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厄日に風が吹いても

『厄日に風が吹いても倒れさえせねば、吹かなかったと同じであろう。
信心していれば、どこにどのような風が吹いておろうとも、吹く風に時を嫌わして下さる。
たとえ風が当たっても、おかげの風にして下さる。
ご信心さえしていれば、厄年も無常の風も恐れることはない。厄年がかえっておかげの年になる。』


「自分には、取り立てて心配な事は何も無い」と言われる方がおられますが、
どんな人でも突き詰めて考えてみた時に、「これでもう安心だ」と言い切れるものなど、実は何一つ無いのですね。

健康のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと…。
どれ一つをとってみても、これでもう心配はいらないと保証し得るものなど何もありません。 
「何も言うことが無い」というのも、言ってしまえば、今はたまたま異常な事態に出逢っていないというだけのことであって、
一度異常な事態が起きてくれば、その苦しみを背負って生きていかねばなりません。
「無常の風」とは、諸行無常という仏道の教えです。一切の形あるものは、常に変化していく。
風が花を散らすように、人間の命も無常が奪い取る。無常の風は時の良し悪しなど待ってはくれません。
そのように、元来、人間はわが身がわが自由になるものでないのですね。
しかし、そのような過酷な現実に対しても、「時」の流れの中に神様の計らい(ご時節)があると説いているのです。

ご時節のお繰り合わせを頂いたら、「無常の風は時をきらわぬ(時を選ばない)」と嘆くことはない。
この世がたとえ諸行無常であっても、
人間を生かし育んでくださっておられる親神様のおかげを受けて生きるという、
人間の依るべき根っこをはっきりと掴んでいれば安心なのです。

「信心する者とせぬ者とでは、親のある子とない子ほど違う」という教えも、
そのような神様のお働きを指しているのです。

人に向かう心を神に向けよ

『人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、
腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。』

自分の心の内に、「認められたい」「理解してもらいたい」という相手への期待があるのに、その通りにならない。
それどころか非難までされる。
しかし、よく考えてみますと、世の中すべての人から認められ、理解してもらえる、
などというのは幻想ですので、そのような甘えや期待を捨ててしまえば、もっと楽に生きられるようになります。

「誰にも非難されない人」なんて歴史上一人もいなかったですし、これからもそのような人など出てきません。
意見を述べる者には必ず非難があり、どんな見解に対しても必ず反対意見が出る。これが現実です。
自分にとっての「好き」を語るということは、必ず誰かの「嫌い」を刺激することになる。

非難する相手は相手で、自分の意見と違う意見を聞いて、
それなりに傷つき、自分自身を納得させたいために攻撃的になっているのです。
それは世の中の仕組みで仕方のないこと。苦しいけれど、受け入れてしまいましょう。
沈黙していれば「むっつりしている」と非難され、
たくさん話せば「うるさい奴だ」と非難され、
ニコニコしていても「何か裏があるに違いない」と非難される。
そのような人の心を頼りにしたところで、自分が苦しむだけなのです。

信心とは、何かに頼る心ではありません。
相手にこちらの思うように動いてもらおうとするのではなく、むしろこちらが相手の思うように動きたいと願うことです。
挨拶でも、親切でも、仕事でも、こちらからさせていただくところに人間の本当の幸せがあります。

本当の夫婦関係、友人関係というものは、お互いに頼ろうとはしないものです。
相手に頼ろうとしないで、むしろこちらが相手の頼りになろうとする。
そういう人間同士が一緒に生活をして、友人となり、夫婦となり、親子となった時に初めて、
それが本当に頼りになる関係となるのです。

親と子

『神は人間の親様である。
信心をする者は、一生死なぬ父母に巡り合い、
おかげを受けていくのである』


神様とは、人間を祟ったり罰を与えたりする存在では無く、人間を愛してやまない親神様なのですね。
考えてみれば、数多ある人間関係の中でも親と子の間柄ほど、根本的に「善いもの」はありません。
何故それほど善いかというと、それは、親が子を無条件に許すところにあります。
親は子どもの事を子ども自身が知っているよりもよく知っており、
子どもの欠点短所をもよく知っていて、その上で可愛がることが出来る。その欠点短所を許すことが出来る。

子どもからすれば、この「知っていて可愛がってくれる」、「知っていて許してくれる」、
ここに有り難いところがあり、助かるところがあり、育てられるところがあるのですね。

自分の秘密を親ほどよく知っていて、もし可愛がらないということになれば、これほど恐ろしい敵はいませんよね。
油断も何も出来たものではない。
けれども、子どもが親の前では用心せねばという気が少しもしないのは、
自分のそのまま、ありのままを親が愛してくれる、許してくれる、と子ども自身がよく分かっているからなのです。
その深い親しみは何とも言えぬものですが、もし名をつけるとすれば、これこそが「信じる」という心持ちなのでしょう。

他の人間が自分のことを本当に愛してくれていると信じ切れる時、人は心から落ち着くことが出来ます。
その代表例が、親と子の関係なのです。
同じ親でも、神様は人間よりも遥かに気が長く、心が広い。
責めるところが一切無い為に、ものを言われることもない。
これ程愛情深い親はいないのです。
私たちがこの人生で信心のご縁を頂くことは、その親神様と出逢ったということ。
その「一生死なぬ父母」に巡り合えたことに御礼を申し、
親に恥じぬ生き方を心掛けていくのが、信心なのです。

休憩所

人生はしばしば登山に喩えられますが、実際に山登りをさせて頂きますと、
ただひたすら登り続けるというものではないことに気付かされます。
どのような山を登らせて頂いても、ある程度登ったところで必ず平らな場所が用意されている。

おそらくそれは、山を登った先人たちが、後から登る者たちの為に、ちょうど良い距離、
ちょうど良い場所に「休憩所」として準備して下さったものなのでしょう。

人生で言えば、成功を求めて一生懸命に頑張っている時とは、まさに山に登っている最中なのです。
しかし時に様々な理由から登れない時がある。山でいう平らな場所に出逢うのです。
人によってはその平らな場所のことを、挫折とか失敗だとか言ったりするのですが、決してそうではありません。
それは神様が準備して下さった、言わば「休憩所」なのですね。

休憩所の休憩所たる値打ちは、そこでこれまで進んで来たことを整理して、
そこから更に次に進んでいくための用意をするところにあります。

今より高い場所に登るために必要だからこそ、
神様がわざわざその休憩所を準備して下さっているのです。
ここでしっかりと今までのことを省みて、感謝させて頂かなくてはもったいない。
ここまで登ってくるためにどれだけの人が力を貸してくれたか、助けてくれたか。
目には見えぬ働きにどれだけ自分が助けられてきたか。
そのように、自分自身に問うてみてはいかがでしょうか。

自分と他者、自分と自然との関わり合いを見つめ直すことで開けてくる人生があります。
自分を生かす無数の働きに目を向け、耳を傾けることで、もちつもたれつ、
「お陰様」の本当の姿が見えてくるのです。
夏の暑い太陽の直射も、大樹の茂る枝葉が涼しい陰をつくってくれます。
その働きを、恩恵として受けとめて、「お陰様」となるのです。

山を登ることに必死になっていた時には見えなかったもの、聞こえなかったもの。
そこに気付かせて頂く、再確認させて頂くところに人生の休憩所としての値打ちがあるのです。

天地の心

『何事にも我を出すな。
…天地の心になっておかげを受けよ』


我というものは、一つの事にこびりついて動かぬことを言います。
物事に対して、こうでなければならない。こうあるべきだ。
そのような自分勝手なこだわりから、心配や不足の心が出てまいります。

あの人はこうだ、こうあるべきだ、と決めつけてしまう心があるために、
その人のことで色々と困ったり腹を立てたりしなければならなくなります。

もしも、それがもっと広い心にならせて頂ければ、相手が何か自分にとって困ることをしたとしても、
何故そういうことをしたのだろうか、何か訳があるに違いないと、
その周囲の事情や、相手の性格などを考えて、十分に察することも出来るでしょう。

一人の人間を相手どって、ああだこうだと責めないで済むようになるでしょう。
そのようになってはじめて、人間関係で助かりを得たと言えるのです。

では、どうすれば「我」を出さないようになれるのか。ここが肝心ですね。
そもそも「我」とは、自分の力で生きているのだと勘違いするところから生まれてくるものです。

自分の力や努力のおかげでここまで来た。欲しいものを手に入れた。周囲の役にも立っている…。
「我」が無い人間はいませんが、一生懸命頑張る人ほど、「我」も強くなりやすいのです。
さらに「我」のタチの悪いところは、その性質上、外からは決して壊せないのです。
それが故に、人から諭されようが、責められようが、かえって一層「我」を募らすことになるばかりなのです。
そのような強力な「我」というものにも唯一の弱点があります。
それは「詫びる」ということ。自らの「我」を詫びる時、不思議と消えるのです。

ですから、信心とは、自らの「我」を詫びていくことと言っても過言ではありません。
そのために教えを聞くのです。
山を流れる川の水のように、途中の岩や木の根にぶつかりながらも、さらさらと流れていく。
そのような何事にもとらわれない在り方こそ、私たちの求めてやまぬ生き方なのです。
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