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天職

中世ヨーロッパでは、仕事のことを「コーリング」と言ったそうです。
コーリングとは、召命(しょうめい)、神様に呼び出されることであります。
つまりその仕事を通して、自らの使命を果たすようにと神様から呼ばれて、
与えられたものという意味であり、与えられた仕事というのは、仕事の内容を問わず、
その人にとっては「天職」であったのです。

近年では仕事のことを、「利益がすべて。結果がすべて」などと言ったり、
「生活を保つための手段に過ぎない」などと割り切ったりする意見が、大変多いように感じます。

しかし、もし仕事のことを、利得や名誉などを得るための手段だと考えるならば、
仕事をすればするほどに、どうしても利己的になっていき、堕落していってしまうでしょう。

また、もし仕事を自分が生きていくための単なる手段として、
そのためにしなければならない重荷であると考えるならば、いつまでたってもそういう仕事の仕方しか出来ず、
またそういう仕事しか与えられないようになるでしょう。

お道の教えに、このようにあります。
『人間は、生まれるときに証文を書いてきているようなものである』
生まれてくるときに、自分はどのような働きをしてお役に立ってまいります、
ということを神様と約束してきたということです。

仕事で苦労することも、自らが証文に書いたことを達成できるように、鍛練の場を与えられているのだ。
今の自分にとっての、最善、最高、最適の状況、仕事が与えられているのだ。
そうして、与えられた仕事に御礼をさせて頂くことが大切です。 
そのように仕事を喜んでさせて頂いていると、仕事のほうも喜んでくれて、終始自分につきまとってくれるようになる、
それが道理というものです。

「仕事」という字は、「仕」も「事」も「つかえる」と読みます。
では一体誰に仕えるのかと言えば、神様につかえるのです。
神様につかえる心で、与えられた仕事をまっとうする中で、人は「生きがい」を得るのです

慢心が出るとおかげを取りはずす

人間の性(さが)とは悲しいもので、
金を持たない者が多少の金を持つようになると、金を持たぬ者を見下す心持ちになる。
大きな会社に勤めれば、小さな店を侮って見るようになる。
役職に就けば、今まで同輩であった者に対して、尊大な態度で接するようになる。
人間の自己顕示欲が、競争社会の中で勝ち得た優越感から、醜い相として現れるのです。

かつて経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、
「豊臣秀吉もナポレオンも素晴らしいリーダーであったが、二人とも幸せな晩年を迎えることはできなかった。
それは、おそれるものがなかったからだ」と部下に教えたそうであります。

実業会において、怖いものがないほど登りつめられた松下幸之助が教えた「おそれ」とは、
ただ何かを怖がるというような意味ではなく、神仏を畏れ敬い、
人間の欲望を畏れ慎むという意味が込められていたのではないかと思うのです。

いくらお金を稼げるようになったからと言って、
また、いくら人としての生き方が分かったからと言ったところで、
自分の思いや行いが百パーセント間違い無いなんてことは有り得ません。
気を抜けば、怠け心が起こる。傲慢になる。人を見下したりもする。
そうなってしまう自分の弱さが怖い。
また、そのような傲慢を許さない、この天地を貫く道理、働きというものが怖いのです。

お道の教えに、このようにあります。
『人間は、財産ができたり、先生と呼ばれるようになると、頭を下げることを忘れる。
信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。
天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。慢心が出るとおかげを取りはずす。』

幸せや成功があるのは決して自分の力からではない。
もともと何の力も無い自分が、この天地に生かされて、人のお役に立たせて頂いているのであります。
何事も「させて頂く」ことである、ということを忘れてはなりません。

心構えを改める

高きに登りたいというのは、人間の性であります。
子供は椅子や机の上で万歳をする。
大人になれば、山の絶頂から御来迎を拝む。
では、それで満足するかと言えば、決してそうではありません。

高きに登る道中で、人間が満足出来るのは一瞬だけのことであり、
すぐに「もっと欲しい」という欲望に駆り立てられる。
富士山に登った者は、次はもっと高い山を目指すのです。
もっと高い山を登ったならば、次は月や火星を目指すのです。

もし高きに登ることだけを人生の目的とするならば、富士山に登ることが出来ても、
火星に行くことが出来なければ目的は達せられません。
たとえ火星に行くことが出来ても、金星に行くことが出来なければやはり目的は達せられないのです。
かくして高きに登りたいという人間の切なる願いというのは、必ず中途半端に終わるのです。

名声や地位やお金を目的とするのも同じことで、
それはどこまで追って行っても上には上があって、ついに最後の満足は得られることなく、
人生は空虚な夢想に引きずられていくに過ぎません。
名声や地位やお金というのは、目的としてハッキリしているようで実は大変ぼんやりしており、
アテにならないものであります。

そこで、人生の本当の目的について考える必要があります。
そもそも山へ登るのは、頂上に達するのみが目的ではありません。
むしろ途中の景色を観賞するところにこそ、本当の楽しみがある。
この人生においても、目的は何か一定のものにあるのではなく、
行く道々にあって如何に喜び楽しみ、道中出逢う人々と如何に仲良く
楽しい時間を過ごせたかというところに、本当の目的があるのです。

千の富に安心出来ない者は、万の富にも安心することは出来ない。
一つの名では満足出来ない者は、二つの名でも満足することは出来ない。
安心出来るかどうか、満足出来るかどうか、それは富や名声の大小にあるのではなく、
己の心構えにあるのです。

心構えを改めれば、この人生をより安心に満足して歩んでいくことが出来る筈です。

心の稽古

お道の教えにこのようにあります。
『信心の浅い時には、人から悪く言われるとすぐ腹が立って、こらえきれないで、すぐに仕返しをしようなどとする。
しかし、信心が少し進んでくれば、人から悪く言われると、腹は立つけれども、
信心しているからと思って堪えられるようになってくる。
信心がずっと進んでくると、人から悪く言われても腹が立たない。
腹が立つどころか、かえってその人が気の毒になる。』


臨済宗中興の祖と称され、五百年に一人の名僧といわれた白隠(はくいん)禅師に、このようなエピソードがあります。
ある人が、「和尚さん、あなたの怒った顔を見たことがありませんが、
あなたには腹が立つということはないのですか」と伺ったところ、
「石の地蔵さんじゃなんだから、わしだって腹が立つぞ」と答えられた。
「でも、和尚さんの怒ったところを見たことがないですが…」と不思議がると、
「わしは腹は立つけど、怒らんだけじゃ」と答えられたそうであります。

腹は立つけど、怒らない。なんとも不思議な表現ですが、よくよく考えてみますとその通りなのです。
人間、腹を立てないと発奮もしませんし、社会の悪にも義憤を感じなくなる。
しかしそこで怒って、ただ感情に身を任せてしまうかどうか。ここに大きな違いがある。
つまり、腹が立つという本能的な反応と、実際の行動との間に、
私たちの「心」があり、実際の行動を自分自身で選択する自由があるのです。

動物は本能によって行動することしか出来ませんが、
人間は心をつかって、全く新しい行動パターンを自分自身で描いていくことができます。
ここに人間に与えられた無限の可能性があるのです。
それが良心であり、お道で言うところの「分け御霊」
(人間がこの世に生を受ける時に、神様から与えられた魂)のお働きなのです。

私たちが本能の奴隷とはならずに、「怒り」と上手に付き合っていくためには、
神様から与えられた「分け御霊」がいつでもお働き下さる心の在り方となっておく必要があります。
その稽古をさせて頂くことが信心なのです。

「幸」と「福」

普段私たちがよく口にする「幸福」という言葉は、
学問的には「二種類の良いことの集まり」であるそうです。

「幸」と「福」、同じ「さいわい」という意味で用いられる言葉でも、
「幸」という字は、その「さいわい」の原因が、自分の力によるものではなく、
たまたま他から与えられたに過ぎないものを言います。
金持ちの家に生まれ育ったとか、ルックスに恵まれたとかいうのは、まさに「幸」であり、
「さいわい」には違いありませんが、偶然の産物でありますから、いざというときに当てになりません。

これに対して「福」の方は、その「さいわい」の原因が、自分自身の努力によるものを言います。
つまり、実際に苦労して苦心して得た「さいわい」を「福」と言うのです。
福という字を見れば分かる通り、示偏(しめすへん)は神様のことで、
つくりの方は「収穫を積み重ねた」ということ。
すなわち「福」とは、神様の前に積み上げられたものを意味します。
要するに信心とは、いたずらに「幸」を求めることではなく、
「福」が与えられるような生き方、つまり、人を助ける神様の御用をさせて頂くことなのです。

お道の教えにこのようにあります。
『神を使うて、神に使われることを知らず』

自分が神様を使うのではなく、神様に自分を使って頂く。
そこにこそ本当の「さいわい」があります。
教会で御祈念をし神様に願ったなら、そのわが身に神様を頂いて家庭や職場に御用に行かせて頂くのです。
家庭や職場に難儀があれば、その難儀のある家庭や職場の中に入り込んで、
わが身を使って人を助ける神様の御用に立たせて頂くのです。
これまでは自分ばかりが重荷を負わされている、
面倒な事ばかりさせられる、我慢ばかりさせられる、そのように思っていた…。
これからは人を助ける神様の御用をさせて頂くと心に決めて、
自分の手足を通して、自分の生活を通して、神様の生きておられる働きをさせて頂く。
そうした生き方こそが、幸せな人生を約束してくれるということなのです。
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