『厄日に風が吹いても倒れさえせねば、吹かなかったと同じであろう。
信心していれば、どこにどのような風が吹いておろうとも、吹く風に時を嫌わして下さる。
たとえ風が当たっても、おかげの風にして下さる。
ご信心さえしていれば、厄年も無常の風も恐れることはない。厄年がかえっておかげの年になる。』
「自分には、取り立てて心配な事は何も無い」と言われる方がおられますが、
どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つ無いのですね。
健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと…。
どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何もありません。
「何も言うことが無い」というのも、言ってしまえば、今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、
一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばなりません。
「無常の風」とは、諸行無常という仏道の教えです。一切の形あるものは、常に変化していく。
風が花を散らすように、人間の命も無常が奪い取る。無常の風は時の良し悪しなど待ってはくれません。
そのように、元来、人間はわが身がわが自由になるものでないのですね。
しかし、そのような過酷な現実に対しても、「時」の流れの中に神様の計らい(ご時節)があると説いているのです。
ご時節のお繰り合わせを頂いたら、「無常の風は時をきらわぬ(時を選ばない)」と嘆くことはない。
この世がたとえ諸行無常であっても、
人間を生かし育んでくださっておられる親神様のおかげを受けて生きるという、
人間の依るべき根っこをはっきりと掴んでいれば安心なのです。
「信心する者とせぬ者とでは、親のある子とない子ほど違う」という教えも、
そのような神様のお働きを指しているのです。
「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるのですが、
まことに通じるところがあります。
赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。
声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。
母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、
それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。
それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。
なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。
人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。
聞くことなくして、話すことなど出来はしません。
耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。
それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、
この天地自然、人の心を受け取っているのです。
その受け取るということがなければ、自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。
ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、相手の心を受け取っていなければなりません。
ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、
自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、その結果、
誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。
このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。
聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのです。
愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、その時こそ相手の本音が出ているわけですから、
身を入れて本気で聞かせて頂き、その場限りで解消してしまいさえすれば、
「愚痴」と名をつけるまでもなく、それは有り難い「打ち明け話」となるのです。
聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」とはねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。
聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。祈りを込めて聞くか。ここが肝心なのです。
『これほど信心するのに、なぜこういうことが
起きてくるのだろうかと思えば、もう信心は
とまっている。
…これはどこまでも私の勤めるべき役であると
思って、信心をしていかなければならない。
そこからおかげがいただける。』
御霊地で修行させて頂いていたときのことです。
朝の御祈念に参らせて頂く道中、前を歩く先生の足元がたいへん腫れておりましたので、
「どうされましたか」と尋ねたところ、「神様に叱られました」と。
「どうされましたか」という私の質問は、足の腫れの原因が病気によるものなのか、
何か事故に遭ったのかということを尋ねているのです。
それに対して、その先生は足の腫れを信仰的に捉えて、
自分の生活態度、心掛けの問題を反省したところから、「神様に叱られました」と答えられたのです。
これにはたいへん感銘を受けました。
今日では医学知識が一般化し、足が腫れた場合にも、何故そのような腫れが生じているのか、
どのような処置をすればよいのか等ということは、大方見当がつきます。
しかし、ただ単に病気やケガを知り、手当てをするだけでは、
その病気やケガをわずらっている人間が助かることにはならない。
愚痴や不満に陥ることにとどまって、人間の助かる生き方は生まれて来ないのです。
災難についても同じことです。
起こり来る事態について、自分と神様との関係を離れて、ただ災難とだけ捉えたのでは、
人間が生きていくうえに助かる生き方は開かれてこないのですね。
病気なら病気のままに、そのことを自分の勤めるべき役として、その病気をしっかりと味わい、
そこで自分の生き方を見つけていく。
病気になったおかげで、健康なときにはわからなかった人生の別の意味がわかり、
他者の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。
自分はそのためにこそ病気になったのだ、そう思えるようになった時、
失ったものより遥かに大きなものを手にしたことになるのです。
『厄日に風が吹いても倒れさえせねば、
吹かなかったと同じであろう。信心していれば、どこにどのような風が吹いておろうとも、
吹く風に時を嫌わして下さる。
たとえ風が当たっても、おかげの風にして下さるぞ。
ご信心さえしていれば、厄年も
無常の風も恐れることはない。厄年がかえっておかげの年になる。』
「自分には、取り立てて心配な事は無い」と言われる方がおられますが、
どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つありません。
健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと…。
どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何も無いのです。
「何も言うことが無い」ということも、言ってしまえば、
今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、
一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばならない。
元来、人間は、わが身がわが自由になるものでないのです。
「無常の風」とは、諸行無常という仏道の教えです。
一切の形あるものは、常に変化していく。風が花を散らすように、人間の命も無常が奪い取る。
無常の風は時の良し悪しなど待ってはくれません。
そのような過酷な現実に対し、この道では、「時」の流れの中に神様の計らい(ご時節)があると説きます。
ご時節のお繰り合わせを頂いたら、「無常の風は時をきらわぬ」と嘆くことはない。
この世がたとえ諸行無常であっても、人間を生かし育んでくださっておられる親神様のおかげを受けて生きるという、
人間の依るべき根っこをしっかりと掴んでいれば安心なのです。
「信心する者とせぬ者とでは、親のある子とない子ほど違う」という教えも、
そのような親神様のお働きを指しておられるのだと思うのです。
『信心する者は本心の玉を磨いて信心しなければならない。
鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かなければ光がない。』
錆というのは、金属とくに鉄の表面が空気に触れて生ずる科学現象ですが、
空気のせいだけでなく、鉄自身がさびやすい性質を持っています。
さびやすい鉄でも、研いだり磨いたりを怠らないなら、
さびることなく光り続け、刃物ならよく切れるようになる。
人間の心でいう錆とは「我」というもの。
迷いやすい私たちの心も、よい教えに研いで頂くことが「我」が洗い流されて、
いつも美しい状態を保つことができるのです。
そもそも、「我」とは自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。
自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。
物事を一生懸命頑張る人ほど、このような考えに陥りやすく、
周囲からも「我が強い人だ」などと言われます。
そして、そのような「我」がある為に、相手が神であれ人であれ、
心から感謝する心にはなれず、また心から頭を下げることも出来ない。
「我」があるために、他の人と隔たりが出来、対立することが起こってくる。
またそこから様々な問題も生じてくる。
さらに「我」のタチの悪いところとは、そうした自分の「我」に、自分自身が気付かないということ。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、
かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。
それは、教えを聞いて自分自身で詫びること。
教えとは、この自分というものが、生かされて生きている我が身であった、
ということに気付かせるものです。
それが腹に落ちた時、これまでの自分を恥じて、詫びる心がでてくる。
「我」というのは、自ら気付いて、恥じ、詫びることによって、
不思議と消えてしまうものなのです。