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原因と共に結果も生まれている

『真にありがたしと思う心、
 すぐにみかげ(恩恵)のはじめなり』

無刀流を開いた剣術の達人であり、

熱心な禅修行者でもあった山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)にこのようなエピソードがあります。 

鉄舟が道場でいつものように道場で禅の教えを説いていると、

そのことを苦々しく思っていた若い一人の門弟が得意気に声を上げた。

「先生、今朝、私は家からこの道場へ通う途中で神社の鳥居に小便をかけましたが、

 この通り何の罰も受けておりません。神仏など迷信です。」

それに対し鉄舟は、間髪を入れず、

「この罰当たりめが!」

大声で叱りつけた。その門弟はびっくりしたものの、

「先生、どこに罰が当たっているのですか?」

となおも逆らいます。すると、鉄舟は静かに答えました。

「分からないのなら教えてやろう。いいか、神社やお寺の前を通るとき、きちんと礼拝できるのが、

 人間の教養というものだ。鳥居に放尿するなど、犬猫のする行為だ。

 お前は一人前の人間であり、しかも武士ではないか。

 武士たるものが、人間のすることさえできず、犬猫の仕業しかできないのが、

 どうして罰が当っていないと言えようか」

さて、原因と結果と言いますと、善い行いをすれば将来善い結果が生まれ、

悪い行いをすれば将来悪い結果が生まれるというのが通例ですが、

本当は、原因を作った時に結果も共に生まれているのです。

「ありがたいと思う心」があるから将来助かるというのではなく、

「ありがたいと思う心」になれた、それがそのまま最善最高の生活で、そこから後はそれが続いていきさえすればよいのですね。

「ありがたいと思う心」で神仏に手を合わせることができる。人に優しく接し、物を大切に扱うことが出来る。

「ありがたいと思う心」で善い行いができることそれ自体が、

喜ぶべき結果であることを忘れてはなりません。

人を叱る前に

『子の頭を叩くより、
 親である自分の頭を叩けば、すぐおかげになる』

嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれると言いますが、

この閻魔様がどういう神様なのかは、あまり知られておりません。

閻魔様というのは大昔のインドの宗教の神様ですが、

神話によると、人類の死者の第一号が閻魔様であり、後に、

死者の生前の行為を記録によって賞罰を司る神様となったのだそうです。

閻魔様はたいへん恐ろしい顔をされておられますが、実はやさしい地蔵菩薩の化身であり、

心の中では「もうこんな罪悪を犯して、こんな所に来るのではないぞ」と叫びながら、

再び罪悪を作らせないように恐ろしい顔で叱咤しているのです。

そして人を裁く前には必ず、火で真っ赤に熱した鉄丸を飲んで死んで、

生き返って罪人の前に立たれているのです。

熱した鉄丸を飲んで死にきるとは、自らの執着心を捨て切った上で人を裁くという厳しい誓いの表れであります。


生身の私たちが熱した鉄丸を呑むなどとても出来はしませんが、

人を裁くということはそれだけの覚悟が必要であるのだということを、よくよく考えなければなりません。

家庭でも会社でも、自分が上の立場に立ってみると、ついつい頭ごなしに叱りつけたり、

偉そうに言ってしまいがちなのですが、偉そうに言う割には自分も出来ていなかったりすることがあるので、

相手にも本当に正しいことが伝わらないのです。

相手を叱る前にまず自分を見よ、というのが教えの要諦であります。

まず自分自身を省みて、自分自身を叱った上で、相手を叱る。

自分をしっかりと見つめれば、人を叱れるほど立派な人間ではない。

そんな未熟な自分が役割の上で相手を「叱らせて頂く」のであります。

その心持ち、「とても人に偉そうに言えるような私ではありません」と本気で思えた心持ちになってはじめて、

相手の心にも響くものがある。

人を叱る前には、閻魔様が熱した鉄丸を飲まれる場面を想像してみるのがよいでしょう。

信心の稽古

『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』


茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌に、このようにあります。

 「稽古とは 一より習いて 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、再びもとの一を習う時、

習う人の心は全く変わっているものです。

端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。

このことが人の進歩につながるのであって、十を知り、もとの一に戻らぬ人は、

それ以上の進歩は望めないのですね。

では、信心の「一」とは何なのか。

それは、人によってそれぞれ違います。

このお道に入るきっかけとなった、心の底から「ありがたい」と思えた、その原体験こそが「一」なのだと思うのです。

その「ありがたい」心を忘れることが無いように、日々、感謝と反省を胸に神仏に手を掌わせる。

そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

それを毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心なのだと思うのです。

信仰上の修行というのも、もともとはそのためにある。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことなのです。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はない。

その代わりに、「ありがたい」心を持ち続けることを修行とするのです。

あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれるのです。

日々させていただく信心生活が、一日一日、一年一年、有り難いという想いが増えていっているか、そうでないか。

ここのところを、信心の標準とさせていただきましょう。

表行よりも心行をせよ

『人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、

 仕事に勤め、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、

 だれにも言わずに行えば、これ心行なり』


明治中期の頃、ある方が金光教祖のもとに参られ、このような相談をされました。

「徳を積ませて頂くためにしばらくの間、

 山に籠もって修行させて頂こうと思うのですが、いかがなものでしょうか」

すると金光教祖は、このように御取次されました。

「それは結構ですね。しかし、何もわざわざ不自由な山に籠もらずとも、

 心の中に山をこしらえて、その中で修行をされたらどうでしょうか。

 自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、

 また奥さんの作った料理がたとえ不味かったとしても、決して不足を言うことはないでしょう」


さて、修行と言いますと、形を正すことによって心を正す表行(わぎょう)と、

まず心を正して形にまで及ぼす心行(しんぎょう)との大きく二つに分かれます。

そして大抵の者は表行をしたがる。これは私自身もそうでありましたからよく分かります。

元来人間の心というのは大変変わりやすいものですから、心をただ心だけで維持しようとするのは大変難しい。

そこで、生活の中に見える形として現し、そこで維持していくようにすると、

自分の信心があたかも進んだような気分になります。寒中に冷水を浴びたり、断食したりすることがこれに当たります。

しかし、そうした表行をして、どれだけ我が身を苦しめてみても、

残念ながらその効果とは意外と小さく、短いものであります。

山の仙人にはなれても、里で仙人になることは今も昔も大変難しいのですね。

そこで金光教祖は、「表行よりも心行をせよ」と教えておられるのです。

心行とは身に起こる一切の問題、不自由を「行」と受け切るところにあります。

しかし、受け切ると言っても、それがただのやせ我慢、忍耐であっては、それも表行となってしまいます。

真の心行とは、そこに山をこしらえて、一歩進んで嬉しい心で受け切る器を養うところにあるのです。

仕え合う

『神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。

日々勤める仕事は信心の行であるから、仕事をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる』


中国・唐の時代に百丈(ひゃくじょう)という禅の高僧がおられました。

その教えで特筆すべきは、出家者にとって一番重要な修行を「労働」としたところにあります。

禅が頭の中で考えるだけのものにならないようにと、毎日の修行として、坐禅だけではなく労働を課したのです。

今でこそ、そのような労働は「作務(さむ)」として一般的ですが、

当時はそれまでの戒律に真っ向から相対するものでしたから、まさに命懸けです。

しかし、百丈はこの労働を自ら実践し続けました。

百丈にとってこの日々の労働とは、食べるための手段ではなく仏の務めを作(な)すものでした。

そのため八十歳を過ぎてもやめようとしません。

やがて弟子たちは師匠の体を案じて「お休みになったらどうですか」と勧めましたが

一向に辞めようとしない。そこで弟子たちは苦肉の策として、百丈の仕事道具であった農具を隠してしまったのです。

道具を隠されて働くことができない百丈は、その日は部屋に戻りました。

弟子たちは「やれやれ、これでよかった」と安心していましたら、今度は食事をしないと言い出すのです。

そして、驚き戸惑う弟子たちに向かい、

「一日作さざれば一日食らわず」と。

一日仏のすべき務めができなけば、

私は食べろと言われても頂戴できないのだ、と諭したのです。

ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、

特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではないのです。 

会社でのお勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行がある。

日本では昔から、「幸せ」という字を、仕え合う(「仕合せ」)と書きました。

神仏に仕え、人に仕えようとする心を抜きにしては、

自分の幸せなど有り得ないということを教えているのです。
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