究極の幸せは四つです。

人から愛されること、褒められること、役に立つこと。そして、必要とされること。

愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。

障がいをもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです。』



大山さんは思わず言葉を失ったといいます。

働くことが当たり前である健常者は、この幸せを意識することはない。

しかし、意識していなくとも、その幸せは心をずっと満たしてくれているのです。


そして、工場で働くふたりの少女が、

どんなにつらくても、しんどくても、必死になって働く理由がこの時はじめて分かったのです。



中世ヨーロッパでは、仕事のことを「コーリング」と呼びました。

コーリングとは、召命(しょうめい)、神様に呼び出されることです。

つまり仕事とはその内容を問わず、自らの使命を果たすようにと

神様から呼ばれ、与えられた「天職」なのですね。


「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みますが、

一体誰に仕えるのかと言えば、神様につかえるのです。

神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、人は幸せを得るのです。

身をもって祈る

上野公園の西郷隆盛像の作者として有名な高村光雲は、もともと大工の息子であったそうです。

それがある日、浅草の観音様にお参りしたとき、

たくさんの参拝者の姿を見て、

「同じ鑿(のみ)を持つのなら人様から合掌して拝まれる仏像を彫る仏師(ぶっし)になりたい」

と思い立ち、高村東雲に弟子入りを志願します。


光雲の入門を決めるその日、東雲は光雲に対し、

「そこの井戸の水を汲んでみろ」と命じました。

言われた通り、つるべで汲んだ水を手桶に移しているのを見ていた東雲は突然

「さっさと帰れ!」と怒鳴りました。

叱られた訳も分からず、ただただ驚いていた光雲を見て、東雲は静かに語りかけました。


「弟子入りしたいとやって来たときの挨拶をもう一度ここでやってごらん」

「人様から拝まれる仏像を作る仏師になりとうございます。弟子入りをどうぞお許し下さい」

「その願いに嘘はないか」

「はい、ありません」


「では言おう。人様から拝まれる仏像を作るのなら、

 すべてのものを拝んでいく心を掴まないと仏像は彫れないぞ。

 それなのになんだ、あの水の汲みざまは。

 こぼれてもこぼれても平気でザアザアと移していたではないか。

 水を粗末にするような心で、人から拝まれるような仏像が作れると思うのか」


光雲はこの時の師の言葉を生涯忘れませんでした。


「身をもって祈る」という言葉がある通り、

日々の生活の営み自体が祈りにならなくては、本当に神様を拝んでいることにはなりません。

朝、目が覚めたら布団にお礼を申し、洋服に「お世話になります」とお願いする。

食事を頂くときには、食材と、その加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、

食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂くのです。

もちろん布団も洋服も食器も返事はしません。

しかし、物を通して神様にお礼を申すのです。

そういう生き方を進めていくところに、有難いおかげ(御利益)が生まれていくのです。
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