普段私たちがよく口にする「幸福」という言葉は、
学問的には「二種類の良いことの集まり」であるそうです。
「幸」と「福」、同じ「さいわい」という意味で用いられる言葉でも、
「幸」という字は、その「さいわい」の原因が、自分の力によるものではなく、
たまたま他から与えられたに過ぎないものを言います。
金持ちの家に生まれ育ったとか、ルックスに恵まれたとかいうのは、まさに「幸」であり、
「さいわい」には違いありませんが、偶然の産物でありますから、いざというときに当てになりません。
これに対して「福」の方は、その「さいわい」の原因が、自分自身の努力によるものを言います。
つまり、実際に苦労して苦心して得た「さいわい」を「福」と言うのです。
福という字を見れば分かる通り、示偏(しめすへん)は神様のことで、
つくりの方は「収穫を積み重ねた」ということ。
すなわち「福」とは、神様の前に積み上げられたものを意味します。
要するに信心とは、いたずらに「幸」を求めることではなく、
「福」が与えられるような生き方、つまり、人を助ける神様の御用をさせて頂くことなのです。
お道の教えにこのようにあります。
『神を使うて、神に使われることを知らず』
自分が神様を使うのではなく、神様に自分を使って頂く。
そこにこそ本当の「さいわい」があります。
教会で御祈念をし神様に願ったなら、そのわが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。
家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、
わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。
これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、
面倒な事ばかりさせられる、我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。
これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、
自分の手足を通して、自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂く。
そうした生き方こそが、幸せな人生を約束してくれるということなのです。
江戸初期に活躍された澤庵和尚が、人間の生き方について次のように遺しておられます。
「人間、この世にかりそめに来た客人であると思えば、この世の苦労は無くなる。
望み通りの食事が出てきたら、良い御馳走を頂いたと思って感謝する。
逆に望まぬような食事であっても、客人の身であると思えば、作ってくれた人を褒めて食べることが出来る。
夏の暑さも、冬の寒さも、客人の身であるから辛抱することができる。
家族、親族も同じ場所に来た相客だと思えば、仲良く暮らして気持ち良く別れを告げることができる」
さて、何故自らを客人だと思えば、腹を立てたり、不足に思ったりせずに過ごすことが出来るのか。
それは、相手に頼ろうとする心がこちらに無くなるからなのです。
お道の教えに、このようにあります。
『人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、
腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。』
頼り合うことが、本当に頼りになればそれでよいのですが、
「頼ろう」とするということと、「頼りになる」ということは全くもって違うのです。
信じる心(信心)とは、頼ろうとする心(依頼心)ではありません。
信じるということは、相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、
むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことなのです。
本当の夫婦関係、本当の友人関係というものも、お互いに頼ろうとするのではなく、
こちらから相手の頼りになっていきたいと願うものです。
そういう人間同士が一緒に生活をして、友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、
それが本当に頼りになる関係となるのです。
自らは客人として、人を頼りにすることなく、神様とともに人のお役に立たせて頂けるように手を掌せましょう。
澤庵和尚が「この世に苦労は無くなる」と言ったことは、決して大袈裟なことではありませんから。
信心をすれば一切の苦難が無くなるかと問われれば、残念ながらそんなことは有り得ないでしょう。
人が人として生きていく以上は、色々な苦難にどうしても直面していきます。
しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる。
その苦難の中にも「幸せ」を見出せる。
別の角度から「幸せ」を見つけ、手を掌わせることができる。それが信心の力です。
過去の出来事を捨て去ることはできなくても、とらえ直すことはできます。
現実を変えることが出来なくても、悩みに対する心の持ち方を変えることはできます。
境遇は変えられなくても、生き方を変えることで人生の見え方が変わるのです。
たとえば天気一つで機嫌を損ねる人もおられる。そのような人は、雨の日には憂鬱で機嫌が悪い。
しかし、それは雨の有り難さというものに、自分の心が向かわないからです。
雨の日には雨の日なりの有り難さを自分の心に見出すことができたならば、
雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心は晴れ渡るのです。
お道の教えに、このようにあります。
『お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげ、人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。
人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。』
「○○さえあれば、私は幸せになれる」
「○○にならないと、私は幸せになれない」
と思い込んでいる人は、その幸せが得られない限り幸せになれませんし、
他の幸せになかなか気付くことが出ません。
世の中には数え切れないほどたくさんの「幸せ」があります。
自分がすでにもっている幸せもたくさんあるし、これから出逢う幸せもたくさんある。
ただ、すべての幸せを得られるわけではなく、自分にはどうしても得られない幸せというのもある。
ただ、自分にも得られる幸せがこの人生には必ず準備されていて、しかもそれは一つや二つじゃない。
数え切れないほどたくさんある。
大切なことは、私たち一人ひとりがその幸せに気付くことなのです。
ナチスのアウシュビッツ強制収容所での実体験をもとに書かれた名著『夜と霧』などで知られる、
フランクル博士は、たいへんな愛妻家でもあったそうです。
ある雑誌の中で、次のようなエピソードが紹介されています。
ある方が、フランクル博士夫妻を日本にお迎えした際、
そのあまりに仲睦まじい二人の様子を見て、「なぜそんなに仲良くできるのですか?」と尋ねたところ、
博士はニヤッと笑って、こう答えました。
「そりゃ君、簡単なことだよ。お互いの顔を見ていないからだよ。」
え? 尋ねた方は、博士の言わんとすることが分からず、思わず聞き返しました。
すると博士は、
「男と女が恋愛をすれば、最初は“あばた”も“えくぼ”だろう。
ところが三年も経ってくると、あばたはあばた、えくぼはえくぼになってくる。
それがもう少し経てば今度はえくぼもあばたになってくる。
それはなぜかと言えば、お互いが顔を見合わせるからだよ。
夫婦はね、顔を見合わせるのではなく、同じ方向を向くといいんだよ。
同じ目的を持ち、同じ方向を見つめていれば、えくぼがあばたになるようなことはないんだよ」
と夫婦円満の秘訣を語られたそうです。
お道の教えにこのようにあります。
『夫婦は他人の寄り合いである。仲よくすれば一代安心に暮らすことができる。』
運勢というのは人が運んでくると言われますが、夫婦の仲がどれくらいよいか、
そこにどれほどの深さがあり、強さがあるかということで、
その人たちの運勢の良し悪しが決まると言っても過言ではありません。
夫婦が見つめるべき同じ方向とは唯一つ。
「よい仲を築く」、これに尽きるのです。
夫婦の仲というものは、夫だけでつくるのではなく、妻だけでつくるのでもありません。
夫と妻との、言わば「合作」なのです。合作なのですから、足を引っ張り合っていてはいけません。
相手に注文するのではなく、「よい仲を築く」ために自分に何が出来るのか?
そこに心を向けることが、えくぼがあばたにならない秘訣なのです。
徳川将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)
の言葉にこのようにあります。
『病とは、心の病なり。心の病とは、心のそこそこにとどまるを云うなり』
心をとどめるというのは、執着するということですね。その執着こそが心の病なのだと。
天下無双と言われた剣豪も、執着からいかに離れるかということを問題にしたわけでありますが、
人間関係における執着での最たるものが、「許せない」という想いであります。
「許せない」という想いとは、過去に自分が傷つけられた出来事に執着して、
誰かを責め続けている心の状態を言います。
責め続けることで心が晴れるならばそれも良いでしょうが、逆に心は苦しくなっていくのです。
そもそも他人を悪く思うこと自体、自分自身の心が乱れ、傷つくことであり、
相手との間柄もさらに悪くなっていく。まさに損をすることばかりなのです。
お道の教えにこのようにあります。
『我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ』
「許す」というのは、相手がした行為を肯定することでもなければ、
自分の心を押し殺して我慢することでもありません。ただ、その事柄への執着から離れるのです。
相手が自分を傷つけたのは、相手が人間的に未熟であったが故のこと。
確かに悪いと言えば悪いことでしょう。しかし、悪いものを悪く思うだけでは、
自分の心がますます苦しくなっていくばかりです。
ですから、そのような苦しい想いは神様に預けてお任せしましょう。
そして自分自身の心は広く晴れ渡り、すべてを受け入れられる心にならせて下さい、と祈りましょう。
そのようにして執着を放していくことが出来たならば、
この人生は、もっと生きやすく、もっと楽しくなるはずです。