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真実の道

『人間、生身に痛いかゆいは当たり前である。
…これがもとで信心もできるようになり、これが修行になって信心も進んでくる。人間は勝手なものであるから、痛いかゆいがあるとご信心できるが、なにもなかったら信心が寝入る』


一見「不幸」に見えることの中に、
神様の願いがどれだけ込められているかということを考えさせられます。

中国・唐の時代、大寧院可弘(だいねいいんかこう)禅師は、
「この道さえ歩いてゆけば、絶対にまちがいのない真実の道とは、一体どのようなものか」
と問われ、
たった一言、
「七転八倒」
と答えられたそうであります。

普通なら、何度転んでも起き上がる「七転び八起き」という言葉を期待するところですが、
禅師はそうではなく、転びっぱなし、倒れっぱなしの「七転八倒」。
つまり、失敗の連続こそが真実の道だ、と弟子に教えたのです。

人間というのは、どこまでいっても未完成、不完全であり、
生きていれば必ず、転んだり倒れたりを繰り返すものです。

しかし、その転んで倒れることの中にこそ、
私たちが求めてやまない人間的な成長、生き甲斐があるのも事実でしょう。

例えば、病人へのお見舞いでも、自分も同じ病を患ったことがあれば、
心のこもった慰めの言葉が出てくるものです。

そして、そのように人を慰めることで自分自身が慰められるという働きにも気付くことが出来るでしょう。
それは「病」という一つの石に転んで倒れた経験のおかげなのです。

信心も同じことで、苦悩や絶望が縁となって、神様の願いに気付かせていただき、
真の生き方に目覚めるのです。そこから自然と手が合わさるようになります。

肉眼で見れば災難であることが、
信心の眼で見れば、それは神様からの「プレゼント」なのです。

ですから痛いことも辛いことも、七転八倒している真にその時、
その出来事の中にどれだけの願いが込められているか、
どれだけの飛躍の種が詰められているかということに心を向けなくてはなりません。

影は形に添う

ロンドンにある世界遺産ウェストミンスター寺院の地下室には、次のような碑文が刻まれています。


何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。
ところが、年を重ねて賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。

そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。
だが国も変わらなかった。

老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。
自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。
だが、悲しいことに、これすらままならなかった。

今、私は死の床についている。
なんと、今になって初めてわかったのだ。
変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。

自分が変われば、家族も変わっただろう。
そして家族に励まされ支えられながら、国をよくすることもできたろうし、
やがては世界を変えることすらできたかもしれないのだ。


人間は、自ら背負った運命というものを、
明るい方向へも暗い方向へも変え得る力を与えられて生まれてきています。
それだけに難しい問題も多々あるわけですが、
運命を明るい方向へ展開してこそ人間に生まれてきた甲斐があるというものです。 

本気で自分の運命を開き、今の環境を改善したいと願うのであれば、
唯一自分自身で変えられるもの―自らの心―を改めなければなりません。

雨が降ろうが陽が照ろうが関係なく、いつも心が晴れ渡っている。
周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、
その有り難い心を持って人に親切にし、物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。
そのような本当にしっかりとした人間にならせていただくことを願い、
実践することが心を改めるということです。

幸せや成功は、言わば私たちの心の影です。
影は形に添うのが道理です。自分の心を変えることで自分の運命が、
人生が変わっていくのです。このことを決して忘れてはなりません。

話を聞いて助かる道

このお道は、「話を聞いて助かる道」と説きます。
聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのですね。
本日はこの教えにつてお話ししたいと思います。

さて、「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるかも知れませんが、
まことに通じるところがあります。

赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。
声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分かりません。
母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、
それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。
それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。
なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。

人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。
聞くことなくして、話すことなど出来はしません。

耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。
それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から人の心を受け取っているのです。
その受け取るということがなければ、自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。

ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、
相手の心を受け取っていなければなりません。
ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、
自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、その結果、
誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。

愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、
その時こそ相手の本音が出ているわけですから、身を入れて本気で聞かせて頂き、
その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、
それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 
聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」と
はねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。

聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。
祈りを込めて聞くかということが一番大切なのです。

神に会おうと思えば

『神に会おうと思えば、庭の外へ出て見よ。
空が神、下が神。』


「神様を信じよ」と言われても信じるのは大変難しいことでしょう。
なぜ信じられないかと言えば、目には見えないものだからです。
目に見えないものは、いくら人から説明されてもやはり見えないものですから、疑えばキリがありません。

しかし、この世の実際は、目に見えないものが、目に見えるものを支えています。
美しく咲く花も、目には見えない地の下の根が支えているのです。

たとえ目には見えなくとも、私たちを助け、手を引いてくれる存在というのは、
実は私たちの周囲にたくさん在るのではないでしょうか。
祈りの中で生かさせて生きている。私たちはその祈りに気付いていないだけなのです。

このお道の信心には「後ろ祈念」という言葉があります。
その名の通り、誰かの背中を祈らせて頂くこと。
学校へ行く我が子、会社へ行く夫の後ろ姿に合掌し、お礼を申して無事を願うということです。

合掌と言えば両手を合わせて頭を下げる。
形の上ではただそれだけのことなのですが、単に社交で頭を下げる低頭や、
手を握り合う握手とは違い、相手の地位や身分を尊敬するのではありません。

そこに神様を拝む心、有り難いと感じる心があってはじめて合掌となる。
人の背中に合掌するということも、相手の中におられる神様を拝むことに他なりません。

「どうぞ、あなたの中の神様がお働き下さり、今日一日、幸せに過ごせますように」と念じて、両手を合わせる。
それが合掌するということなのです。

そのようにして、人の背中に手を合わせることが出来るようになると、
だんだんと自分自身も有り難い心持ちになってまいります。
何が有り難いかと言いますと、自分も又同じように誰かに祈られてここまで来たのだ、ということが分かってくる。
その祈りの中で「生かされて生きている」ことが実感出来るようになる。
そのことが大変有り難いのです。

真に教養のある人とは

『人の身が大事か、わが身が大事か。
人もわが身も人である』


子供の純粋な心に差別意識を植え付けるものとは、一体何でしょうか。
その具体例として、このような話があります。

三歳ぐらいの子供を連れた母親が、
水道工事をしている人たちのそばを通りながら言います。

「おじさんたちが、こうして働いていて下さるおかげで、
 おいしいお水が飲めるのよ。ありがとうと言って通りましょうね。」

同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。
子どもに向かって言いました。
「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられます。
子どもは親や教師の「いう通り」になりませんが、「する通り」になると言われます。

最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、
労働への感謝の念を子どもの心に植え付けたのに対し、
二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植え付けたのです。

『人は生まれながらにして平等である』という言葉がありますが、
この資本主義社会を見てみれば、生まれた環境によって、
生活水準も受ける教育も大きく違ってきます。
経済的な観点から言えば、「平等」とは程遠いのが現実ではないでしょうか。

『人もわが身も人である』という教えは、
みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、
「自分」や「他人」などという区別など、もともと無いのであるということです。

私たちの「いのち」というものは、他の多くの「いのち」と繋がり、支え合って存在しているのです。 
ですから、経済的には上下はあっても、「いのち」には上下などありません。
あるのは繋がりなのです。

ですから、真に教養のある人とは、
今の自分の幸せを人に分けてあげられる人のことを言うのです。
そして、自分の幸せを人と分かち合うところにこそ、本当の幸せがあるのです。
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