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すべて恵まれてのことなのだから

『わが心でわが身を生かすこともあり 殺すこともあり』


ロビンソン・クルーソーは、アフリカへの渡航中に船が難破し、

無人島に唯一人打ち上げられて生き残ります。

しかし、生き残ったことを喜んだのも束の間、

助けを呼ぶことも、島から脱出する術もなく、これからどうしたらよいのかと悩み始めるのです。

 「このままでは、精神的にダメになってしまう…」

そんな自分を慰めるために、ある方法によって心を感謝の気持ちに変えることに成功します。


その方法とは、帳簿の借方(かりかた)、貸方(かしかた)を書くのと同じように、

自分が経験したこと一つひとつについて、「不幸せ」と「幸せ」な点をそれぞれ書きだし、

対比してみるというものです。


持ち物についてならば、「着る服が無い」という不幸せに対し、

「服があっても、着られないほど暑い場所にいる」という幸せがある。


境遇についてならば、「脱出する望みは限りなく小さい」という不幸せに対し、

「他の乗組員たちのように溺れ死なずに生きている」という幸せがある。


このように対比していくと、最終的な差引勘定では幸せの方が大きいという結論になり、

そのことを神様に感謝するのでした。


さて、皆様も過去の出来事に対して、「不幸せ」と「幸せ」な点をそれぞれ書き出してみて下さい。

「不幸せ」が大きい出来事ほど、「幸せ」もまた大きいことに気が付くはずです。


実際に書いてみることによって、

「不幸せ」な出来事ほど、今の自分にとって、

なくてはならない出来事であったことが明確になるのです。


物事には、どんなことでも良い面と悪い面とがあるものですが、

結局のところは、受け取る者の心次第なのです。 

良いも悪いもないのであれば、「すべて恵まれてのことなのだから」と、

神様から頂いた「ご縁」として有難く受け取る心を育てていきましょう。

有難く受け取ったその第一歩が、本当の幸せへと通じているのです。

おかげの中に生かされて生きている

『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、

 雨の降られるのもおかげ、

 人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。

 人間は、おかげの中に生まれ、

 おかげの中で生活をし、

 おかげの中に死んでいくのである。』


信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、

残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。

人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。

その苦難の中にも「幸せ」を見出せる。

別の角度から物事を見つめ、そこに自然と手が掌わせるようになる。

信心させて頂くと、そのような身の上にならせて頂けるのですね。

過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。

現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。

境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。

「○○さえあれば、私は幸せになれる」

「○○にならないと、私は幸せになれない」

と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り幸せになれませんし、

他の幸せになかなか気付くことが出ません。

実はこの世の中は、数え切れないほどたくさんの「幸せ」に満ちているのです。

自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。

しかし、そのすべての幸せを得られるわけではなく、

自分にはどうしても得られない幸せというのもあります。

ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、

しかもそれは一つや二つじゃありません。数え切れないほどたくさんあるのです。

大切なことは、私たち一人ひとりがその自分に準備された幸せに気付くだけのことなのです。

心を丸く、円にして

『おかげは和賀心にあり。

和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である』


「和」とは、二つのものが一緒になることですが、

その「和」の精神が表された形が円です。

車輪が四角だったら、車は前進しません。

丸いから前進できるのです。


人においても同じことで、自分の心を円にしてはじめて、

この人生を生き生きと生きていけるようになるのです。 


また、心がそのように丸くなっている状態を、「幸せ」とも呼びます。

「円満」という言葉があるように、満ち足りていて不足がない状態を言うのですね。

それに対して「不幸せ」とは、何かしら不足があるために心の円に穴が空いていて、

半月になったり三日月になったり、人によっては、かじられ尽した林檎のようになっていたりする。 


では、そのように心の円に穴を空けている不足の正体とは何かと言いますと、

それは「自分の期待通りにならない」という思い。これに尽きます。


不幸せな人というのは、何かしら不足を言われるものですが、

それらはすべて、自分の期待通りに人、モノ、お金が動いてくれないというものなのです。 


しかし、そのような自分の不足というものを一体誰が埋めてくれると言うのでしょうか。

結局は、自分でしかその穴は防げないのです。


幸せになろうとしながら、人を当てにしては不足を言って、

幸せになれない心の在り方になってしまっている。これが「迷い」なのですね。


そうではなく、

「人から何かしてもらおうと思わなくても、この自分自身の中に限りのないお恵みを頂いているのだ。

私の中から、どんなことでもしようという心が出てくれば、何だって出来る。

無限に良いものを私は授かっているのだ!」


このことに気付かせて頂くことが信心であり、

そこに至ってはじめて、自分の不足というものが無くなる。

穴が埋まって円満となり、幸せになれるのです。

心を丸く、円にすることをいつも心掛けていきましょう。

神様の御用

『神を使うて、神に使われることを知らず』

世間一般的に、信心とは「自分が神様を信じること」と考えられています。

かく言う私も、長い間そのように考えておりましたので、大変よく分かるのですが、

そのような信心をする人は、

「神様がいるか、いないか。自分がどれだけ神様を信じることができるか」

ということが信心の問題となります。


しかし、そのような考えの人が「神様を信じる」と言ったところで、

自分が神様を信じるのでありますから、

神様というのは自己の神認識の程度を出るものではなく、

信心の中身も自己の性格や考えによって偏ったものとなります。

また神様に向かって深々と頭を下げているようであっても、

それは形だけのことであって、実際には自分の意向が主となり、

自分の願いに合わせて神様に働いてもらおうとしているのが信心の中身なのです。


そのようにして、自分にとって神様が必要な時には、「神様、神様」と言って近づき、

感涙にむせぶこともありますが、必要でない時には忘れてしまうか、あっさりと見切りをつける。

挙げ句の果てには神様に責任を押し付けたりもする。


『神を使うて、神に使われることを知らず』という教えは、

そのような自分本位の信心をする者には天罰が当たるなどということではなく、

そのような信心では本当の意味でその人が助かって行かない、ということを嘆かれた教えであろうかと思うのです。


これまで神様を使うばかりであったならば、

これからは神様に使われるような自分にならせて頂く。

神様に使われることを、このお道では「御用」と言います。


教会で御祈念をし、神様に願ったならば、わが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂く。

家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、

わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。

これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、自分の生活を通して、

神様の生きておられる働きをさせて頂くことが真の信心なのです。

良いもの、悪いもの

雨が降ると「天気が悪い」と言います。

ところが、それならずっと雨が降らなければ良い天気かと言えば、

それも困ることがあって「雨よ降れ」と言う。

そうして雨が降れば「良い雨だ」と言う。


私たちの「良い」「悪い」というのは、雨そのものを言うのではありません。

降って欲しい時に降る雨は「良い」ものですし、降って欲しくない時に降る雨は「悪い」ものです。 

どこに良い悪いがあるかと言うと雨そのものではなく、関係にあるのです。

生きている者と雨との関係がどのようなものか。そこに、良い悪いが生まれてくるのです。

雨だけではありません。人もまたしかりです。

自分については、いつも同じ自分だと考える。

他の人については、あの人はどのような人間で、良いとか悪いと決めつけてしまいがちなのですが、

本当はそうではありません。

自分のことで考えてみても、いつも同じ自分ではないはずです。

会う人との関係によって自分も変わるのです。

先生と会う時、友達と会う時、子供と会う時。

親しい人と会う時と嫌いな人と会う時とでは、決して同じ自分ではないはずです。

雨に対して良い悪いと、雨だけを見て決めつけているのと同じように、

人に対しても、その人だけを見て良い悪いを決めつけているのです。

たとえ雨が降り続いても、その雨との関係を良くできさえすれば、

「困った雨だ」とか「悪い雨だ」と言わずに済むようになります。

人に対しても同じように、自分が悪い、相手が悪い、という視点から離れなくてはなりません。

良いとか悪いとかいうことは程度の問題であり、

良いと言えば皆が良いとも言えるし、悪いと言えば皆が悪いとも言える。

人間を知れば知るほど、そう単純に良し悪しなど言えないことに気付く筈です。


白と黒、善と悪の間に人間があります。

そして、そのどちらにもいくことが出来るのです。

ですから人と人、人とものとの「関係」を願いましょう。

その関係が少しでも良くなるように、強くなるように願い、

出来る限りのことをさせて頂くことが肝心であります。
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