人生の目的

人生はしばしば登山に喩えられますが、

自分の外にあるもの―地位やお金、他人からの愛情―を求め、それを得ようと必死に頑張っている時とは、

まさに山に登っている最中であります。


思い通りのものを手にすることが出来れば満足するでしょうが、

それはただ一瞬のことでありまして、すぐに「もっと欲しい」という欲望に駆り立てられ、

それが得られない間は悩み苦しみ、苛つきもする。

常に心の根底には不満足の思いがあり、心の底から満足し、満ち足りるということがありません。


地位にせよ、お金にせよ、自分の外にあるものを人生という登山の目的とするならば、

それはどこまで追って行っても上には上があって、ついに最後の満足を得ることなく終わってしまう運命にあるのです。

地位やお金というのは、目的としてハッキリしているようで

実は大変ぼんやりしており、アテにならないものなのですね。


そこで考えなくてはなりません。山へ登るのは頂上に達するのみが目的ではないことを。

むしろ途中の景色を観賞するところに、本当の楽しみがあるのです。


人生においても、目的は何か一定のものにあるのではなく、

道中出逢う方々と如何に仲良く楽しい時間を過ごせたかが重要なのです。

旅をするときは、「どこに行くか」ではなく「誰と行くか」。

食事をするときも、「何を食べるか」ではなく「誰と食べるか」。

人生の目的とは、競い合ったり、比べ合ったり、努力して一番になることでもなく、誰かと喜び合うこと。

最良の人生とは、そうして誰かと喜び合って、大いに笑って、

「ありがとう」と御礼を言って、歩んでいく人生なのではないでしょうか。


非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、

実は自分の最終的な目的と何ら関係がないということが、多いに有り得ます。

成功だと思っていたことを達成したにもかかわらず、

それよりもはるかに大事なことを犠牲にしてしまっていたことを、ある時突然思い知らされるのです。

人生の登山者として、本当の目的を忘れないようにしたいものですね。

千年生きたいと願うならば

『神様へ願うには長いお願いはいらない。

今月今日で頼んでいけ。

朝起きたら夜中のお礼をし、その日のお願いをせよ。

夜になったら、その日のお礼をし、夜のお願いをせよ。』



江戸時代後期の僧侶であり、歌人でもある良寛に、このようなエピソードがあります。

ある日、たいへん金持ちの老人が良寛を訪ねてきて、このように願われました。

「良寛さん、私は本年七十歳。先も長くないようですが、

せめてもう十年は長生きしたいのです。何かよい方法はありませんか」

良寛は答えます。

「もちろんある。しかし十年経つと八十じゃが、それ以上でなくてよいのか。」

すると老人は、

「そう言われると心許ない気がします。もうあと十年延ばしてもらえませんか。」

良寛は更に問います。

「更に十年と言うと九十歳じゃ。本当にそれ以上はなくてよいのか。」

そこで老人は、

「それでは困ります。今までは遠慮しておりました。

せめて百歳、否、二百歳まで生きられたらいいので、その方法を教えて下さい。」

良寛はさらに、

「千年というのがあるが、どうじゃ」

老人は大変喜んで、

「それは大変結構。長ければ長い方がよろしいです。」

と手を叩きました。


そこで良寛は座り直し、話し始めました。

「それでは教えてしんぜよう。よく聞きなさい。あなたが千年生きたいと願うならば、

臨終を迎えた時、私の生命は千年生きた、あぁよかったなぁと味わえばよい。

これが方法じゃ。わかったな」と。


人生の長さは人それぞれ違いますが、どんな人生も必ず途中で終わりを迎えるのです。

ここがゴールなどというものはありません。

大切なことは、今月今日を感謝して生きる。これに尽きるのです。

感謝に満ちた今日という日を送ることが出来るのならば、

死ぬという事実もいつかの今日の出来事でしかなく、悔いは無い。

七十年生きて幸せだと思うのも、千年生きて幸せだと思うのも、今の自分が決めているのですね。

理想の教師

『五穀は実が熟すほど頭を下げる。

 氏子は天地の神のありがたいことを知ったら、

 人に教えるにもかがんで教えてやるがよい。』


戦前の政界に大きな影響を与えた、頭山満(とうやまみつる)は、

その人物の大きさから「東洋的巨人」とも呼ばれ、彼を師と仰ぐ著名人は数知れず、

天風会の創始者で、数多くの指導者を育てた中村天風(なかむらてんぷう)もその一人です。


天風は師匠である頭山の力を借り、銀行頭取などを歴任し、実業界で大変活躍するのですが、

ある時、一切の社会的身分、財産を処分し、人を救い助ける道に生きる決心をしました。


頭山もこれには驚きましたが、お前が望むならばと快諾し、

それから天風は上野公園の片隅で毎日、道行く人々に人生について説き始めたのです。


しかし世間もなかなか認めてくれません。

来る日も来る日も、同じ場所に立って話をするのですが、誰も足を止めて聞いてくれません。

たまたま聞いてくれる人がいても、目を合わせると怖がってすぐに逃げてしまいます。

そのため、天風もなるべく人と目を合わさないようにして話をするようにしました。


ある日のこと、その日も同じように教えを説いていると、

珍しく数人の人が話を聞いてくれていました。しかしそこに雨が降り出したのです。

天風は構わず、雨に濡れながらも話を続けるのですが、雨はさらに激しくなり、

聞いてくれていた人たちも立ち去ってしまいました。

しかし、まだ一人だけ残って聞いてくれている人がいます。

目を合わせたら逃げられるかも知れないので、そちらを見ないようにして話を続けます。

しかしこのような大雨の中、よほど熱心な方だと思い、そっと目を向けてみました。


「頭山先生!」

なんと、そこにいたのは師匠である頭山だったのです。

頭山は優しく微笑み、「うん、うん、今日からわしがお主の弟子になろう」と言ったそうです。

天風は涙を流し、喜んだという話です。


教師と言うと、何かを教えたり、言い聞かせたりする人だと考えがちなのですが、実はそうではない。

相手と同じところまでかがんで降りて、実際にやって見せる人のことを、理想の教師と言うのです。

「させていただく」という心

『仕事をするというから神は見ている。

 仕事をさせていただくという心になれば、

 神はつきまとってさせてやる』


人間の性(さが)とは悲しいもので、金を持たない者が多少の金を持つようになると、

金を持たぬ者を見下す心持ちになる。

大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。

役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。

人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、醜い相として現れるのですね。


かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、

「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。

 それは、おそれるものがなかったからだ」

と部下に教えたそうであります。

実業会において、怖いものがないほど登りつめられた松下幸之助が

教えた「おそれ」とは、ただ何かを怖がるというような意味ではなく、

神仏を畏れ敬い、人間の欲望を畏れ慎むという意味が込められていたのではないかと思うのです。


いくらお金を稼げるようになったからと言って、

また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、

自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。


気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。

そうなってしまう自分の弱さが怖い。

また、そのような傲慢を許さない、この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。


幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。

もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、

人のお役に立たせて頂いているのであります。

ですから、何事も「させて頂く」ことである、ということを決して忘れてはなりません。


何事にも道があるように、仕事にも道がある。

仕事の道とは、仕事を神様から差し向けられたものとして、有り難く勤めさせていただくこと。

有り難く勤めさせていただくところに、有り難いおかげが受けられるのです。

難はみかげ(難儀は幸せの種)

『難はみかげ』


助かりたいという想いは、きっと誰の心にでもあるものでしょうが、

その心の奥底をずっと覗いていきますと、どうも

「このままでは困る」

「このままだと安心出来ない、不満である、不足である」

という想いがあるのですね。


例えば、

「あの上司がどこか異動になってくれたら助かるのに…」、

「もうすこし自由になるお金があれば助かるのに…」、

「この病気が治ってくれたら助かるのに…」などなど。


私自身も、そのような「このままでは困る」という想いがいくつもございまして、

そこで、私は一体どのようになれたら心底助かったと言えるのだろうか、

と考えてみましたところ、天才バカボンのパパじゃありませんが、

『これでいいのだ』という心になれた時こそ、

本当に助かったと言えるのではないかと思うのですね。


『これでいいのだ』というのは、仕方が無いと諦める心ではなく、

このままでよい、これでこそよかったのだと感謝して受け入れる心です。

生身で生きているのですから、痛い辛いがあるのが人生です。

困難が無い人生なんて在り得ないでしょう。

しかし、その困難の中に、神様の御心を見出すのが信心であります。

神様が可愛い可愛い氏子に対し、わざわざ氏子が困るようなことを差し向けておられる。

ですから、こちらとしては、その差し向けられた困難の中にある

「おかげ」をしっかりと受け取ろうじゃありませんか。


病気なら病気のままに、その病気を神様からのお差し向けとして、

その病気をしっかりと味わい、そこで自分の生き方を見つけていく。

病気になったおかげで、健康のときには分からなかった人生の別の価値がわかり、

他人の病苦が察せられるところから、本当の意味で病人を慰めることができる。

自分はそのためにこそ病気になったのだ、 

これでいいのだ、これでこそよかったのだと思えた時、

失ったものより遥かに大きなものを、私たちは手にしたことになるのです。
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