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人生のリレー

坂村真民先生の詩にこのようにあります。


あとからくる者のために
苦労をするのだ 我慢をするのだ
田を耕し 種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分でできる何かをしておくのだ


私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、何億年と続く生命のリレーの、自らに与えられた一区間、

この人生をどのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。それに尽きるのです。


自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、

なるほど確かにそれは善いことには違いないが、こっちが損じゃありませんか、と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは教えの本当の意味が分かっていないからであります。


人に親切にするということは、自分自身が嬉しい。

進んで人のお役に立とうとすることを、自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、教えの根本なのです。


人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、自分の中から大変よいものが湧き出る。

それが嬉しさとなり、気持ち良さとなり、幸せとなるのです。


生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。

いつからでも遅くはない。そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

信心とは何か

『信心といっても別にむずかしいことはない。

親にものを言うように、朝起きたらお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、

よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。

そして、帰って来れば、無事で帰りましたとお礼を言い、

夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる』



中国・唐の末期に趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)という禅僧がおられました。

ある時、一人の雲水が「道とは何ですか?」と問うたところ、趙州和尚はあっさりと

「墻外底(しょうがいてい)」道なら垣根の外に在るわい、

と答えました。


雲水は馬鹿にされたと思って、

「私がお尋ねしているのは、その道のことじゃありません。仏教の大道を尋ねているのです」

と口をとがらして言いました。

すると趙州和尚はこう答えます。

「ああ、大道は長安に通っておる」と。

有名な公案であります。


『道』というものが何か高尚な概念だと決めつけている雲水に、

垣根の外の小道もたどっていけば都に通じているように、

生活の全て、一挙一動が人として踏み行うべき正しい道、大道に通じているのだ。

つまり、道とは実践なのだと諭したわけです。



神様がどこにいて、どのような姿で、男か女か、などというのも、さしたる問題ではありません。

道が分かる、神様が分かるということは、知識や学問として理解するというものではなく、

自分自身の生き方、信心が進んでいく中で、

自分の命、生活は自分だけのものではなく、一切の働きによって

「生かされて生きている」ということが分かるということであります。


大切なことは、一日一日、「生かされて生きている」ことに感謝をして生きていくこと。

その想いで毎日の仕事を有り難くさせていただく。

人と物を大事にさせていただく。

それが信心であり、肝心要のところはここにあるのです。

生命のバトン

坂村真民さんの詩にこのようにあります。


あとからくる者のために

苦労をするのだ 我慢をするのだ

田を耕し 種を用意しておくのだ

あとからくる者のために

しんみんよ お前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために

山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために

みんなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる

あの可愛い者たちのために

未来を受け継ぐ者たちのために

みな夫々自分でできる何かをしておくのだ


私たちの人生の長さは人それぞれ違いますが、
どんな人生も必ず途中で終わりを迎えます。

ここがゴールなどというものはありません。

私たちに出来ることは、
何億年と続く生命のリレーの、
自らに与えられた一区間、この人生を
どのように走るか、走ったかということに尽きます。

リレー走者が心掛けることは何か。

それは、バトンを手渡す者たちの為に何が出来るかということ。
それに尽きるのです。

自分から人に何かしてあげなさい、などという教えを聞くと、
なるほど確かにそれは善いことには違いないが、
こっちが損じゃありませんか、
と思うのが人の心というものです。

しかし、そう思うのは
教えの本当の意味が分かっていないからであります。

人に親切にするということは、
自分自身が嬉しい。

進んで人のお役に立とうとすることを、
自らの生命が求めている。

そのことを私たちに気付かせようにするのが、
教えの根本なのです。

人に親切にし、進んで仕事をしようとするとき、
自分の中から大変よいものが湧き出る。
それが嬉しさとなり、幸せとなるのです。

生命のバトンを繋ぐ一走者として、自分に何が出来るのか。
いつからでも遅くはない。
そこにこそ、本当の幸せがあるのです。

新たな年を迎える準備を

年末の大掃除では、たくさんの雑巾を使わせて頂く。

雑巾というのは汚い物の代名詞のように使われますが、まったく違う見方もあります。


念仏詩人と言われる榎本栄一(えのもと えいいち)さんの『ぞうきん』という詩にこのようにあります。


ぞうきんは
他のよごれを
いっしょけんめい拭いて
自分は よごれにまみれている


雑巾は他の汚れを拭い去りますが、汚れを拭うたび、自身はどんどん汚れにまみれていきます。

他の物をきれいにし、光らせるために、自分の身を汚す。


そのような見方で雑巾を見させて頂くと、

私たち人間にはとても出来ない働きをしてくれていることに気が付き、

大変尊い想いがするのです。


「願い」という言葉の語源は「ねぎらい」であるそうです。

労うとは、誰かの苦労や努力に対し、

その恩恵を受けている者が御礼を申すことであります。


正月に神社に参って、「あれが欲しい」「これが欲しい」と

自分の希望を並べるのは悪い事ではありませんが、

それは願いの本質ではありません。


雑巾のような、普段は気付きもせぬ、

取ると足らぬと思っているような物に対して、

「お世話になっております。ありがとうございます」と、感謝の気持ちを込めてお礼をさせて頂く。


物だけではありません。自分の気付かぬところで、どれだけの人の世話になっているか。

一人ひとりに会って直接御礼をすることが出来ない為に、

神様を通して御礼をさせて頂くのであります。


そのようにして自分の希望ではなく、お礼を申す気持ちを先に立てていくところに、

神様がお働き下さる。御礼が足りぬだけの分は神様が足して下さる。

ですから人は「願う」ことで助かって行くのです。


年末の大掃除を通して、自分が普段お世話になっているものに、

改めて心を向けさせて頂きましょう。

普段は気付きもしなかったが大変尊いことである、有り難いことである、

という感謝の想いに手を掌わせ、喜びの心で新たな年を迎える準備をさせて頂きましょう。
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