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わが計らいを去って神任せにせよ

『何事にも無理をするな。我を出すな。
 わが計らいを去って神任せにせよ。
 天地の心になっておかげを受けよ』

我というものは、一つの事にこびりついて動かぬものを言います。

物事に対しては、こうでなければならない。

人に対しても、こうあるべきだ。そのような拘りから、心配や腹立ち、不足の心が出てくるのですね。

人間関係を例にとってみますと、あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、

その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなる。


それがもっと広い心にならせて頂ければ、人を決めつけたりせず、

相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、何故そういうことをしたのだろうか、

何か訳があるに違いないと、その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、

十分に察することが出来るようになる。

一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるのです。

では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。

ここが肝心なのですが、そもそも「我」とは、

自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。

「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。

しかし、そのような「我」がある為に、

有難いという心になれず、本気で頭を下げることが出来ない。

さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないことです。

それが故に、人から諭されようが、責められようが、

かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。

ただ、そのような強力な「我」というものにも、唯一の弱点があります。

それは、教えを聞いて自分自身で詫びることです。

「我」というのは、自ら気付き、恥じ、詫びることによって、不思議と消える。

信心とは、自らの我を詫びていくことと言っても過言ではない。

そのために教えを聞くのですね。

一年一年ありがたく

『信心は、一年一年ありがとうなってくるのでなければ本当ではない。』

茶道を大成した千利休(せんのりきゅう)の歌にも、このようにあります。

「稽古とは 一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一」

一、二、三…と習い、十まで知ったならば一に戻って、

再びもとの一を習う時、習う人の心は全く変わっているものです。

端から見ればもとの一は同じように見えますが、

習っている本人にとってみれば、最初に習った時と異なっている。

このことが人の進歩につながるのであって、十を知り、もとの一に戻らぬ人は、それ以上の進歩は望めません。

元日とは暦の上での「一」ですね。新たな一年を迎えた感動の中で、「今年こそは」という願いを立て、

感謝と反省を胸に神仏に手を掌わせる。

そして、今日という一日を出来る限り大切に過ごそうとする。

そのような「元日の心」を毎日続けさせて頂くことが、そのまま信心となります。

ですから、元日の今日。この感謝の心持ちを、しっかりと味わい、保っていき、

そうしてどのようなことに出遭っても自分から離れないように心掛けることが大切です。

信仰上の修行というのも、もともとはそのためにあるのです。

木魚を叩いて念仏を唱えたり、断食をしたり、山に登ったり、川を渡ったり。

それらはすべて、その間に感じる、何とも言えぬ有り難い心を自らに覚え込ませ、

自らがそのように成り切るために、させて頂くことであります。

このお道では、体を痛めつけたり我慢したりする修行はありません。

その代わりに、「元日の心」を持ち続けることを修行とさせて頂きます。

あらためて一を習うと、その一が、きわめて新鮮になり、また違った経験が得られる。

そこから次に向けての工夫が生まれるのです。

日々させていただく信心生活が、一年一年、有り難いという想いが

増えていっているか、そうでないかが重要なのですね。

人を叱る前に

『子の頭を叩くより、
 親である自分の頭を叩けば、すぐおかげになる』

嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれると言いますが、

この閻魔様がどういう神様なのかは、あまり知られておりません。

閻魔様というのは大昔のインドの宗教の神様ですが、

神話によると、人類の死者の第一号が閻魔様であり、後に、

死者の生前の行為を記録によって賞罰を司る神様となったのだそうです。

閻魔様はたいへん恐ろしい顔をされておられますが、実はやさしい地蔵菩薩の化身であり、

心の中では「もうこんな罪悪を犯して、こんな所に来るのではないぞ」と叫びながら、

再び罪悪を作らせないように恐ろしい顔で叱咤しているのです。

そして人を裁く前には必ず、火で真っ赤に熱した鉄丸を飲んで死んで、

生き返って罪人の前に立たれているのです。

熱した鉄丸を飲んで死にきるとは、自らの執着心を捨て切った上で人を裁くという厳しい誓いの表れであります。


生身の私たちが熱した鉄丸を呑むなどとても出来はしませんが、

人を裁くということはそれだけの覚悟が必要であるのだということを、よくよく考えなければなりません。

家庭でも会社でも、自分が上の立場に立ってみると、ついつい頭ごなしに叱りつけたり、

偉そうに言ってしまいがちなのですが、偉そうに言う割には自分も出来ていなかったりすることがあるので、

相手にも本当に正しいことが伝わらないのです。

相手を叱る前にまず自分を見よ、というのが教えの要諦であります。

まず自分自身を省みて、自分自身を叱った上で、相手を叱る。

自分をしっかりと見つめれば、人を叱れるほど立派な人間ではない。

そんな未熟な自分が役割の上で相手を「叱らせて頂く」のであります。

その心持ち、「とても人に偉そうに言えるような私ではありません」と本気で思えた心持ちになってはじめて、

相手の心にも響くものがある。

人を叱る前には、閻魔様が熱した鉄丸を飲まれる場面を想像してみるのがよいでしょう。

祈られていること

ある信奉者の方から、このような話を聞かせて頂いたことがあります。

「ある朝、学校へ向かう我が子の後ろ姿に手を合わせ送り出したとき、
 私も又このように祈られてここまで来たのだ、という実感が湧きました。」

我が子の後ろ姿を祈って送り出す自らの姿の中に、自分の親の祈りを見出し、

その祈りの中で自分が親として、我が子に祈りをかけている。

大変尊いことに気付かれたことであります。


お道の教えにこのようにあります。

『我が子の可愛さを知りて、神の氏子を守り下さることを悟れよ』

神様は人間の親であります。親が子を思う親心を通して、神様の氏子にかけられる御心を悟ったとき、

信心は生きたものになるのです。

親は、たとえ子どもが親の恩を分かっていなかったとしても子どもの世話をし続け、心を配ります。

そして、子供の至らないところは、改まり成長できるよう、祈りに祈りながら長期に亘って時節を待っているのです。

私たちが逆境の中で「助けて下さい」と神様に祈る遙か前から、

実は神様から先に、私たちのことを祈って下さっているのです。

神様が分からぬ、信心が分からぬということなど、さしたる問題ではありません。

大切なことは、この自分というものは、祈りに祈られている我が身であることに気付くことであります。

「祈り」とは神様に願い、問いかけることであるように考えられていますが、

本当はその逆で、願われ、問いかけられているのは祈っている自分自身なのです。

起きている事実を通して、自分自身が神様から「より良くなってくれ。助かってくれ。」と、

祈られ、問いかけられているのです。

神様だけではありません。自分以外の多くの人々からも願われている我が身なのです。

祈りを捧げるということは、その自らにかけられた祈りに応えて、

自分の生き方をより良くしていく決意をすることに他ならないのです

どんな時も見ておられる

「ほんもの」と「にせもの」

「ほんもの」と「にせもの」は
見えないところの在り方で決まる
それだのに「にせもの」に限って
見えるところばかりを気にし 飾り
ますます「ほんとうのにせもの」になっていく
(東井義雄)

人間の品というものは、その人全体から出るもの。生命全体の言わば調子なのですね。

人間、自分のやましい部分は隠そう隠そうとするものですが、

隠したいと思うものほど、実は表に出てくる。

お金・モノの扱い方、性生活や家族への接し方…。

自分の生命と密接に繋がっている事柄ほど、隠そうとしても必ず表に出てくるのです。

それらを正しくしている人は、それがだんだんとその人の生き方の

調子となって表れてきて、次第に品の良い生き方となる。

逆にそれらを乱していると、それがその人全体の生き方、調子の狂いとなって表れてくる。

そこで品が悪くなっていくのです。

他に知れる、知れぬの問題ではありません。

知られるか、知られないかは、隠しさえすればごまかせるかも知れない。

しかし、誰に知られなくとも、自分の生命の芯に狂いが生じたらどうにもならないのです。

財力があっても名声があっても、生命それ自身が狂ってしまったら、どうすることも出来ません。

「にせもの」の横道はこの人生にいくらでもありますが、それらは皆やがては必ず行き詰まる。

その行き詰まりは大変苦しいものですが、実はそこが真に有り難いのでありまして、

行き詰まるからこそ引き返す気にもなるし、神様を信じることも出来るのです。

信心をさせていただくということは、この天地の神様に恥じない生き方をさせていただこうと心掛けることであります。

どんな時も、「神様が見ておられる」とわが心に問うことなのです。
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