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心配するな

一休禅師のエピソードに、このようなお話があります。

一休禅師は八十七歳という当時としては非常に高齢で亡くなられましたが、

その亡くなる直前に弟子たちに、

「この先、本当に困ることがあったら、これを開けなさい」

と一通の封書を残されたそうです。


数年後、寺に大変な問題が持ち上り、どうしようもないので、

弟子たちは集まって、その封書を開いてみると、なんとそこには、

 『心配するな

 大丈夫

 なんとかなる』

とだけ書かれていました。

とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと明るさを取戻し、

難しい問題を解決できた、という話です。

本当の話かどうかはさておき、一休禅師らしいユーモアたっぷりのお話であります。


人生には色々なことが起こります。嬉しいことも、辛いことも。

しかし、そのすべてが神様からのお差し向け、言わばプレゼントなのです。

途中で何があっても、後から振り返ってみると、それは、それでよかったこと。

いのちの糧となっていくのです。

お道の教えに、このようにあります。

『心配は体に毒、神様にご無礼である。心配する心を神様に預けて、信心する心になるがよい。』

何かできる時には、そのことを精一杯させて頂けばよいですが、

どうにもならないことを自分の力でどうにかしようと思うと、解決がつかず、ますます苦しくなっていくものです。

ですから、どうにもならないことはまな板の上の鯉のように自分を神様にすべて投げ出し、お任せする。

心配する心は神様に預けてしまいなさい、と教えているのです

そのように神様に任せきり、凝り固まった考えから放れることができれば、

物事は自然と好転していくものです。

心配するな、大丈夫、なんとかなる。

このことを忘れてはなりません。

心を込めて

「話すこと」と「聞くこと」とは、まるで違うことのように思われるのですが、

まことに通じるところがあります。

赤ん坊は生まれてすぐに話すことは出来ません。

声をあげて泣いてはおりますが、何を言っているのかは分からない。

母親だけは不思議とそれが何を言おうとしているのか分かるようですが、

それでも赤ん坊が話しているとは言えないでしょう。

それがいつの間にやら、皆にも分かることを話すようになる。

なぜ話せるようになるのかと言えば、それは周囲の人の話をしっかりと聞いているからなのです。


人の話を聞いて、だんだんと分かるようになり、それで、皆にも分かることを言うようになる。

聞くことなくして、話すことなど出来はしません。

耳の聞こえない方であっても、手や唇で話される。

それも同じことであって、耳で聞く代わりに目や体の一部から、

この天地自然、人の心を受け取っているのです。

その受け取るということがなければ、

自分の思いを表現でもって人に伝えることなど出来はしません。


ですから人が話をする時には、日頃から心を込めて聞いて、

相手の心を受け取っていなければなりません。

ただぼんやりと耳を向けている、心を込めて聞いていないようであっては、

自分が話すことも自分勝手でとりとめのない話しか出来ず、

その結果、誰も自分の話を聞いてくれないようになる。これは当然のことなのです。


このお道は、「話を聞いて助かる道」と言います。

聞くという行為の中に徳が備わっていて、そこに神様がお働き下さるのです。

愚痴や不足を聞くのは誰でも嫌なことでしょうが、

その時こそ相手の本音が出ているわけですから、身を入れて本気で聞かせて頂き、

その場限りで解消してしまいさえすれば、「愚痴」と名をつけるまでもなく、

それは有り難い「打ち明け話」となるのです。 

聞き手が「うるさい、くだらない、聞きたくもない」

とはねつけた瞬間にその話には「愚痴」という名がつくのです。

聞くことに、どれだけ心を込めて聞くか。祈りを込めて聞くか。

ここが肝心であります。

良いもの、悪いもの

雨が降ると「天気が悪い」と言います。

ところが、それならずっと雨が降らなければ良い天気かと言えば、

それも困ることがあって「雨よ降れ」と言う。

そうして雨が降れば「良い雨だ」と言う。


私たちの「良い」「悪い」というのは、雨そのものを言うのではありません。

降って欲しい時に降る雨は「良い」ものですし、降って欲しくない時に降る雨は「悪い」ものです。 

どこに良い悪いがあるかと言うと雨そのものではなく、関係にあるのです。

生きている者と雨との関係がどのようなものか。そこに、良い悪いが生まれてくるのです。

雨だけではありません。人もまたしかりです。

自分については、いつも同じ自分だと考える。

他の人については、あの人はどのような人間で、良いとか悪いと決めつけてしまいがちなのですが、

本当はそうではありません。

自分のことで考えてみても、いつも同じ自分ではないはずです。

会う人との関係によって自分も変わるのです。

先生と会う時、友達と会う時、子供と会う時。

親しい人と会う時と嫌いな人と会う時とでは、決して同じ自分ではないはずです。

雨に対して良い悪いと、雨だけを見て決めつけているのと同じように、

人に対しても、その人だけを見て良い悪いを決めつけているのです。

たとえ雨が降り続いても、その雨との関係を良くできさえすれば、

「困った雨だ」とか「悪い雨だ」と言わずに済むようになります。

人に対しても同じように、自分が悪い、相手が悪い、という視点から離れなくてはなりません。

良いとか悪いとかいうことは程度の問題であり、

良いと言えば皆が良いとも言えるし、悪いと言えば皆が悪いとも言える。

人間を知れば知るほど、そう単純に良し悪しなど言えないことに気付く筈です。


白と黒、善と悪の間に人間があります。

そして、そのどちらにもいくことが出来るのです。

ですから人と人、人とものとの「関係」を願いましょう。

その関係が少しでも良くなるように、強くなるように願い、

出来る限りのことをさせて頂くことが肝心であります。

日に日に生きる

お道の教えに、このようにあります。

『日に日に生きるが信心なり。』

一日一日、日は経つ。夜が明けて日が暮れる。

毎日が同じことの繰り返しのように思われるのですが、決して同じではない。

この「同じではない」ということが大切なところであります。

何事も続けていけば慣れるものです。

「慣れる」ということは、以前よりも早く上手に物事が進められるようになることですから、

慣れること自体は悪いことではありません。


しかし、仕事でも交際でも慣れてきますと、一番大切な「同じではない」という思いが抜け落ちる。

一日一日、その時その時が新たなのだという思いが抜け落ちるのです。

それでは台無しです。


一番大切なことは、その今までと違った、今日の生き方がどうなっていくかということ。

その生き方をよい具合にしていく為に、慣れるということが要るのです。

慣れるということだけでいいことなどありません。


「おはよう」一つでも、ただの口癖になっているというのではいけません。

今朝の「おはよう」は、これまで何千、何万回と言った言葉かも知れませんが、

これまでに言ったことのない「おはよう」を心掛けていくのが、信心であり、幸せになる秘訣なのです。


昨日まで言ったことのない、よい「おはよう」を今朝言おう。

そこから一日の事を始めましょう。


出掛けて家に帰る時にも、今朝出た時よりも、帰るときにはもっとよい私になって帰ろう。

そのような気持ちで帰る。

ですから、「ただいま」と言うことでも、今までに何千、何万回と言った言葉かも知れませんが、

これまでに言ったことのない「ただいま」を心掛けていきましょう。

そうすると、一日一日の生活全体が、だんだんとよくなってまいります。


「生きる」ということはただ漫然と日々を過ごすのではなく、何かを生み出していく働きです。

何を生むか。生むものによって自分の価値が決まります。

おかしなものを生んでしまっては、この自分というものが台無しです。

ですから、「日に日に生きる」という教えを心の芯に頂くことが大切なのです。

有難い心持ち

自分の子どもに対して、お金を遺してあげるとか、

教育をつけてあげるというのも愛することには違いありませんが、

一番大事なことは、事に当たった時にいつでも「有り難い」と思える人間に育てることが出来たならば、

私は一番親として安心であろうと思います。


例えばお金は自分が仕事をしたことがお金になって残っているのですから、

少々のお金を遺してもらうよりも、

どんな仕事でも厭わず有難く働くことの出来る人間に育ててもらうほうが、

どれほど生涯楽をするかも知れないと思うのです。

貧乏になると人間が卑屈になったりしがちな側面も確かにあるため、気をつけることも大切ですが、

それは気を付ければまだ防ぐことが出来るでしょう。

しかし、裕福な家庭で育つ子どもに、

物を粗末にしない習慣、人を軽んじない習慣、仕事を自ら進んでする習慣を養うことの方が

はるかに難しいことですから、子どものためには、お金の無い方が実は幸せなのかも知れません。


教育も同じことで、いくら学歴が高くなっても、

心の内に有り難いという心を植え付けてあげることが出来なければ同じことだと思うのです。

ですから、子どもに対して、また誰に対してでも、

人を愛して大切にする道とは唯一つ。

それは、その愛する人自身がどのような事に出逢っても

「有り難い」と思える人間になれた時こそが当人の一番の幸せでありますから、

そうなれるようにしてあげることこそが肝心なのだと思います。


では、それはどうすれば出来るかと言えば、

まず自分自身が有り難い心持ちの人間になること。これに尽きるのです

自分が不平不満ばかりであって有り難いという気持ちでなかったら、

いくら子どもにそういう心持ちになれと言っても、それは子どもには分からないでしょう。

いい加減に聞くのが当たり前です。

ところがもし自分が有り難いという心持ちになれれば、

口では何も言わなくとも、きっとその心は子どもの芯に響くと思うのです。

まずは自分自身が有り難い心持ちの人間になること。

それが何よりもの子どもへの贈り物となるのです。
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