FC2ブログ

神様の仕事

『仕事をするというから神は見ている。

仕事をさせていただくという心になれば、

神はつきまとってさせてやる。』                     

ノートルダム清心学園の理事長である渡辺和子さんは、

幼少の頃に二・二六事件で最愛の父親を目の前で亡くされます。

その後は家計を支えるために、米国の方々のもとでキャリアウーマンとして、

ただひたすらに合理性と効率を追求し働かれました。 


しかし三十歳のとき、家族の反対を押し切って入った修道院では、

配膳や洗濯、草むしりなど、いわゆる単純作業の毎日。

渡辺さんも当初はそのギャップに大変戸惑っておられたそうです。

そんなある日のこと、渡辺さんがいつものように配膳の仕事をしていると、先輩のシスターから声を掛けられました。

「あなたは何を考えながら、お皿を並べていますか?」。

渡辺さんは、まさか「つまらない、と考えながら…」とは言えず、

咄嗟に「別に何も考えておりません」と答えました。


するとそのシスターは、にっこりと笑って、

「一枚一枚のお皿を並べて置く時、ここに座る人が『お幸せでありますように』と、

祈りながら置いてみてはどうですか?

そうすれば、お皿を置くという、ただそれだけの仕事も、神様の仕事となるのですよ」


渡辺さんはこの言葉のおかげで、この世に「雑用」

という仕事など無いということがよく分かった、とおっしゃっています。

同じ仕事でも、「雑用」になるか、

「神様の仕事」になるか。それは私たちの心の持ち方次第です。


自分が「する」、「してやってる」と思って行う仕事には、必ず不満と不足が伴います。

それは、自分のものさしで仕事の大小、上下を決め、

自らの心から「つまらない仕事」「取るに足らない仕事」「雑用」を生み出してしまうためです。


一方、「させていただく」と思って行う仕事には、感謝と満足が伴います。

それは、仕事の大小に関係なく、仕事を通じて誰かの幸せを願い、

誰かの役に立とうとする願いが心の中心があるためです。


この心で行えば、仕事は何でも神様の仕事となるのです。

神が生まれる

『生神ということは、ここに神が生まれることである』

室町時代に活躍した浄土真宗の僧、

蓮如上人がある田舎町に訪れた時のことです。

糸を紡いでいた老婆が蓮如上人に向かって、

「私は糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱えております」と言いました。

老婆は心の中で、蓮如上人がきっと満足の意を表されるであろうと期待していたのですが、

蓮如上人からは思いがけない答えが返ってきました。

「婆様、そうではない。念仏を唱え唱え、糸を紡ぎなされよ」

「糸を紡ぎ紡ぎ、念仏を唱える」とは、糸を紡ぐという仕事をしながらも信心を忘れずにいる、

ということですが、蓮如上人はそれではいけないと。

そうではなくて「念仏を唱え唱え、糸を紡ぐ」。

つまり、信心を中心に置いて、糸を紡ぐという仕事をしなさい、と老婆に教えられたのです。


仕事をしている自分がいて、その自分が信心をしているのであっては、

仕事が行き詰まった時、自分自身が行き詰まった時、助かる道はありません。

信心を中心に置けば、神様が中心に居られることになる。

神様が中心に居られて、信心させて頂いている自分が神様の手足となって働かせて頂くのですから、

仕事が行き詰まっても、自分自身が行き詰まっても、それを乗り越える力を与えて頂けるのです。


通例、神様というのは我々人間とは別にあるように思われていますが、

そうではなく、人間の中に現れる神様、生きた神様なのです。

それが人間が迷いや欲に引っかかっているから、神様が現れることが出来ない。奥の方に押し込められている。

それでは助かる道がありません。


「自分がする」ではなく、すべて神様に「させていただく」。

神様のお仕事を自分の手足を使ってさせていただき、

神様の生きておられる生き方を、自分の生活をもってさせていただくのです。

そこにこそ、助かる道があるのです。

罰を当てない神様

『神様は叱ってはくださっても、罰はお当てなさらない。』

悪いことをすれば天罰が下ると言いますが、

悪いことをした人間に罰を当てよう、罪を償わせようとするのは人間であります。


神様は人間の親であります。自分のことなど忘れ、

助けずには居られないのが親心というものですが、

同じ親でも、神様は人間の親よりも遥かに気が長く、心が広い。

責めるところが一切無い為に、ものを言われることもないのです。

どこまでも助けてやろう、どこまでも救ってやろう。

よしお前がどんなに悪い者であろうとも、どんなにつまらぬ者であろうとも、助けずには居られぬ。

悪ければ悪いだけ、つまらないならつまらないだけ、なお助けずには居られない。

信心とは、神様が自分を愛し、許して下さる親であることを知ること。

神様がいつも自分に寄り添って、この人生を共に生きて下さっていることに気付くことなのです。


そして、そのような罰をお当てにならない神様から、

私たちは「許す心」を学び、頂くことが大切なのです。

人間というのは、どこまでも許されないと助からない。

少しでも責められることがあっては助からない。そういう生き物であります。

小さい子供が育って行くのは親が許してくれるからであり、

私たちもそれでここまで育って来たのです。

仮に子供が何か失敗をしたとしても、その失敗には何か訳があるのだろうと、

親は子供の立場に立って解釈してくれる。その優しさが子供を育てる、落ち着かせるのです。

しかし、そのような許す心を他人に対して持つのは、何と難しいことでしょう…。

他人を責め、押しのけ、恨み、憎む。そんな我が子の姿など、親は見たいなどと思わないでしょう。

相手を許し、助けようとする。そんな大人に育ってもらいたい。

だからこそ、神様はその見本として、決して人を責めず、罰をお当てにならないのです。

やった者にしか分からない

「真にありがたしと思う心、

 すぐにみかげのはじめなり」


修行が大事などと言いますと、

「そんなことやって何か意味があるのか」などと言い出せばきりがないものですが、

そこで我が身、我が心を通して実際に修行をしてみると、

日々繰り返し続けるその中に、必ず見えてくるものがあります。


古人の言葉にあるように『それはやった者にしか分からない』ものなのですね。

これは自分にとって大変なことだとか、苦しい修行をすること自体に価値があるわけではなく、

神様に「させて頂きます」とお願いをし、自ら進んで自らに課した修行をしたときの、

その時の自分の心を見ていくことに大変価値があるのです。


例えば、このお道には御祈念修行というものがありますが、

これは只ひたすら、朝から晩まで御祈念を唱え続けるというもの。

1時間もすれば喉が渇いて声がかすれてきますし、2、3時間で意識が朦朧としてくる。

実際にさせて頂きますと、なかなかの苦行であります。


そうしますと、最後あたりは自分が唱えているのか神様が唱えて下さっているのか、

よく分からない状態になってくる。

自分の力で修行をしている、というような気持ちが無くなり、

最後までやり遂げさせて頂けるところに感謝の念が生まれてくる。

そういう経験を毎日させて頂けば、理屈は抜きにして、

「神様、有り難し」というものが心と体に染み入ってくるのです。


そして、有り難い心が自分の中に生まれますと、

人を責めたり、愚痴・不足を言ったりといったやましい心は一切無くなって、

曇った心も明るくなり、自分の方から周囲に対して

有り難い心を現していきたいという気持ちが起こってまいります。


みかげというと、自分の周囲が自分にとって都合良く動いた時によく言われたりするものですが、

周りの環境がどうであろうとも、自分自身に有り難い心が定まっていて、

その有り難い心を持って人に親切にし、物事にあたっては実意丁寧な生き方ができるようになる。

それこそが、真の助かりなのです。

繋がり

子供の純粋な心に差別意識を植え付けるものとは、一体何でしょうか。

その具体例として、このような話があります。

三歳ぐらいの子供を連れた母親が、水道工事をしている人たちのそばを通りながら言います。

「おじさんたちが、こうして働いていて下さるおかげで、おいしいお水が飲めるのよ。

ありがとうといって通りましょうね。」


同じところを、これまた幼い子を連れた別の母親が通りかかります。

子どもに向かって言いました。

「坊やも勉強しないと、こういうお仕事をしないといけなくなるのよ」

価値観はこのようにして、親から子どもに伝えられます。

子どもは親や教師の「いう通り」になりませんが、「する通り」になると言われます。

最初の母親は、人間はお互い同士、支え合って生きていること、

労働への感謝の念を子どもの心に植えつけたのに対し、

二番目の母親は、職業に対する偏見と、人間を学歴などで差別する価値観を植えつけたのです。

『人は生まれながらにして平等である』という言葉がありますが、

この資本主義社会を見てみれば、生まれた環境によって、

生活水準も受ける教育も大きく違ってきます。

経済的な観点から言えば、「平等」とは程遠いのが現実ではないでしょうか。


お道の教えにこのようにあります。

『人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身も人である』

これは、みんな同じ人間なのだから仲良くしましょうという意味ではなく、

「自分」や「他人」などという区別など、もともと無いのであるという、まことに深遠な教えであります。

私たちの「いのち」というものは、他の多くの「いのち」と繋がり、支え合って存在しているのです。 

ですから、経済的には上下はあっても、

「いのち」には上下などありません。あるのは繋がりなのです。

ですから、真に教養のある人とは、

今の自分の幸せを人に分けてあげられる人のことを言うのです。

そして、自分の幸せを人と分かち合うところにこそ、本当の幸せがあるのです。
ランキングに参加しております!
いつもクリック頂き、        誠にありがとうございます。   アヒルちゃんとネコちゃんを     1日1回ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking 人気ブログランキングへ

お越し頂きありがとうございます!
ご連絡はこちらよりどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター