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自らの敵は

『我よしと思う心を仇として
戦いて行け 日ごと夜ごとに』(安武松太郎師)


「自分が正しい」と思うことこそが、自らの敵である、という教えであります。
おそらく全ての人間が人に対して、心から愛し合い、信じ合い、
良い心持ちで付き合うことが出来るようになりたいと心の底では願っているのに、それがなかなか出来ない。
そして、その出来ない原因が、相手の悪いところにあると思うところから、色々な不平不足が心の中に生まれ、
また口からも出て来るのです。

しかし、「仲」というものは自分だけでつくるのではなく、また相手だけでつくるのでもない。
自分と相手との言わば「合作」なのですね。
そのように考えてみますと、仲が悪いということは、相手もさることながら、
自分にも少なからず原因がある、ということになります。

そもそも、不平とか不足とかいうものが起こるというのは、
自らの心のどこかに「自分は正しい」と思うところがあるから起こるのです。それこそが己の敵である、と。

深刻な人間関係の問題を解く道は唯一つ。
それは、自分自身の至らなさ、未熟さに気づいて、自ら詫びることなのです。
自分の手元に、こだわりがあったり、曲がったものがあるから、人間関係に行き詰まる。
人間の仲というのは不思議なもので、仲の良い者同士の間では、悪いところが不思議と出てこない。
出ても悪いと感じないのです。
それは、何も仲が良くなったから、急に相手が善人になったのではなく、
仲が悪くなったからといって、急に悪人になるわけではありません。
相手はそのままでありながら、仲さえよくなれば、悪く思えないようになるのです。ここに、人間の間柄の妙味がある。
ですから、人間というのは、そう単純に良し悪しなど言えないものである。このことをいつも心に留めておかなければなりません。

空が神、下が神

「後ろ祈念」という言葉をご存じでしょうか。
その名の通り、誰かの背中を祈らせて頂くこと。
学校へ行く我が子、会社へ行く夫の後ろ姿に合掌し、お礼を申して無事を願うということです。

合掌と言えば両手を合わせて頭を下げる。
形の上ではただそれだけのことでありますが、単に社交で頭を下げる低頭や、
手を握り合う握手とは違い、相手の地位や身分を尊敬するのではありません。
そこに神様を拝む心、有り難いと感じる心があってはじめて合掌となる。
人の背中に合掌するということも、相手の中におられる神様を拝むことに他なりません。

「どうぞ、あなたの中の神様がお働き下さり、今日一日、幸せに過ごせますように」と念じて、両手を合わせる。
それが合掌するということなのです。
そのようにして、人の背中に手を合わせることが出来るようになると、
だんだんと自分自身も有り難い心持ちになってまいります。
何が有り難いかと言いますと、自分も又同じように誰かに祈られてここまで来たのだ、
ということが分かってくる。誰かの祈りの中で「生かされて生きている」ことが実感出来るようになる。
そのことが大変有り難いのです。

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。
空が神、下が神。』


「神様を信じよ」と言われても信じるのは大変難しいことでしょう。
なぜ信じられないかと言えば、目には見えないものだからです。
目に見えないものは、いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、疑えばキリがありません。
しかし、この世の実際は、目に見えないものが、目に見えるものを支えています。
美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が咲かせているのです。
たとえ目には見えなくとも、私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、
実は私たちの周囲にたくさん在るのではないでしょうか。
誰かの祈りの中で生かされて生きている。私たちはその祈りに気付いていないだけなのです。

ああ、そうか

白隠禅師に、このような逸話があります。
ある檀家の娘が出産をしたのですが、娘の父親が一体誰の子かと問い詰めましたところ、
娘は頑として男の名前を口にしません。怒った父親がなおも激しく問い詰めたところ、
娘は恐れのあまり、咄嗟に「白隠禅師です」と嘘をついてしまうのです。

父親が日ごろから敬愛している白隠の子であれば、きっと許してくれるだろうという娘の浅知恵でした。
しかし、娘の父親は白隠のところに駆けこむや、
「この生グサ坊主!お前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、赤ん坊を突き出しました。
もちろん白隠は、身に覚えのないことです。
ところが何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。

この出来事により、白隠の名声は地に堕ち、近所の大人たちから罵倒され、
子供たちからは石を投げつけられ、大勢の弟子たちが去って行きました、
それにもかかわらず悠然ともらい乳をして歩き、赤子を親身になって育てる白隠の姿に、
娘もこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親は、すぐに白隠に非礼を詫び、赤子を返してほしいと恐る恐る申し出ました。

すると、白隠は怒ることなく、
「ああ、そうか」とだけ言い、赤子を返したそうです。
このことがあってから、以前にも増して信者や弟子が白隠のもとに集まってきたそうであります。

さて、お道の教えに『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』とあります。
自分の人生で起こる出来事は、自分の魂が書いたシナリオ通りだと信じることができた瞬間から、
この人生はものすごく楽になります。

白隠禅師がなぜ、すべての出来事に対し、不足も言わず、執着もせず、「ああ、そうか」と受け入れられたのか。
それは、「お前が父親だ」と言われたその時に、それもまた自分の人生のシナリオ通りであると、悟られたからではないでしょうか。
私たちの身に起こる様々な事も、すべてシナリオ通りなのです。
そう、最高・最良・最善・最適の選択をして、今、ここにいるのです。

信心の行

ある方が日本の学校教育に間違いがあるのは、お掃除当番のあることだと言っておられました。
お掃除当番というのは、お掃除をしたくないという前提のもとに、やりたくないがやらされるのです。
そこにお掃除に対する誤解や間違いがあるのだと。

お掃除という自分の仕事があること、
その仕事を通して他人にも喜んでもらえることは、本来楽しいことなのです。
「あなたはやらなくても結構です」と言われるよりも、働かせてもらう方がどれだけ楽しいことか。
このことを教えることが大切なのです。

近年では仕事のことを、「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、
「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、大変多くなってきました。
しかし、仕事を自分の生きていく為の単なる手段として考え、そのためにしなければならない、
しょうことなしの重荷であると考えているならば、いつまで経ってもそのような仕事の仕方しか出来ず、
そのような仕事しか与えられないことになるでしょう。

お道の教えにこのようにあります。
『日々勤める仕事は信心の行であるから、仕事を有り難く勤めれば、日々有り難いおかげが受けられる』

ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、
特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではありません。 
会社での勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行があるのです。

「働くことそのものが楽しみでありますように」と祈らせて頂きましょう。
仕事をすること自体を感謝し、何のためというわけでもなく、
自分はどうなるかなどということは忘れて、ただ仕事をすることを喜んでみましょう。 
すると、仕事のほうも喜んでくれて、終始一緒に居てくれ、
困った時には仕事が貴方を助けてくれるようになる。それが道にかなうということです。
働いているからこそ、休みが有り難いと思えるのであって、
「あなたは働かなくてもいい」と言われるのは大変辛いことです。
失業してみると、働くことの有り難さに気付くことでしょう。

元日の心

元日には、皆が「おめでとう、おめでとう」と言い合い、新年を喜び合います。
日本人にとって元日とは、単に年度が変わったということだけではなく、
生命が改まって再生するという、民族的な心情が心の底にあるのではないでしょうか。
そのために、すがすがしく新しい心と感動を持って、元日を迎えることが出来るのです。

暦の上では元日も他の日も一日には変わりありませんが、
年改まる元日には、人間の心情をも改まらせる働きがあり、それがたいへん有り難いことだと思うのです。

お道の教えにも、このようにあります。
『信心は日々の改まりが第一である。毎日、元日の心で暮らし、
日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思って、日々うれしく暮らせば家庭に不和はない』


「元日の心」とは、改まりの心です。
今日という日を迎えた感動の中で、「今日こそは」「今年こそは」という願いを立て、
感謝と反省を胸に神仏に手を合わす。
そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。
そのような心、願い、行動を毎日続けることが信心です。

信心すれば、家庭に職場に、良い人間関係が生まれ、幸せな人生を歩んでいくことができます。
だからこそ、元日の今日、この心持ちをしっかりと味わっていき、保っていき、
そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが大切です。
信仰上の修行というのも、そのためにあるのです。
木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。
それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、
自らがそのように成り切るためにさせて頂くことなのです。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。
その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とするのです。
元日の心を携えて、日々の生活を有り難く送っていくその中に、
有り難いおかげ(幸せ)が生まれて来るのです。
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