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表行よりも心行をせよ

『人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、

 仕事に勤め、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、

 だれにも言わずに行えば、これ心行なり』


明治中期の頃、ある方が金光教祖のもとに参られ、このような相談をされました。

「徳を積ませて頂くためにしばらくの間、

 山に籠もって修行させて頂こうと思うのですが、いかがなものでしょうか」

すると金光教祖は、このように御取次されました。

「それは結構ですね。しかし、何もわざわざ不自由な山に籠もらずとも、

 心の中に山をこしらえて、その中で修行をされたらどうでしょうか。

 自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、

 また奥さんの作った料理がたとえ不味かったとしても、決して不足を言うことはないでしょう」


さて、修行と言いますと、形を正すことによって心を正す表行(わぎょう)と、

まず心を正して形にまで及ぼす心行(しんぎょう)との大きく二つに分かれます。

そして大抵の者は表行をしたがる。これは私自身もそうでありましたからよく分かります。

元来人間の心というのは大変変わりやすいものですから、心をただ心だけで維持しようとするのは大変難しい。

そこで、生活の中に見える形として現し、そこで維持していくようにすると、

自分の信心があたかも進んだような気分になります。寒中に冷水を浴びたり、断食したりすることがこれに当たります。

しかし、そうした表行をして、どれだけ我が身を苦しめてみても、

残念ながらその効果とは意外と小さく、短いものであります。

山の仙人にはなれても、里で仙人になることは今も昔も大変難しいのですね。

そこで金光教祖は、「表行よりも心行をせよ」と教えておられるのです。

心行とは身に起こる一切の問題、不自由を「行」と受け切るところにあります。

しかし、受け切ると言っても、それがただのやせ我慢、忍耐であっては、それも表行となってしまいます。

真の心行とは、そこに山をこしらえて、一歩進んで嬉しい心で受け切る器を養うところにあるのです。

仕え合う

『神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。

日々勤める仕事は信心の行であるから、仕事をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる』


中国・唐の時代に百丈(ひゃくじょう)という禅の高僧がおられました。

その教えで特筆すべきは、出家者にとって一番重要な修行を「労働」としたところにあります。

禅が頭の中で考えるだけのものにならないようにと、毎日の修行として、坐禅だけではなく労働を課したのです。

今でこそ、そのような労働は「作務(さむ)」として一般的ですが、

当時はそれまでの戒律に真っ向から相対するものでしたから、まさに命懸けです。

しかし、百丈はこの労働を自ら実践し続けました。

百丈にとってこの日々の労働とは、食べるための手段ではなく仏の務めを作(な)すものでした。

そのため八十歳を過ぎてもやめようとしません。

やがて弟子たちは師匠の体を案じて「お休みになったらどうですか」と勧めましたが

一向に辞めようとしない。そこで弟子たちは苦肉の策として、百丈の仕事道具であった農具を隠してしまったのです。

道具を隠されて働くことができない百丈は、その日は部屋に戻りました。

弟子たちは「やれやれ、これでよかった」と安心していましたら、今度は食事をしないと言い出すのです。

そして、驚き戸惑う弟子たちに向かい、

「一日作さざれば一日食らわず」と。

一日仏のすべき務めができなけば、

私は食べろと言われても頂戴できないのだ、と諭したのです。

ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではないのです。 

会社でのお勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行がある。

日本では昔から、「幸せ」という字を、仕え合う(「仕合せ」)と書きました。

神仏に仕え、人に仕えようとする心を抜きにしては、

自分の幸せなど有り得ないということを教えているのです。

人の本質

『人が人を助けるのが人間である。
人間は、子供がころんでいるのを見て、
すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを
見て、すぐに引き上げてやることができる。
人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、
人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。』

中国・清の第五代皇帝の雍正(ようせい)は、

国と人民のために寝食を惜しんで働いたことから、中国史上最も勤勉な皇帝とも言われています。

その雍正が学問をするうえで最も大切にしたことが、「自得(じとく)」という言葉でありました。

自得とは「自己を得る」。つまり、「自らを知る」ということですが、

雍正は自得園という別邸まで建てて、自らを知ることに真剣に取り組んだそうです。

自得の大切さは、なにも東洋だけの考えではありません。

ソクラテスも「汝、自らを知れ」。

ゲーテも「人生は自分探しの旅だ」と言っています。

考えてもみますと、私たちは学ぶことにせよ、働くことにせよ、

名を成そう、人から賞賛されよう、とばかり考え躍起になるものですが、

そこに執着するあまり、自己というものを見失いがちであります。


しかし誤ってはならないことは、

人は社会的に何かを成し遂げたから偉いのではなく、

その人に与えられている生命自体が尊いのです。

自らを知るとは、その自らの生命に託された「願い」を知るということ。

何をするかという手段ではなく、人間とは何かという根本を知ることです。


『人が人を助けるのが人間である』ということは、

私たちが学ぶこと、働くこと、

活動すべての中心に「人を助ける」ということを置けば間違い無いという教えなのですね。

つまり、学ぶということは、自らを高めて人の役に立つために学ぶのであり、

働くということも、自らの身体、能力を用いて人が助かることをするために働くということになります。

自得とはこのことを悟り、実行して行くことであり、

自得した者が成す仕事とは、その職業が何であれ、自他ともに幸せをもたらす仕事となるのです。

器量

 『何事も、承服いたせば安心なり』

茶道を大成させた千利休(せんのりきゅう)の孫の

宗旦(そうたん)にこのようなエピソードがあります。


ある日、宗旦と親交のある和尚さまが、

寺の庭に咲いた「妙蓮寺」という銘のある椿の一枝を小僧に持たせて、宗旦のもとへ届けさせました。

しかし、椿の花はもろく落ちやすいものでありますから、

気をつけていたものの、途中で花を落としてしまい、

小僧は宗旦にこのことを、自分のそそうでありますと深く詫びました。


すると宗旦は、怒るどころか、この小僧を茶席に招き入れ、

銘入りの竹の花入に小僧の持ってきた花の無い椿の枝を入れ、

花入の下に落ちた花を置きました。

そして一言、「ご苦労様でした」とニッコリ笑って、小僧の労をいたわって帰したということです。


さすが茶の道を極めた方は違いますね。

花を落とした小僧を許し、落ちた椿をも「落下の風情」としてそこに美しさを見出す。

なんと器量の大きい、ユーモアと人情味にあふれた態度でしょうか。


よく、「あの人は器が大きいから、人の上に立てる」とか

「あの人は仕事は出来ても器が小さいからダメだ」という言葉を耳にしますよね。

信心が篤くなるということは、まさに心の器が大きくすることに他なりません。

自分の好き嫌いで物事を受けとめようとしないで、

起きてくることは全て神様の差し向け、そこに自分にかけられた願いを受け取ろうとするから、

自然と心が大きくなり、「それもまたよし」と思えるようになってきます。

普段、「こうでなければならない」と決めつけていることが、

どれだけ自分や人の心を縛り、自由を奪っていることやら分かりません。

しかし、そもそも「こうでなければならない」ことなんて、実は何一つ無いはずなのです。

「それもまたよし」と承服する心を身に付けましょう。

そうした心の余裕は、必ずわが身に徳を授け、人間の器を大きいものにしてくれるのですから。

負けて時節に任す

 『打ち向かう者には負けて、時節に任せよ』

広田弘毅(ひろた こうき)は、

内閣総理大臣を務めた近代のすぐれた政治家として有名な人物です。

彼は若い時から優秀な外交官として認められ、昇進も早かったのですが、

四十八歳のとき、当時の外務大臣によって、外務省欧米局長の要職からオランダ公使の閑職に左遷されます。


左遷の知らせを聞いた友人たちは驚き、

彼を慰めたり、励ましたりしましたが、当の本人である彼自身はきわめて平然としており、

逆に友人たちの激情をなだめ、気さくに俳句を吟じます。

「風車(かざぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな」 

風車は風が吹かないと回らないものですが、彼は自分の境遇をそんな風車になぞらえて、

機会という風が吹くまで、昼寝でもするかのごとくゆっくり待とうじゃないかと言ったのです。


彼の凄さは、政治的手腕もさることながら、このような逆境に対する心の持ち方にあったと言えるでしょう。

そうして、オランダ公使4年の間に力を蓄え、やがて外務大臣、内閣総理大臣へと出世していくこととなるのです。

さて、何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、

どうにも出来ない時には何もしないで機が熟するのを待つ、風が吹くまで待つことが、一つの大切な仕事ともなります。


そこで時節に任せるとは、ただ時間が経つのを待てばよいというわけではありません。

人と争ってでも自分を保とうとする、自分勝手な考えや仕方をやめてしまって、

昼寝でもするかのごとく、成り行きに任せることが大事なのです。

すべての物事には、やがては調和へと向かう働きが自然に備わっています。

時節に任せるとは、その調和に向かう働きを自ら乱さないことであって、

自分の体力や思考力を充実させるために恵まれた時間として、有り難く休ませて頂けばよいのです。

またそのような心の余裕が、逆境を強みに変える手助けとなるのです。
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