ナチスのアウシュビッツ強制収容所での実体験をもとに書かれた名著『夜と霧』などで知られる、
フランクル博士は、たいへんな愛妻家でもあったそうです。
ある雑誌の中で、次のようなエピソードが紹介されています。
ある方が、フランクル博士夫妻を日本にお迎えした際、
そのあまりに仲睦まじい二人の様子を見て、「なぜそんなに仲良くできるのですか?」と尋ねたところ、
博士はニヤッと笑って、こう答えました。
「そりゃ君、簡単なことだよ。お互いの顔を見ていないからだよ。」
え? 尋ねた方は、博士の言わんとすることが分からず、思わず聞き返しました。
すると博士は、
「男と女が恋愛をすれば、最初は“あばた”も“えくぼ”だろう。
ところが三年も経ってくると、あばたはあばた、えくぼはえくぼになってくる。
それがもう少し経てば今度はえくぼもあばたになってくる。
それはなぜかと言えば、お互いが顔を見合わせるからだよ。
夫婦はね、顔を見合わせるのではなく、同じ方向を向くといいんだよ。
同じ目的を持ち、同じ方向を見つめていれば、えくぼがあばたになるようなことはないんだよ」
と夫婦円満の秘訣を語られたそうです。
お道の教えにこのようにあります。
『夫婦は他人の寄り合いである。仲よくすれば一代安心に暮らすことができる。』
運勢というのは人が運んでくると言われますが、夫婦の仲がどれくらいよいか、
そこにどれほどの深さがあり、強さがあるかということで、
その人たちの運勢の良し悪しが決まると言っても過言ではありません。
夫婦が見つめるべき同じ方向とは唯一つ。
「よい仲を築く」、これに尽きるのです。
夫婦の仲というものは、夫だけでつくるのではなく、妻だけでつくるのでもありません。
夫と妻との、言わば「合作」なのです。合作なのですから、足を引っ張り合っていてはいけません。
相手に注文するのではなく、「よい仲を築く」ために自分に何が出来るのか?
そこに心を向けることが、えくぼがあばたにならない秘訣なのです。
徳川将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)
の言葉にこのようにあります。
『病とは、心の病なり。心の病とは、心のそこそこにとどまるを云うなり』
心をとどめるというのは、執着するということですね。その執着こそが心の病なのだと。
天下無双と言われた剣豪も、執着からいかに離れるかということを問題にしたわけでありますが、
人間関係における執着での最たるものが、「許せない」という想いであります。
「許せない」という想いとは、過去に自分が傷つけられた出来事に執着して、
誰かを責め続けている心の状態を言います。
責め続けることで心が晴れるならばそれも良いでしょうが、逆に心は苦しくなっていくのです。
そもそも他人を悪く思うこと自体、自分自身の心が乱れ、傷つくことであり、
相手との間柄もさらに悪くなっていく。まさに損をすることばかりなのです。
お道の教えにこのようにあります。
『我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ』
「許す」というのは、相手がした行為を肯定することでもなければ、
自分の心を押し殺して我慢することでもありません。ただ、その事柄への執着から離れるのです。
相手が自分を傷つけたのは、相手が人間的に未熟であったが故のこと。
確かに悪いと言えば悪いことでしょう。しかし、悪いものを悪く思うだけでは、
自分の心がますます苦しくなっていくばかりです。
ですから、そのような苦しい想いは神様に預けてお任せしましょう。
そして自分自身の心は広く晴れ渡り、すべてを受け入れられる心にならせて下さい、と祈りましょう。
そのようにして執着を放していくことが出来たならば、
この人生は、もっと生きやすく、もっと楽しくなるはずです。
離婚された芸能人の男性が、女性に対して学んだことは
「理解と共感が大切」だとテレビで語っておられました。
この方だけでなく、中年になって、あるいは老年近くなって夫婦間の危機を感じ、
改めて「理解」や「共感」の大切さを痛感する人は多いものです。
というのも、結婚してしばらくは、早くローンを返さねばならないとか、
子供を大学に入れるまでとか、夫婦が何かしら共有の目標をもっているので、
お互いが相当に協力出来るものであります。
協力し合っているときは、相手のことなど深くは考えず、
ともかく目標に向かって前進するものです。
そのとき、自分が喜んでいるときに相手の方はそれを支える苦労で
たとえ辛い思いをしていたとしてもなかなか気が付きません。
ところが、目標を達成してしまって、やれやれと思って二人が向き合ってみると、
お互いのことを本当に知らないままで来たことに思い当たるのです。
今まで仲良くやっていた夫婦が中年になって、
急にギクシャクし出したり、離婚などということまで出て来そうになるのは、
協力から理解へと至る谷間にさしかかっているときなのです。
協力関係を「理解」と取り違える人は、どうして相手が急に分からず屋になったのかと思ったり、
今までの協力が偽物だったのかと思ったりするでしょうが、決してそうではありません。
相手を「理解」するというのは大変難しいことなのです。
お道の教えに『信心は家内に不和の無きが元なり』とあります。
結婚するまでは別々の生活環境の中で育ち、別々の性格や感情を持った者が、
途中から夫婦生活を始めるわけですから、夫婦というのはそもそも「一心同体」などではない。
平和が当たり前ではない。あるのは不和であって、
放っておいても何とかなるような甘いものではないと心得ることが肝心です。
しかしながら、私たちが幸せになるためには家庭の平和が必要ですから、
信心させて頂いて、「どうぞ相手を理解させて頂ける身の上にならせて下さい」と日々手を掌わせ、
祈りながら生活を進めていく。その心と姿勢が、家庭円満の秘訣となるのです。
茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌に、このようにあります。
「稽古とは 一より習い 十を知り
十よりかえる もとのその一」
一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、
再びもとの一を習う時、習う人の心は全く変わっているものです。
端から見ればもとの一は同じように見えますが、習っている本人にとってみれば、
最初に習った時と異なっている。
このことが人の進歩につながるのであって、
十を知り、もとの一に戻らぬ人は、それ以上の進歩は望めません。
さて、元日とは暦の上での「一」であります。
新たな一年を迎えた感動の中で、「今年こそは」という願いを立て、感謝と反省を胸に神仏に手を掌わせる。
そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。
そのような「元日の心」を毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心となります。
ですから、元日の今日。この感謝の心持ちを、しっかりと味わい、保っていき、
そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが大切です。
信仰上の修行というのも、もともとはそのためにあるのです。
木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。
それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、
自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。
このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。
その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とさせて頂きます。
あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。
そこから次に向けての工夫が生まれるのです。
『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』
日々させていただく信心生活が、一日一日、一年一年、有り難いという想いが増えていっているか、
そうでないか。ここのところを、信心の標準とさせていただきましょう。
江戸時代後期の僧侶であり、歌人でもある良寛和尚に、このようなエピソードがあります。
ある日、たいへん金持ちの老人が良寛和尚を訪ねてきて、このように願われました。
「良寛さん、私は本年七十歳。先も長くないようですが、せめてもう十年は長生きしたいのです。何かよい方法はありませんか」
良寛和尚は答えます。
「もちろんある。しかし十年経つと八十じゃが、それ以上でなくてよいのか。」
すると老人は、
「そう言われると心許ない気がします。もうあと十年延ばしてもらえませんか。」
良寛は更に問います。
「更に十年と言うと九十歳じゃ。本当にそれ以上はなくてよいのか。」
そこで老人は、
「それでは困ります。今までは遠慮しておりました。
せめて百歳、否、二百歳まで生きられたらいいので、その方法を教えて下さい。」
良寛はさらに、
「千年というのがあるが、どうじゃ」
老人は大変喜んで、
「それは大変結構。長ければ長い方がよろしいです。」
と手を叩きました。
そこで良寛は座り直し、話し始めました。
「それでは教えてしんぜよう。よく聞きなさい。あなたが千年生きたいと願うならば、
臨終を迎えた時、私の生命は千年生きた、あぁよかったなぁと味わえばよい。これが方法じゃ。わかったな」
と。
人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えるのです。
ここがゴールなどというものはありません。
大切なことは、今月今日、只今(ただいま)を大切にするということです。
考えてもみて下さい。私たちが幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのは、いつでしょうか?
それは、昨日でもなく明日でもなく、今しかない。
七十年生きて幸せだと思うのも、千年生きて幸せだと思うのも、今の自分が決めているのです。
つまり、幸せも不幸せも「今」以外のどこにもない。人生を創るのはまさに、「今」しかないのです。
切実に全力を尽くして今日という日を送るなら、
死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。
そういう今月今日、只今にしたいものです。