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「今、この時」を喜ぶ

『昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめ』

昨日を忘れるということは、過去を捨てることではありません。
過去は既成の事実ですから捨てられませんが、とらえ直すことはできます。
過去にマイナス思考で受けとめていたものを、プラスに見直させて頂くことが大切です。

私たちが生きていく上で一番大事なこと。
それは、「今、この時」を喜び、感謝して生きるということ。これに尽きます。
考えてもみて下さい。私たちが幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのは、いつでしょうか?

それは、昨日でもなく明日でもなく、今しかない。
幸せも不幸せも「今、この時」以外のどこにもないのです。
人生を創るのはまさに、「今、この時」なのです。

何故人が心配や不安に苦しめられるのかと申しますと、
それは、今この時を生きていないからと言えるでしょう。
今この時を生きずに、過去や将来の事ばかりに目を向けているからどんどん苦しくなっていくのです。

天気でも、明日は晴れるか、晴れないかといくら心配してみたところで、
実際には明日になってみないと分からないのです。
分からないことを土台にしてあれやこれやと考えることが心配・不安であるのに対し、
今この時、目の前にあるものへのお礼を土台に生活を進めていくことが信心なのです。

朝、目が覚めたら、今日も生命を頂いたことにお礼を申し、
布団にお礼申し、洋服に「お世話になります」とお願いする。
食事は食材を与えて下さった神様と食品の加工や調理に関わったすべての方々にお礼を申し、
食器に「お世話になりました」とお礼を申しながら洗わせて頂く…。
そのようにして一日を過ごさせて頂くのです。
そのようにお礼を土台とした生き方を進めていきますと、
心配が減って有難いものがだんだんと増えてくるのです。

信心する人は、反省はしても後悔はせず、「今、この時」を喜ぶと心に決めて、
嬉しく楽しく有り難く、今の一瞬一瞬を生きていくことが大切なのです。

おかげ(幸せ)は和賀心にあり

心を丸い円に喩えたとき、「幸せ」とは、その円が満月のように真ん丸な状態を言います。
「円満」という言葉があるように、満ち足りていて不足がない状態を「幸せ」と言うのですね。

それに対して「不幸せ」とは、何かしら不足があるために心の円に穴が空いていて、
半月になったり三日月になったり、人によっては、かじられ尽した林檎のようになっている。 

では、そのように心の円に穴を空けている不足の正体とは何かと言いますと、
それは「自分の期待通りにならない」という思い。これに尽きる。

不幸せな人というのは、何かしら不足を言われるものですが、
それらはすべて、自分の期待通りに人、モノ、お金が動いてくれないというものであります。 

しかし、そのような自分の不足というものを一体誰が埋めてくれると言うのでしょうか。
結局は、自分でしか埋められないのです。

幸せになろうとしながら、人を当てにしては不足を言って、幸せになれない心の在り方になってしまっている。
これが「迷い」なのですね。

そうではなく、
「人から何かしてもらおうと思わなくても、この自分自身の中に限りのないお恵みを頂いているのだ。
私の中から、どんなことでもしようという心が出てくれば、何だって出来る。無限に良いものを私は授かっているのだ!」

このことに気付かせて頂くことが信心であり、
そこに至ってはじめて、自分の不足というものが無くなる。
穴が埋まって円満となり、幸せになれます。

『おかげ(幸せ)は和賀心にあり。
和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』


「和」とは、二つのものが一緒になることですが、その「和」の精神が表された形が円です。
車輪が四角だったら、車は前進しません。丸いから前進できるのです。
人においても同じことで、心に輪を描けば、人生を生き生きと生きていけます。
人生で出逢う人・事柄を通して、角のない人間にならせていただきましょう。
和らぎ喜ぶ心、丸い円のような心にならせて頂きましょう。

感謝の反対は「あたりまえ」

悪性腫瘍のため右足を切断し、三十二歳の若さで亡くなられた医師、井村和清さんの「あたりまえ」という詩をご存じでしょうか。

あたりまえ こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれ
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます 
食事がたべられる 
夜になるとちゃんと眠れ、 そして又朝が来る
空気をむねいっぱいにすえる 笑える、泣ける、叫ぶこともできる、走りまわれる
みんなあたりまえのこと こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは
それを失くした人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ


「感謝」という言葉の反対語は「当たり前」である、と言われます。
一日一日、日は経つ。夜が明けて日が暮れる。
毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、
決して同じではない。当たり前ではない。

何事も慣れてきますと、その一番大切な「当たり前ではない」という思いが抜け落ちる。
一日一日、その時その時が有り難いのだという思いが抜け落ちるのです。
それでは台無しです。

一番大切なことは、一日一日、その瞬間その瞬間を感謝の気持ちで過ごさせて頂く。これに尽きます。
朝起きたならば、昨日まで言ったことのない、よい「おはよう」が言えるような私にならせて頂く。 

毎日の仕事や交際の上に感謝が抜け落ちぬよう、
感謝を現せる自分にならせて頂けるようにと手を掌わせる。
それが、信心させていただくということであり、道に生きるということなのです。

「幸」と「福」

普段私たちがよく口にする「幸福」という言葉は、
学問的には「二種類の良いことの集まり」であるそうです。

「幸」と「福」、同じ「さいわい」という意味で用いられる言葉でも、
「幸」という字は、その「さいわい」の原因が、自分の力によるものではなく、
たまたま他から与えられたに過ぎないものを言います。
金持ちの家に生まれ育ったとか、ルックスに恵まれたとかいうのは、まさに「幸」であり、
「さいわい」には違いありませんが、偶然の産物でありますから、いざというときに当てになりません。

これに対して「福」の方は、その「さいわい」の原因が、自分自身の努力によるものを言います。
つまり、実際に苦労して苦心して得た「さいわい」を「福」と言うのです。
福という字を見れば分かる通り、示偏(しめすへん)は神様のことで、
つくりの方は「収穫を積み重ねた」ということ。
すなわち「福」とは、神様の前に積み上げられたものを意味します。
要するに信心とは、いたずらに「幸」を求めることではなく、
「福」が与えられるような生き方、つまり、人を助ける神様の御用をさせて頂くことなのです。

お道の教えにこのようにあります。
『神を使うて、神に使われることを知らず』

自分が神様を使うのではなく、神様に自分を使って頂く。
そこにこそ本当の「さいわい」があります。
教会で御祈念をし神様に願ったなら、そのわが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。
家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、
わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。
これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、
面倒な事ばかりさせられる、我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。
これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、
自分の手足を通して、自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂く。
そうした生き方こそが、幸せな人生を約束してくれるということなのです。

客人の身として生きる

江戸初期に活躍された澤庵和尚が、人間の生き方について次のように遺しておられます。

「人間、この世にかりそめに来た客人であると思えば、この世の苦労は無くなる。
望み通りの食事が出てきたら、良い御馳走を頂いたと思って感謝する。
逆に望まぬような食事であっても、客人の身であると思えば、作ってくれた人を褒めて食べることが出来る。
夏の暑さも、冬の寒さも、客人の身であるから辛抱することができる。
家族、親族も同じ場所に来た相客だと思えば、仲良く暮らして気持ち良く別れを告げることができる」

さて、何故自らを客人だと思えば、腹を立てたり、不足に思ったりせずに過ごすことが出来るのか。
それは、相手に頼ろうとする心がこちらに無くなるからなのです。

お道の教えに、このようにあります。
『人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、
腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。』


頼り合うことが、本当に頼りになればそれでよいのですが、
「頼ろう」とするということと、「頼りになる」ということは全くもって違うのです。
信じる心(信心)とは、頼ろうとする心(依頼心)ではありません。
信じるということは、相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、
むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことなのです。

本当の夫婦関係、本当の友人関係というものも、お互いに頼ろうとするのではなく、
こちらから相手の頼りになっていきたいと願うものです。
そういう人間同士が一緒に生活をして、友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、
それが本当に頼りになる関係となるのです。

自らは客人として、人を頼りにすることなく、神様とともに人のお役に立たせて頂けるように手を掌せましょう。
澤庵和尚が「この世に苦労は無くなる」と言ったことは、決して大袈裟なことではありませんから。
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