世界的ロングセラーであり、自己啓発書の元祖とも称される
デール・カーネギー著『人を動かす』の冒頭には、
「人を説得しようとすることは無駄である」と書かれています。
「人を動かす」というからには、議論を上手く進めて人を説得するのだろうと思いきや、まったく違うのです。
それどころか、人との議論は出来る限り避けよ、と教えています。
何故なら、議論をしても結局、お互いがますます「自分の意見が正しい」と思い込んで終わるだけだからだ、と。
「たとえ議論に勝ったとしても、相手の意見は決して変わることはない。」
これが長年人間について研究を重ねたカーネギーの結論だったのです。
では、どうすれば人を動かすことが出来るというのでしょうか?
カーネギーはその方法は唯一つしかないと断言します。
それは、「相手の欲しがっているものを与える」ことだと。
そして、相手が欲しがっているものとは、理解と感謝なのだと。
人を説得するのではなく、まず相手を理解し感謝の心で接する。
つまり、求めるのではなく、与えることに注力する。
それがカーネギーの発見した「人を動かす」秘訣だったのです。
お道の教えにも、このようにあります。
『おかげ(幸せ)はたらいの水である。
向こうへやろうとすれば、こちらへ来る。
こちらへ取ろうとすれば、向こうへ行く。』
たらいの水を、向こうへやろうとするか、こちらへ取ろうとするか。そこに幸せと不幸せの分かれ目があるのです。
自分の幸せばかり追い求めても、与えることなし に真の幸せは得られません。
相手にこちらの期待通りに動いてもらおうと思うのではなく、むしろこちらから相手の期待通りに動きたいと願うこと。
それが信心です。
たらいの水を向こうへやろうとするように、「まず自分から与えよう」とする心を忘れてはなりません。
白隠禅師に、このような逸話があります。
ある檀家の娘が出産をしたのですが、娘の父親が一体誰の子かと問い詰めましたところ、
娘は頑として男の名前を口にしません。怒った父親がなおも激しく問い詰めたところ、
娘は恐れのあまり、咄嗟に「白隠禅師です」と嘘をついてしまうのです。
父親が日ごろから敬愛している白隠の子であれば、きっと許してくれるだろうという娘の浅知恵でした。
しかし、娘の父親は白隠のところに駆けこむや、
「この生グサ坊主!お前の子だ、受けとれ」と怒鳴りながら、赤ん坊を突き出しました。
もちろん白隠は、身に覚えのないことです。
ところが何の言い訳もせず、「ああ、そうか」と赤子を受けとりました。
この出来事により、白隠の名声は地に堕ち、近所の大人たちから罵倒され、
子供たちからは石を投げつけられ、大勢の弟子たちが去って行きました、
それにもかかわらず悠然ともらい乳をして歩き、赤子を親身になって育てる白隠の姿に、
娘もこらえきれなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親は、すぐに白隠に非礼を詫び、赤子を返してほしいと恐る恐る申し出ました。
すると、白隠は怒ることなく、
「ああ、そうか」とだけ言い、赤子を返したそうです。
このことがあってから、以前にも増して信者や弟子が白隠のもとに集まってきたそうであります。
さて、お道の教えに『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』とあります。
自分の人生で起こる出来事は、自分の魂が書いたシナリオ通りだと信じることができた瞬間から、
この人生はものすごく楽になります。
白隠禅師がなぜ、すべての出来事に対し、不足も言わず、執着もせず、「ああ、そうか」と受け入れられたのか。
それは、「お前が父親だ」と言われたその時に、それもまた自分の人生のシナリオ通りであると、悟られたからではないでしょうか。
私たちの身に起こる様々な事も、すべてシナリオ通りなのです。
そう、最高・最良・最善・最適の選択をして、今、ここにいるのです。
山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)と言えば、幕末・明治の政治家として、
また無刀流を開いた剣術の達人として大変有名な人物であります。
鉄舟はさらに熱心な禅修行者でもありましたから、道場においても弟子達に対し、
剣の稽古だけではなく、事あるごとに禅の教えを説きました。
ある日のこと。鉄舟が道場でいつものように禅の教えを説いていますと、
そのことを苦々しく思っていた若い一人の門弟が得意気に声を上げます。
「先生、今朝、私は家からこの道場へ通う途中で神社の鳥居に小便をかけましたが、
この通り何の罰も受けておりません。神仏など迷信です。」
それに対し鉄舟は、間髪を入れず、
「この罰当たりめが!」と大声で叱りつけました。
その門弟はびっくりしたものの、
「先生、どこに罰が当たっているのですか?」となおも逆らいます。
すると、鉄舟は静かに答えました。
「分からないのなら教えてやろう。いいか、神社やお寺の前を通るとき、
きちんと礼拝できるのが、人間の教養というものだ。鳥居に放尿するなど、犬猫のする行為だ。
お前は一人前の人間であり、しかも武士ではないか。
武士たるものが、人間のすることさえできず、犬猫の仕業しかできないのが、どうして罰が当っていないと言えようか」
さて、原因と結果と言いますと、
善い行いをすれば将来善い結果が生まれ、
悪い行いをすれば将来悪い結果が生まれるというのが通例ですが、
本当は、原因を作った時に結果も共に生まれているのです。
お道の教えに、このようにあります。
『真にありがたしと思う心、すぐにみかげ(恩恵)のはじめなり』
有難い心があるから将来助かるというのではない。有難いという心になった、
それがそのまま最善最高の生活で、そこから後はそれが続いていきさえすればよいのであって、
それ以上の生活はないという教えであろうかと思います。
有難い心で神仏に手を合わせることができる、人に優しく接し、物を大切に扱うことが出来る。
有難い心で善い行いができることそれ自体が、喜ぶべき結果であることを忘れてはなりません。
ある方が日本の学校教育に間違いがあるのは、お掃除当番のあることだと言っておられました。
お掃除当番というのは、お掃除をしたくないという前提のもとに、やりたくないがやらされるのです。
そこにお掃除に対する誤解や間違いがあるのだと。
お掃除という自分の仕事があること、
その仕事を通して他人にも喜んでもらえることは、本来楽しいことなのです。
「あなたはやらなくても結構です」と言われるよりも、働かせてもらう方がどれだけ楽しいことか。
このことを教えることが大切なのです。
近年では仕事のことを、「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、
「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、大変多くなってきました。
しかし、仕事を自分の生きていく為の単なる手段として考え、そのためにしなければならない、
しょうことなしの重荷であると考えているならば、いつまで経ってもそのような仕事の仕方しか出来ず、
そのような仕事しか与えられないことになるでしょう。
お道の教えにこのようにあります。
『日々勤める仕事は信心の行であるから、仕事を有り難く勤めれば、日々有り難いおかげが受けられる』
ふつう信心といえば、宮、寺、お堂など特別な場所で、
特別な作法をもって特別なことをすることのように思われがちですが、実はそうではありません。
会社での勤めや、家事や育児といった日常の仕事の中にこそ信心の行があるのです。
「働くことそのものが楽しみでありますように」と祈らせて頂きましょう。
仕事をすること自体を感謝し、何のためというわけでもなく、
自分はどうなるかなどということは忘れて、ただ仕事をすることを喜んでみましょう。
すると、仕事のほうも喜んでくれて、終始一緒に居てくれ、
困った時には仕事が貴方を助けてくれるようになる。それが道にかなうということです。
働いているからこそ、休みが有り難いと思えるのであって、
「あなたは働かなくてもいい」と言われるのは大変辛いことです。
失業してみると、働くことの有り難さに気付くことでしょう。
お道の教えにこのようにあります。
『人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。
信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。
天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、
油断をするな、慢心が出るとおかげを取りはずす。』
自信を持つことは大切なことですが、自信と慢心とは常に紙一重であります。
人間の性(さが)とは悲しいもので、金を持たない者が多少の金を持つようになると、
金を持たぬ者を見下す心持ちになる。
大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。
役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。
人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、醜い相として現れるのです。
しかし、考えてもみて下さい。いくらお金を稼げるようになったからと言って、
また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、
自分の思いや行いが百パーセント正しいなんてことは有り得ません。
気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。
そうなってしまう自分の弱さを自覚することが大切です。
天で頭を打つとは、そのような傲慢さを許さない、
この天地を貫く道理、働きを忘れるな、という御教えであります。
自分の幸せや成功があるのは決して自分の力からではありません。
もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、人の助けも頂いて、
今たまたま自分の力を発揮出来る役割を与えて頂いているからなのです。
自分の力でここまで来た、などと思うのは途方もない勘違いであり、慢心なのであります。
自分の気付かぬところで、どれだけ人の世話になっているか。
一人ひとりに会って直接御礼をすることが出来ないからこそ、
神様を通して御礼をさせて頂くことが必要なのです。